5・2② わがまま

 騒動は十数分ほどで沈下した。顔を引っ掻き髪をむしり取ってくる夏を、勇人が羽交い締めしてくれたおかげで。


 急いで事情を説明すると、夏は「え!?」「マジで!?」「うそ!」と、これまたタレント並みのリアクションを見せてくれた。勇人はその様子が面白かったらしく、鼻をヒクヒクさせながら堪えていた。自分もつい数分前には同じような反応をしていたくせに。


 落ち着いたところで頭皮の安否確認を行っていると、「どうして教えてくれなかったの」と夏が不満げに言った。


「医者目指してたこと、なんで黙ってたの。勇人に言わないのはわかるけど、私には教えてほしかった」


 「どういう意味だよ」という勇人を無視し、夏は俺に詰め寄った。早く答えないとまた髪を引っ張られそうだ。


「なりたいとは思ってたけど、なる気はなかったんだよ。無理だと思ってたし、半分諦めてたし、本気で目指してなかったんだ。それに親が看護師だったから医者目指したなんて、ベタすぎて恥ずかしいだろ」


 夏はさらに口を尖らせた。


「でもなんで東京なの」

「へ?」

「医大なんて東京じゃなくったってあるでしょ。なんでわざわざ東京なの。関東医大ってお兄ちゃんでもギリギリなんでしょ。そんなに偏差値高い東京の学校じゃなくて、もっと近くのとこにすればよかったじゃん」

「国立は限られてるし、奨学金制度とか施設とかカリキュラムが学校によって違うんだよ。それに……」

「それに?」

「……それに、やれるところまでやってみたかったんだ」


 夏と勇人がほぼ同時に瞬きをした。


「俺ってさ、二人みたいに部活頑張ったわけでもないし、バイトしかしてこなかったし、友達付き合いもほとんどないだろ。得意なものは……勉強くらいしかない。だったらそれで勝負したいって思ったんだ。そうすれば少しくらいは誇れるものができる気がするから」


 口を閉じると、突然音楽が消えたように沈黙が流れた。妙に心臓が加速した。俯いていると、「そっか」と声がした。


「俺は応援するよ」


 勇人が、俺の顔をじっと見ていた。


「ただちょっと心配。中学受験の時も大変そうだなって思ってたけど、今回の場合比べ物にならないだろ。大丈夫か?」


 勇人の少し面倒くさそうな顔のせいで、俺も思わず「大丈夫じゃないと思う」と言っていた。だよな、と呟く勇人が苦笑いする。三者面談で「この成績じゃ厳しいですよ」と担任に告げられた時の絶望感に似ていた。沈黙が流れた。


 いざ目標を明かしたところで、現実的なことを考えれば重い空気になるのは必然だ。

 この空気を破壊するには、笑えばいいのか。バカみたいに明るくなればいいのか。自信ありげに胸を張ればいいのか。


 申し訳ないことに、俺にはどの機能も搭載されていなかった。どんな時もポジティブになれる人は、一種の才能なのだろう。


「じゃあ待ち受け、美輪さんにしたら?」


 俺と勇人の首が動いたのはほぼ同時だった気がする。向いた先にあった夏の顔は、無邪気な少女そのものだった。声を出したのは勇人の方だった。


「……お前、もっとマシなこと言えねえのかよ。それで受かるなら誰も苦労しないだろ!」

「いいじゃん! それで少しでも運気が上がるなら!」

「そうかそうか。じゃあお前も待ち受けはSMAPのキラキラデコレーションポエム加工画像じゃなくて美輪さんにしろ! そうしたらライブチケット当たるかもな!」

「何その言い方! 喧嘩売ってんの!?」


 そうして、二人の無意味な取っ組み合いが始まった。せっかく騒ぎを鎮静したのに、結局部屋が半壊することになりそうだ。いかりや長介ではないが、「だめだこりゃ」と言いたくなる。


 「助けてくれ!」と叫ぶ勇人を無視し、俺は机の引き出しから先日取り寄せた予備校のパンフレットを取り出した。










「これで全部だね」


 必要書類を記入し終えた母さんが顔を上げた。椅子を引いて書類を受け取ると、俺とはちっとも似ていない丸みのある可愛らしい字が目に入った。内容を確認し、記入漏れがないか目を凝らす。


 頬づえをついた母さんが「どう?」とあくびをしながら尋ねてくる。仕事帰りの母さんに、夜遅くまで付き合わせてしまったことに申し訳なさを覚えた。


「……うん。大丈夫だと思う。ありがとう」

「そう。よかった。じゃあもう歯磨きしな。私ももう寝なきゃ」

「分かった」


 近所にある予備校を複数調べ、母さんと相談しながらようやく一つに絞ることができた。年明けから入校ということになり、手続きがようやく終わろうとしている。


 書類を無くさないよう封筒に入れると、いよいよ本格的に浪人人生が始まるのだという現実が降りかかった。同時に、漠然とした不安が津波のように押し寄せる。


 この選択は間違っていないだろうか。今ならまだ別の道を選べるんじゃないか。後になって後悔しないだろうか。途中で挫折してしまわないだろうか。


 もう少しだけ力の抜けた時間を送りたかったと思う。眠い目を擦りながら授業を受け、放課後はバイトに行き、週末は家族とテレビ番組を見る、そんな気楽な日々を過ごしていたかった。いつまでも楽しい時間を送っていたかった。


