第5章 世界の終わりに、愛を叫ぶ

5・1① ふざけんな

――2008年10月――


 文化祭という名の二日間の非日常は、予想以上に秒速で終わり、すぐに退屈な現実がやってきた。


 異世界に連れ出されたのかと思うほど色とりどりの装飾で変貌していた校舎も本来の姿を取り戻し、どこにでもある古ぼけた建築物へと成り下がった。

 あれほど湧いていた校内も静まり返り、全校生徒皆がいち高校生に戻った。まるで学校全体が切り替わったようだ。


 ただやはり文化祭の影響力は凄まじい。どこへ行っても「尾崎豊歌ってたよね?」とか、「後夜祭出てたよね?」などと話しかけられる。その上メアドや恋人の有無を三日に一回のペースで尋ねられ、ちょっとした有名人気分だ。


 特に面倒なのは野郎ども。こぞって「よお尾崎!」と俺をいじったり、「羞恥心踊ってくれよ」と絡んでくる。


 尾崎は仕方ないとしても、『羞恥心』はただの災難だ。優勝できなかった上に、例のコレクションもディズニーチケットも手に入らなかった。


 早人は土下座しながら謝ってくれたが、早人も早人で周りから「優勝できなくてドンマイドンマイ」といじられたという。実際、廊下で早人がクラスメイトらしき男子たちからからかわれているのを見た。兄弟揃って被害に遭っているというわけだ。


 こんなことになるなら、協力なんかしなきゃよかったと死ぬほど後悔している。

 





 夕方、暇を持て余した俺はベッドで寝ころびながら少年ジャンプを読んでいた。


 セリフが頭に入らないほど、惰性と眠気に包まれていたせいか、全く気が付かなかった。夏が制服姿のままドアの前で立っていることに。


 ふとした瞬間に夏を見つけた俺は、情けなくも「うわっ」と声を上げてしまった。持っていたジャンプがベッドの上に舞う。

 「そこで何してんだよ。怖えよ」と言うと、ようやく夏が動いた。


 黙って早人の椅子に座り、ベッドの俺を凝視してくる。怒っているような、苛ついているような、文句があるような、そんな顔つき。


 顔に穴が開きそうなくらい鋭い視線が、俺を捕らえて動かない。耐えられなくて何か話そうとした瞬間、「あんたのせいで迷惑してるんだよね」と低めの声が俺を威圧した。


「迷惑?」

「そう。迷惑。あんたのことを紹介してってあちこちから言われてんのよ。幼馴染なんでしょーって」

「え……」


 まさかこんなところで二次被害が及んでいたとは。文化祭の影響力、恐るべし。


 動揺するばかりで何も言わない俺に苛ついたのか、夏はさらに強く言い放った。


「こっちはあんたの顔見ただけで殴りたくなるほどうんざりしてるんだけど」


 積年の恨みをぶつけているのかと思うほど俺を睨んでいる。肌を突き刺す瞳が、胃もたれのような重みをもたらした。


「あんたも少しは頭使いなよ」

「……どういうこと」

「彼女いるか聞かれた時さ、馬鹿正直にいないって言ったんでしょ。アホなの? 嘘でも彼女いるって言っちゃえばよかったじゃん。そうすれば女子がここまでホイホイ寄ってくることはなかったでしょ。本当、頭空っぽよね」


 空っぽと言われて、可笑しくも嬉しくもないのに口角が上がった。気まずい時、言葉が見つからない時、笑うことで感情から逃げているのだろう。


 先月、彼女と別れたと伝えた時だって、夏は「あっそ。まあ長い方だったんだじゃないの」とだけ言って、すぐに録画してあったスマスマ鑑賞に浸っていた。

 まさか自分が破局の原因だとは知る由もない無関心な横顔。それは俺の傷心にやすりをかけるような暴虐だった。


 でもそんな夏を見て、静かに笑みを浮かべてしまった。


 やっぱりそうか。なんも変わってないか。そりゃそうだよな。

 落胆と納得を同時に行い、現実を受け入れた。


 何も変わっていないのは早人も同じだ。


 あの曲を歌った時、静かだった水面に石を投げたつもりでいた。

 少しの波紋を起こすことくらいはできただろう。いくら鈍感な早人でも、俺があえてあの曲を歌ったことに、特別な意味を感じ取ってくれるだろう。そう思っていた。


 でも蓋を開けてみたら、何も変わらない日常が続くばかりで、変化は皆無に近かった。早人の口から飛び出たものと言えば、「お前ってあんなに歌うまかったんだな」という小学生でも言えそうな感想だけ。



「あー痒い」


 そう言って夏は背中からシャツの中に手を突っ込むと、背中を掻き始めた。


「ど、どうしたんだよ急に」

「背中にできたニキビにブラの紐が当たって痒いの。あーイライラする。もう家だし、ブラ外しちゃおうかな」

「は!?……お前さあ、もう少し考えろよ……」

「何を?」

「……俺の身になれよ」

「は?」 

 

 つくづく残酷な女だなと思う。俺の気持ちを知っていてあえて嫌がらせをしているのだと言われた方がよっぽど納得がいくくらい。


 どうでもいい相手だからこそ、異性として意識していないからこその言動が続くたび、俺の何かがポキッと折れていく。


 苦し紛れにジャンプのページをめくると、夏はさして興味もなさそうに「何読んでんの」と言った。「教えてもどうせわかんないよ」と言うと、夏は「そう」とだけ返事をして、そのまま黙った。


