5・1③ たかがそれだけの差で

 力任せに自転車を漕ぐ。季節外れの量の汗が背中を流れる。額の湿り気を手の甲で拭う。耳に押し当てたケータイから聞き慣れた音声が流れた。


『ただ今、電話に出ることができません……』

「あー! クソッ!」


 消化できない怒りの矛先を、ペダルにぶつける。踏みつけるように漕ぐと、目の前の景色が勢いを増して過ぎ去っていった。


 すっかり見慣れた、まともに舗装されていない田舎臭い田んぼ道。自転車で走るうちに、脳に焼き付いた声が再生されていた。



 駐輪場。胸倉を掴む俺の腕を振り解いた赤松が、苛立ちながら放った言葉を思い出す。


「俺だって詳しくは知らないよ。お前が知らないんだから俺が知るわけないだろ。でも、進路指導室であいつが『センターは一応受けますけど出願はしないつもりです』って担任に話してたのを見たんだ。嘘じゃない。確かめたいなら本人に聞けよ」



 暗くて狭くて壁が薄いカラオケの一室。木田が、珍しく真剣に語ってくれたことを思い出す。


「兄貴が寺継ぐの知ってるだろ? 寺ってのは世襲がまだ根強いし、先祖代々受け継いだものなんだから、親からしてみれば息子に継いでもらいたいもんなんだろうな。


 うちの場合、自然と兄貴が跡継ぎってことになってたんだよな。親父もじいちゃんも俺は眼中になくて、兄貴だけに寺のことを教えてた。檀家さんとか親戚にも、『お兄ちゃんが継ぐから安心だね』なんて言われてて。俺は気が楽だったよ。こういうのは普通長男が継ぐもんだろうって思ってたし、寺に興味なかったし、お盆とか年末年始忙しくしてるのを毎年見てたから。長男じゃなくてよかった、俺が継ぐ羽目にならなくてよかったって安心してた。


 中2の時、たまたま親父と進路の話になってさ。高校もだけど、将来のことはちゃんと考えろって言われてさ。だから俺なりに、どんな仕事がしたいのか、どんなことがしたいのか悩んだんだよ。いろんなこと考えたら、逆にやってみたいことがたくさんできて困ったりしたんだよ。


 でもふと、兄貴はこうやって考えることすらなかったんだろうなって気付いたんだ。あいつは一択。対して俺はいろんな選択肢がある。兄弟なのに明らかに違うんだよ。俺がいろんなものに興味があるのと同じように、兄貴だって他にやりたいことがあったかもしれないのに。あいつが坊主になりたいって言ったこと、考えてみれば一度もなかったし……。 


 もしかしたら、本当は継ぎたくないのかもしれない。家のために、周りのために、俺のために文句ひとつ言わずに受け入れただけかもそれない。自分が継がなかったらどんなことになるか、どれだけの人に迷惑かかるかきっと分かってただろうからさ……。


 たかだか二年先に生まれただけ。生まれた順番がちょっと違っただけ。それだけの差なのにな。あいつも俺と同じただのバカなのにな。


 もっと我が強い兄貴だったらよかったのにって思う。わがままで、家のことなんて一切気にせず自分の好き勝手に生きているやつだったらって。だったらこっちだって思う存分好きなことができたし、無理やり家を継ぐあいつを見てざまあみろって笑えたはずだ。おかげで変な罪悪感持つ羽目になったよ。


 兄弟って、いい意味でも悪い意味でも厄介だなって思った。最優先にできるわけじゃないけど、無下にもできないし、簡単には見捨てられない。


 ……でも申し訳ないなって思う反面、やっぱり兄貴が素直に継いでくれてありがたいって思う部分がどうしてもあるんだ。全寮制の学校に逃げて、見ないようにして、今もあいつの犠牲にタダ乗りしてる」



 早人が受験生だった頃。あいつは母さんに何度も「ごめんなさい」と言っていた気がする。

 塾の月謝を知った時、母さんの夜勤が増えた時、受験費用や学費を知った時。


 もしかしたら、あいつが落ちたのはわざとだったのかもしれない。

 二次試験も滑り止めも、腹を壊してトイレに籠っていたと聞いた。でも本当に腹を壊していたんだろうか。問題が解けなかったのではなくて、解かなかったんじゃないか。


 何年前の早人の誕生日だろう。あいつは俺にロウソクを消させてくれた。俺が火を消したいとしつこくせがんだせいで。


 真っ暗になった部屋で、自分のために用意されたはずのケーキを眺めながら、あいつが何を思っていたのか想像すらしなかった。


 俺も木田と同じように、兄はそういうものなのだと勝手に思い込んでいたのだ。下のために何でも譲ってくれるものなのだと、弟は兄に何でも譲ってもらえるものなのだと、都合よく考えてしまっていた。