 もっと欲を言うなら、幼少の頃に帰りたい。ただ夏と勇人と遊んでいればそれでよかった時期に。


 明るく元気で、健康に生きてさえいればそれで許されてしまう「子ども」という最強の属性だった時間。親に守られ、なんの不安も悩みも抱くことがなかった希望に満ち溢れた頃。


 こんな現実逃避にすぎないことばかり考えてしまう。それぐらい、この状況に圧死されかけている。


「早人」


 封筒を見つめていた視線を上げた。母さんの柔らかい目と視線がぶつかった。


「ありがとう。ちゃんと決断してくれて。早人が自分のやりたい事見つけて、正直に相談してくれて、本当に嬉しい」


 その瞳は曇りが一切見えず、始まってもいないのに折れかけていた俺の決意を奮い上げるようだった。


「母さんこそ浪人するの許してくれてありがとう。わがまま言ってごめん。迷惑かけると思うけど、頑張るから。本気で頑張る」


 封筒を握る手に、ぐっと力が入る。書類に皺がつかない程度に握力を抑える。


「全然迷惑じゃない。わがままとか言わないで。頑張ろうとしてるだけで偉いんだから。もし必要なこととかあったら遠慮せずに何でも言ってね?」 


 母さんの手がこちらへ伸びる。封筒を持つ俺の手を、細い手が包んだ。荒れているその手は温かくて、俺より少し小さくて、偉大だった。

 

 ありがとう、と小さく言う。母さんは笑って「うん」と頷いた。やっぱりばあちゃんの娘だなあと、ぼんやり思った。


「仕事ばっかりで側にいられなくて、早人の気持ちに気付いてあげられなくてごめんね。一人で悩ませちゃったよね。本当にごめん。今までずっと寂しい思いをさせてたし……母親らしいこと何にもしてあげられてなかったね」

「そんなことないよ。十分すぎるくらいだよ」


 自分のために尽くしてくれるこの人に、迷わず鼓舞してくれるこの人に、何ができるだろう。


「母さん」

「なあに?」

「母さんはさ、やりたいこととかないの?」


 唐突だったからか、母さんは「やりたいこと?」と首を傾げた。


「そう、やりたいこと」


 肌が記憶していた、湿気交じりの日差しが蘇った。でもそれは過去のことだった。息苦しさも、身震いする嫌悪感もなかった。


「俺は賛成だから。母さんがしたいことならなんでも遠慮せずにやってよ。俺とか勇人を気にして我慢してるなら心配いらないから。もう子どもじゃないんだからさ。だから……母さんも好きにしてよ」

「んー、今も十分幸せだけどなあ。早人と勇人が元気でいてくれてるし」

「そうじゃなくってさ。俺たちのことじゃなくて、母さん自身の話だよ。俺も勇人も、母さんに幸せになってほしいって本当に思ってる。まだ母さんの世話になってる立場だけど……母さんには、自分のために生きてほしいって思うよ。好きな服を着て、好きな場所に行って好きなものを見るとかさ。……好きな人と好きなことをして、楽しく暮らす、とかさ」


 語尾が震えた。唾を飲み込み、下唇を甘く噛む。

 少しの沈黙の後、母さんは溜息を吐くように「もう」と笑った。


「いつの間にこんなに大人になっちゃったの。ついこの間まで一人でトイレもいけない子どもだったのに」

「いつの話してるんだよ。もうそんな歳じゃないよ」

「分かってるよ。分かってるけど、でもできたら……わがまま言うなら、もう少し子どもでいて欲しいな」


 驚きで、変に咳が出た。俺の手を握る母さんの手の平が、優しく肌を撫でた。


「なんかね、こうやって成長したのを感じると、嬉しい反面すごく寂しくなる。早人が遠くに行っちゃう感じがして。もうこの子は私がいなくても平気なんだ、もう小さかった頃は戻ってこないんだなって思うと……ちょっと悲しい。子離れできてないのかな。私は早人にまだまだ子どもでいてほしいって思っちゃう。……いや、ずーっと子どもでいてほしい。いつまでも甘えん坊の早人でいてほしい。だから、あんまり急いで大人になろうとしないで」


 嬉しそうにも、寂しそうにも映る瞳。


「……そんなこと言われても困るよ。嫌でも大人にならなきゃいけないのに」


 あと二か月で、年が変わる。春が来れば、俺は卒業する。


 来週からテスト期間だと憂う時間とか、見当たらないチャリ鍵を必死に探し漁る朝とか、制汗剤の匂いが充満して息ができない教室とか、血糖値の上昇による眠気と必死に戦う昼過ぎの授業とか、吹奏楽部の練習を聞きながら駐輪場へ歩く放課後とか。


 そんな日常は永遠に戻ってこない。高校生だからと甘んじていられた世界から飛び出し、自分の足で歩いて行かなければならない。


 だからこそ春が来るのがどことなく恐ろしかった。時間が止まればいいのにと願ったこともあった。


 けれどようやく、春の向こう側に進んでみたいと思えた気がした。

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