5・3① ないものねだり
――2009年12月――
お菓子が並べられた陳列棚を右から左へ眺めていると、客が入ってくるチャイムの音がした。すぐに店員の「いらっしゃいませー」という声が飛ぶ。自動ドアの向こう側には、すっかり真っ暗になった空と、街頭の光が見えた。
入店した作業服の男はまっすぐレジへと向かい、店員に「マルメンライト」と告げた。店員は新人なのか、棚をきょろきょろと見回している。思わず、自分も目で探しそうになった。
そんな店内では、クリスマスケーキの宣伝放送が騒々しく流れている。おかげで、『予約受付中!』という声が鼓膜にへばりついて離れない。
「あれ? カール入れたっけ?」
視線を手元のカゴに戻すと、鼻と頬を赤く染めた夏がカゴの中を覗きこんでいた。ショートボブの頭に、砂糖のように付いていた雪たちはとうに溶け、雫となって髪を濡らしている。
「……とっくだよ。忘れたのかよ」
じゃがりこ、コパン、ポッキー、たけのこの里、チョコパイにわさビーフ……。
すでに大量のお菓子がカゴいっぱいに入っている。今からホームパーティーでもするのかと勘違いされそうだ。
「そっか。じゃああとアイスだけ買って帰ろう」
「はあ? まだ買うのか。しかもアイス?」
つい数分前まで手袋をした両手を擦りながら「寒い寒い」と言っていたくせに。
「うるさいなあ。別に食べながら帰るわけじゃないんだからいいでしょ。それにコタツで食べるアイスが一番おいしいって知らないの? そもそもあんたが言ったんじゃん。合格祝いに何でも買ってやるって」
「そうだけどさ、普通こんなに買うか? 遠慮って知らないのか。俺が少ないバイト代で生きながらえてるの知ってるくせにあれもこれも入れやがって。こんなことならコンビニじゃなくて駄菓子屋にすればよかった」
大袈裟に長財布の中身を確認すると、夏は「ムカつく」と
「あーあ。ないや」
「何が」
「新作のハーゲンダッツ」
「お前よりによってコンビニでハーゲンダッツ買おうとしてたわけ? 悪魔だな」
「うるさいなあ。……まあここにないなら仕方ない。スーパーカップにしよう」
取り出されたのは、バニラ味のスーパーカップ。それを見て、どうせ口周りを白くして食べるんだろうなと簡単に予想できてしまった。「あーでもやっぱりハーゲンダッツ食べたかったなぁ」とボヤく仏頂面を、俺は黙って受け流した。
「あれ、もうこんな時間? JIN始まっちゃうよ!」
声はカゴにアイスを投じたのと同時だった。夏につられて時計を見ると、針は8時半を指していた。
素早く会計を済ませ、出口へと向かう。自動ドアが開くと、遮断されていたはずの冷気と外界の音が全身を包んだ。
うんざりするほど暗く、寒く、静まり返っている空。はらはらと舞い降りてくる雪は大きさも形もまばらで、散るスピードすらも不揃いだった。
店を出ると、夏が足跡ができていない綺麗な雪道をあえて進んでいた。片栗粉を踏むような音がする。俺よりも数センチ小さい夏の足跡を、上書きするように歩く。かつて俺の足が夏のものより小さかった頃があったことを思った。
足元ばかりを見ていると、夏の「早く!」という遠吠えのような叫びが飛んできた。大きな口から、白い息が湯気となって吐き出されている。
夏と過ごす、13回目の冬だった。
♢
「勇ちゃんは進路どうするの?」
美味しく煮物を食していたところだったのに、現実をぶち込まれた。頬づえをついてこちらを見つめるおばさんと視線がぶつかる。
負の感情のまま、器に乗った大根に箸を突き刺してやった。ちょっとした抗議だ。案の定、「刺さないで食べなよ」と咎められた。
「考えてるけどさ、考えすぎて嫌になってるよ」
大根を咀嚼すると、いつも通り香り豊かな出汁が喉を通過し、食欲を刺激された。食べたはずの夕食はどこへ消えたのやら、箸が止まらない。
「そっかあ。でも勇ちゃんも春から3年生なんだから早めに決めちゃいなよ。夏果がどうにかなったんだからきっと大丈夫だろうけど」
「……確かに。夏が進学できるなら俺もできるな」
わざと皮肉っぽく言うと、おばさんは口に手を当てて楽しそうに笑った。
夏は先月、短大の合格通知を受け取った。あいつが選んだのは家から通える距離にある普通の学校。受験勉強から解放された夏は、残り僅かとなった高校生活を思い切り謳歌しているわけだ。
まさか早人よりも早く進路が決まるとは、そもそも夏が合格できるような学校があったとは思わなかった。変に高望みせず自分の偏差値に見合った学校を選べばいいのかもしれないが。
「もう夏果も卒業だなんてあっという間。この間まで小学生だったのにもう短大生かあ。子どもの成長についていけない」
囁くように話すおばさんの目に宿されているのは、喜びの色ではなかった。俺も僅かながら覚えていた虚しさと似ている。
