5・2① 嫌でも似てくるもの

――2008年9月――


 ばあちゃんからその話をされたのは、文化祭のずっと前。水を飲もうと、部屋からリビングに向かった時だった。


「ちょっと二人になれる? 大事な話があるの」


 通帳を持ったばあちゃんは、俺を和室に呼び寄せた。妙な雰囲気を感じつつも、ばあちゃんと向き合うようにして正座する。じんわり染み出る汗と、穏やかな畳の匂いがどうも不釣り合いで気味が悪かった。


「見てみなさい」


 血管が浮き出たばあちゃんの手から、通帳が差し出された。


「……え、え? なんで?」


 こういうものは普通子どもには見せないものなんじゃないか。誰から教わったわけでもないが、家庭の経済状況を詳細に把握することは、どことなく禁忌のように感じられる。「見てみろ」と言われても素直に従えなかった。


 なんで? ともう一度尋ねても、目の前の皺が刻まれた目尻は何も答えてくれなかった。俺が動くまで、一切語らないという決意が見える。


 逃げ場もなく、強いられるように通帳を開いた。凝視してはいけない気がして、パラパラ漫画のように素早く見送り、数字が刻まれた最後のページにだけ目を向けた。一瞬で言葉を失った。


 いち、じゅう、ひゃく……と桁を心の中で数える。通帳を持つ手が震え、何度も瞬きをして、見間違えではないか確かめた。


 動揺している俺をよそに、ばあちゃんは「勇人の分も考えると、ちょっとは奨学金を借りてもらうことになるかもしれない。それだけは許してね」と続けた。言葉が脳内処理されず、流れるように抜けていく。


 ようやく「どうしたのこんなに」とだけ、細い声で問うことができた。


「こう見えて、あなたが生まれる前から足腰が悪くなるまでずっと工場やシルバーで働いていたのよ。それに言ったでしょ。あの人が死んだ時、祥子の学費に充てるにはって」


 お盆前、蕎麦屋で聞いたあの話。ばあちゃんが初めて語ってくれた真実と、その時のばあちゃんの表情が蘇った。


「長年一緒にいたら嫌でも似てくるんだろうね。親子だろうと夫婦だろうと。考えれば分かることだったんだよ。祥子も昔、わたしに遠慮して、就職するって言い出したことがあったの。じいちゃんが入院してわたしが苦労しているの見ていたからね。あの時も、あの人が残してくれた通帳を祥子に見せて、必死に止めたっけね」


 部屋の奥に視線を移す。仏壇と写真立てが、いつも通りそこにあった。


「早人、遠慮なんかしないで本当にやりたいことをやりなさい。お金の心配は親がするものなの。子どもが考えることじゃない。わたしたちに気を遣うのはやめて。祥子だってそう思っているはずよ」


 もっと早く見せればよかった。ひどく後悔した様子で、ばあちゃんが呟く。


「でも……これはばあちゃんとじいちゃんのお金だろ。こんなの使えないよ」


 配膳と皿洗いとキャベツの千切りと、それから掃除までしたところで足元にも及ばない。通帳にこの額を刻むことができるまでに費やしたばあちゃんの時間を考えると、とても俺が消費していいとは思えなかった。


 ばあちゃんは今更何言ってるの、と呆れたように笑った。


「今まで散々養ってもらってたでしょ。今まで通り頼ればいいだけよ。わたしが何のためにこれを貯めたと思ってるの。祥子が何のために仕事してると思ってるの。それに……あの世には金は持って行けないんだから、生きてるうちに使っちゃったほうがいいじゃない」


 ばあちゃんから渡された通帳をぐっと握る。参考書の何倍も薄くて小さいその中に、重い歴史を感じた。 


「世の中には、大学に行きたくても行けない人、やりたいこと好きに選べない人が大勢いると思う。お金だって誰もが用意できるわけじゃない。だからこそ選択肢があるっていうのは、とても恵まれていることなのよ。わたしもあなたが羨ましいもの。だからもし大学に行くなら、早人が本当に行きたいところに行ってほしい。行きたくもない適当なところじゃなくて」


 長い年月を生き抜いた功労なのか、女性の勘というやつなのか、読心術でも心得ているのか。俺が口にしないものを全て読み取っているようだった。


 逸らしていた理想に手を伸ばすことができるんじゃないか。

 その思いから来る高揚感とともに、ばあちゃんたちの苦労にただ乗りしているような状況に、感情が波のように押したり引いたりを繰り返す。


 ばあちゃんはそれすらも見通していて、「将来あなたが立派な仕事に就いてお金を稼ぐようになったら、その時に孝行してくれればいいよ。わたしがボケてきちゃった時、いい施設でも見つけてちょうだい」と諭すように言った。