 数十秒から一分程度の沈黙。破ったのは夏の方で、「あのさ」と声を上げた。


「どうしてSMAPを歌ったの?」


 不意打ちで投げられた言葉に、心臓がわざとらしく跳ね上がる。

 もうページはめくらなかった。顔の表面温度が上昇していく。鼓動がうるさい。


 ただ、夏が俺に対して無関心ではなかったのだと胸を撫で下ろしてしまう自分がいた。多少の関心は寄せてくれていたのだと、安堵したのだ。


 そうして俺が沈黙している間に、夏は椅子から降り、ベッドに腰かけた。


「ねえ、なんで?」


 尋問するように迫り来る瞳は、先ほどとは違う色をしていた。警鐘を鳴らすように頭の奥が激しく痛み始める。気を抜くと、息することを忘れそうだ。


「みんなで話し合って決めたんだよ」


 自然と、夏休みのある光景が蘇った。


 原因不明の謎の臭いが漂う部室内。眠い目を擦りながら始まった会議。4人で円になって、何の曲をやるべきか意見を言い合っていた時間。


 どうしてやりたいのか、誰に何を伝えたいのか、誰に歌っている自分を見せたいのか。


 気が付けば俺は「SMAPがいいと思う」と口にしていた。『らいおんハート』がどのような歌詞で、どのような意味を持っていて、夏にとってどんな曲なのかも分かっていた。その上でこの結論に至ったのだ。


「話し合っただけ? それだけで星のようにある歌の中からあれが選ばれたわけ? おかしくない?」


 いかにも不満そうな夏の顔。


 事情を話してしまえば終わるのは分かっていた。

 きっかけは偶然だったのだと、もともと歌うつもりはなかったのだと、でもやっぱりお前を選んでしまったのだと、歌っている時お前のことだけを考えていたのだと、言えばよかった。それでも。


「どうしてだと思う?」


 夏はどうしてこんなことを聞くのだろう。俺からどんな言葉を引き出したいのだろう。俺がどう答えることを期待しているのだろう。


 ほんの少しの期待と焦り。俺は夏の反応を待った。

 夏はしばらく考えるそぶりを見せた後、首を傾げた。


「……さあ?」


 思わず溜息が出る。


 さあ、じゃねえよ。少しは考えてみろよ。何で言わなきゃ分かんねえんだよ。ずっと昔から行動で示してきただろうが。


 俺がどんな思いで毎日過ごしてると思ってんだ。お前が早人といるのを見るたびどんだけ不安になっていると思ってんだ。一日のうちどんだけお前のこと考えてると思ってんだ。学校にいる間、お前に会えないかと何回廊下を確認していると思ってんだ。お前の前でどれだけ平静を装ってると思ってんだ。


 何にも分かっていない能天気で無神経なバカ面に、一発仕掛けてやりたいと思った。


 咄嗟にその腕を掴み、こちらに引き摺り込む。「え、なに!?」と叫ぶ夏を力づくで組み敷き、見下ろした。突然押し倒された夏はひどく困惑していて、声も出さなかった。


 自分の体重を支える腕に重みを感じながら、夏の細いとは言えない手首を強く握りながら、震える口を開く。


「お前のせいだよ」


 痰が絡んだ喉風邪のようなしゃがれた声だった。適当に咳払いをして、「お前のせいだ」ともう一度言ってやると、ようやく夏の表情が変わった。それは半分予想していて、半分予想していなかった顔。


 俺は勘がいい方だ。顔を見るだけでこいつが何を考えているのか察しがつく。何を望んでいるのか、どんな言葉を求めているのか、それなりに分かる。目の前の瞳が写す感情も、当然。


 気付いてしまった自分の勘の鋭さを恨むと当時に、ドジを踏む前で留まれてよかったとも思った。


 静かだった水面に、わざわざ土砂崩れを起こして泥をぶち込むような真似をしたところで、二度と綺麗な水は蘇らない。小さな小石を投げ入れて波紋を起こし続けるくらいが、今の俺にはちょうといいのだ。


「冗談だよ」


 息を吐くように軽く言うと、夏の固まっていた顔が複雑に崩れた。何か言われる前に、早口で言った。


「なに本気にしてんだよバカ。冗談だよ、冗談。そんなマジな反応されると気まずいだろ」


 爆発的に激しくなる鼓動と酸欠で眩暈がする。脳みそが破裂しそうなほど苦しい。でも先に爆発したのは俺の血管ではなかった。


「……ふざけんな!」


 怒号とともに左頬に強い痛みが走った。引きちぎられるかと思うほど首が横を向き、首の骨が鳴ったのが聞こえた。


 バランスを失った体がベッドから落下し、頭をと床がきれいに衝突する。あまりの痛みに悶えている間に、そこにいたはずの夏は消えていて、荒々しい足音だけが階段から響き渡った。


 あまりの無様な自分の状況に、自然と笑みが零れる。


「なんでいっつもグーで殴るんだよ……」


 頬を擦る。熱を持っていて、じんじんと痺れている。


 今まで数えきれないくらい殴られてきた。引っ掻かれたり髪を抜かれたり股間を蹴り上げられたり、信じられないくらい痛い思いをした。


 でも今回は、今までで一番尾を引く痛みだった。

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