 俺がいなければ、あいつは何も譲る必要はなかったのに。


 



 自転車を停める定位置には、すでに早人のものがあった。俺は投げ捨てるように自転車から降り、玄関を開け、階段を駆け上った。ケータイにぶら下がっているストラップたちが、はやすように不愉快な雑音を立てる。


 部屋のドアを開けると、私服姿の早人が黒いリュックを持って出かけようとしていた。部屋に飛び込んできた俺を見て、「おかえり。どうしたの?」とマヌケに尋ねてきた。


「お前、どこ行くんだよ」

「ん? バイトだけど、どうした? なんかあった?」


 なんかあった、じゃねえよ。

 とぼけた言葉に、何かがプツンと切れた。


「お前、どこも受験しないのか」


 俺の投げた直球は、見事に守備範囲外に直撃したらしい。目の前のマヌケ面が、一瞬で困惑に崩れた。


「それ……誰から聞いたんだ」


 否定よりも先に疑問が飛んできたことが、全てを表している気がした。

 覚悟はしていたけど、余計に視界が黒く沈んだ。頭でも心でもない、どこか奥底が、スーッと冷えていく感覚。


「やっぱりそうなのか。進学しないつもりかよ」

「あ、いや、その……」

「うるせえ黙れよ!」


 早人の肩がビクンと上がった。俺は溢れる言葉を吐き出しながら、その怯えた顔向かって詰め寄った。


「俺の学費でも稼ぐ気か? 自分が進学したら迷惑かかるとでも思ったわけか? 長男だから変な責任感持ったのか? ふざけんなよ! 俺よりちょっと先に生まれたからって兄貴ヅラしてんじゃねえよ! 勝手なことすんな! 俺はそんなの一度も頼んだことないだろ!」


 敵を牽制する最大の攻撃は何か、分かった気がする。相手のために、信じられないほどの自己犠牲を図ることだ。

 そうすれば、相手は何も逆らえない。一生分の貸しを与えることで、動きを縛り付ける事ができるのだ。


「お前昔からムカつくんだよ。殴っても泣くだけでやり返してこないし、なんか壊しても一切怒らないし、周りからバカにされても笑って受け流してさ。平気な顔してカス高でくすぶってさ。で? 挙句は大学すら行かないのか。なんなんだよ。なんでそんな簡単に諦めるんだよ。そんなことされた俺はどうしたらいいんだよ」


 首を絞められているように息が苦しい。鼻がつんと熱くなる。早人を責めているはずなのに、自分が責められている気がした。


 目の前のこいつが、何かを欲しがっているのを聞いたことがあっただろうか。言えなかったんじゃなく、俺が言わせないようにしていたんだろうか。


 自分が酷く、悪人に思えた。


「俺が働く」


 不意に溢れた。自分でも驚いた。

 でも呆然としていた早人の顔が、血抜きでもされたように青くなったのを見て、自分のその言葉を受け入れた。


「今からでも高校辞めて、俺が働く。お前が大学行くって言うまで働く。お前のせいで俺は中卒になるんだ。それが嫌なら大学行け! 頼むから! 俺とか母さんとかのためじゃなくて、自分のことだけ考えろよ!」


 悲しいみなのか怒りなのか、後悔なのか、もう分からなかった。昂った感情とともに目の前がぼやけ、頬に熱いものが伝った。

 瞬間、見開かれた早人の目が更に大きくなった。


 咄嗟に、早人の胸ぐらを掴んでいた。


「ゆ、勇人! 何だよ! 苦しい! 痛いって!」

「うるせえ! お前が考え直すまで離さないからな!」

「だから違うって!」

「何が違うんだよ! 言ってみろよ!」


 掴んだ部分を大きく揺さぶる。首が座っていない赤子のように、早人の頭がぐわんぐわんと前後する。

 弾みで早人の頭が壁に激突し、苦悶に満ちた顔が「いたっ」と鳴いた。俺に反抗することも怒ることもせず、ただ揺さぶられ続ける細い肩に余計苛ついた。


 一発殴ってやろうかと思った瞬間、ひっくり返った情けない声が鼓膜を突き刺した。


「大学は行く!」


 え。


 手が止まった。理解が追いつかず固まっているうちに、早人はもう一度口を開いた。


「お前は誤解してる。頼むから落ち着けよ」


 顎が外れたように口が塞がらない。胸ぐらを掴む手の握力だけが抜けていって、いつの間にかだらんと垂れた。


 俺が何も言えない間、激しく咳き込む早人の音だけがしばらく響いていた。

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