「ボケないでよ」


 二人きりの和室。震える声で、小さく言った。


「分かったよ」


 ばあちゃんは笑った。


「長生きするね」






――2008年10月――



「だから就職はしない。大学行くよ」


 はっきり伝えると、勇人の大きな目が更に拡張された。あまりの開き具合に、眼球がこぼれ落ちないか心配になってくる。


「は? どういうことだよ。出願しないんだろ?」


 まだ語気が尖っていた。


「今回は、な」

「は?」

「浪人する」


 すると勇人は、「はあああ!?」と分かりやすく狼狽えた。劇団員のように大袈裟な反応に、思わず頬が緩んでしまう。


「ようやく志望校を決めたんだけど、今からじゃとても間に合わないんだ。夏休みはいろいろあったし、羞恥心の練習で勉強どころじゃなかっただろ。それに今まではどっかに引っ掛かればいいか、くらいにしか勉強してなかったから……今の頭じゃ絶対落ちる。だから浪人して、一年間本気で勉強して挑戦することにした。来年、ちゃんと受験するよ」

「う、受けるって、どこを。浪人しないと受からないってどんな大学だ。まさか東大? カス高から東大行くとかドラゴン桜かよ」


 勇人が挙動不審のまま言った。喜怒哀楽のすべてを孕んでいそうな言い方に、笑みが零れた。


「なわけないだろ」

「じゃ、じゃあどこ受けるんだよ」

「関東医大」

「は?」

「関東医科大学₁」

「え、え!? それってどこだよ!」

「東京」

「は!? なんで?」

「国立だから」

「理由それだけか!?」

「奨学金制度がよかったから」

「へ、へー……あれ? 関東医大ってことはつまり医大だろ? それに国立? え、普通にやばくね? 行けんの?」

「やばいよ。だから浪人するんだってば」

「あ、そっか……。え、てかお前医大目指してたの? 全然知らなかったんだけど」

「隠してたからな。それに考えないようにしてた。無理だと思ってたし、諦めてたから」 


 もしばあちゃんの言葉がなかったら。俺の背中を押してくれなかったら。今とは違う道に進んでいたはずだ。


 興奮と喜びと困惑が脳内で衝突事故を起こしているらしく、目の前では勇人が右往左往し続けていた。

 その様子のおかげで、自分は割と冷静になれた。


「本当は落ち着いてから教えたかったのになあ。変に早とちりされて怒鳴られるわ怒られるわ泣かれるわ、散々だな」


 指摘されてようやく自分が泣いたことを思い出したらしい。勇人は勢いよく目を擦り鼻をすすり、証拠隠滅を図った。


 「ほら使えよ」とティッシュ箱を差し出すと、勇人は乱暴に手に取った。ティッシュを丸める勇人から「くそったれ」と悪態が吐かれる。


 そんな勇人が微笑ましかった。勘違いとはいえ、ここまで感情を爆発させてくれるとは。俺まで泣きそうになってしまいそうだ。


 俺よりも高いその肩に手を伸ばそうとした時だった。


「お兄ちゃん! どこ!」


 怒号とともに地を響かせるドスンドスンという爆音が上昇してきた。誰がこちらへ迫ってきているのかは、明らかだった。


「な、夏……? なんだ急に。なんであんなに怒ってるんだ」


 何かやらかしたっけ、と思いながら呟くと、勇人が「あ……」と蚊の鳴く声で絶望していた。


「向かってる途中、思わず夏にも電話で話しちゃったんだ……。ごめん」

「は? 電話?」

「お前が進学しないってこと。就職する気だって言っちゃった」

「はあ!? そんなこと夏に言ったのか!?」

「う、うん……」

「あー……バカ。最悪だ……」


 面倒くさいときに面倒くさいことが起きた。よりによって一番聞かれたくない相手に。

 勇人だから胸ぐらを掴まれた程度で済んだが、夏の場合部屋を半壊される恐れもある。勇人も同じことを思ったようで、紅潮していたはずの顔が面白いくらい青ざめていった。


 階段を駆け上がってくる爆弾。殴られ引っ掻かれながら、また同じ話をしなきゃなんないのか、と途方に暮れた。







………

₁架空の大学です。ご容赦ください。

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