俺だけが取り残される。二人はいつも先にいなくなってしまう。小学校でも中学校でも同じだった。俺がいつも最後だ。
虚ろな目のまま、「2009年も終わるね」とおばさんが呟く。「そうだな」と俺も呟く。溜息とともに、この一年間のことを思い返した。
草彅くんが全裸騒ぎを起こした、とか。それを知った夏がパニックになり大暴れし、危うく近所から通報されるところだったな、とか。
オバマ大統領が就任し、彼が放った「Yes we can」というフレーズが意味がわからないほど流行ったな、とか。
世界のスーパースター、マイケルジャクソンが突然死んで世界中がショックを受けたな、早人もしばらく放心状態だったな、とか。
そんな2009年も、残り十数日。今年も例年通り、みんなで夏の家に集まってすき焼きを食べるのだろう。紅白歌合戦を眺めながら肉をつつくのだろう。北島三郎が歌い始めたところで、たいして腹も空いていないのに無理やり年越しそばを啜るのだろう。
ふと、去年の大晦日に夏が紅白の始まる直前まで窓を見つめていたことを思い出した。いつもならSMAPが画面に映る瞬間を見逃すまいと、テレビの前から頑として動かないのに、まるで忠犬ハチ公のようにじっと窓から動かなかった。
「紅白始まるぞ」と俺が話しかけても、おばさんやばあちゃんが鍋に牛脂を投入しても、長ネギや牛肉を焼き始めても変わらなかった。肉を焼きながら、「あいつはまだ帰ってこないのか」とおじさんがぼやいたのはNHKニュース7に入った頃だっただろうか。
しばらく銅像のように動かなかった夏が立ち上がったのは紅白の5分前。玄関が開いたと同時に駆け出したかと思うと、すぐに「うわっ」という頼りない声が届いた。女のものではない、低い音だった。
「お帰り。もう野菜煮えてるよ」と母さんが。「こんな時間まで勉強なんて偉いね」とばあちゃんが。「大晦日くらい家にいたらどうだ」とおじさんが。
リビングに入ってくる二つの人影にみんなが笑いかけていた。
俺はつい、何回も何回も器の中の卵をかき混ぜて、その光景を視界に入れないようにしていた。ぐるぐるぐるぐる、泡が立つほど混ざった黄身と白身の中で、箸を回していていた気がする。
「ご馳走様。いい感じに小腹が満たされた。ありがとう」
箸を置くと、おばさんが満足そうに頷いた。
「いいえ。また食べたくなったら言ってね」
「いいの? だったら毎日作ってもらうことになるけど」
「嬉しいこと言ってくれるね」
「当たり前だよ。この味が食べられなくなったら困る」
おばさんの料理を食べるたび、東京の大学を目指す早人はある意味バカだなと思ってしまう。絶対にこの味が恋しくなるに決まっているのに。
センターを控えた今、あいつは特に熱が入っていて、予備校の自習室に入り浸っている。毎日10時間以上は必ず勉強しているらしいが、それでも合格ラインギリギリだという。
学年トップだった早人ですら合格できるか分からないとは、医大のレベルの高さに気を失いそうになる。
でも早人はカス高だったからトップだったのであって、進学校でも同じようにトップになれるわけではない。上には上がいる。
それに目指しているのはただの医大ではない。全国の秀才が血眼になって目指す国立医大という狭き門。井の中の蛙が挑戦するには壁が高すぎたのだ。
ある夕方、二階に行こうとリビングを出た時、玄関から廊下にかけて伸びるように気絶していた早人に遭遇したことがある。片方だけ靴が脱げているというシンデレラ状態で、恐らく家に着いた途端気が緩んで寝落ちしたのだと察した。
そんな早人を背負い、ベッドに寝かせてやると、目の下のクマと、右手の中指にできた大きなペンダコが目に入った。ゴミ箱に溜まった湿布も。床に転がったコーヒーの空き缶たちも。
時々、早人は深夜に「俺っていつ寝たっけ?」「夜ご飯って食べたっけ?」などと寝ぼけたことを言って俺を起こしてくる。「一緒に飯食っただろ」とか適当に返事をしてやると早人は安心し、素直に布団に戻っていく。
そんな定期的に訪れる睡眠妨害に、舌打ちしたくなる時もある。でも俺が不意に目を覚ました時、決まってあいつは机に向かってペンを走らせている。基本俺より遅くに寝て、俺よりも早く起きて参考書を開いている。それで結局、なんにも言えなくなってしまう。
最近、妙なものに追いかけられる感覚に襲われる。自分を責め立てているような、自分を睨みつけているような、そんな黒い何か。
原因は何なのか、きっとずっと前から分かっている。分かっていて、無視に徹している。
罪悪感だとか自己嫌悪だとか羨望とか嫉妬とか、誰かと自分を比較することに、俺は多分、飽きている。
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