5・5③ 救いようのないアホ

 野球は9回裏ツーアウトから。少年野球時代、監督から死ぬほど言われた言葉だ。


 たとえ絶望的な状況だろうと最後まで足掻いた者に勝利の女神は微笑む。最後の最後で奇跡の大逆転劇が起こることだってある。勝負は最後まで分からない。すべてが終わるまで踏ん張れ。


 これは人生でも勉強でも同じだと、監督は言っていた。何事も最後まで諦めるな、どんなに無様でもみすぼらしくてもがむしゃらになれ。途中で投げ出す方が格好悪いのだからと。


 あの頃は、監督をクサくてイタいやつだとか、熱血スポーツ漫画の読みすぎだとか言いながら鼻で笑っていた。必死になる大人を見るたびに自分が恥ずかしくなるようで心地悪かった。


 どうして今になって思い出したのだろう。ずっと忘れていたのに。

 もしかしたら、自分が9回裏に立っていることを本能的に自覚しているからなのかもしれない。




「夏……?」


 アイスの入った袋を握りしめたまま、足が動かなかった。部屋に踏み入れるべきなのか判断できないまま石のように固まっている。

 あまりにも衝撃的すぎたのだ。夏が部屋で一人泣きじゃくっているところを見るなんて初めてだったから。


 なんとか足を一歩踏み入れる。冷たいフローリングが背筋までも凍らせる。足先で床が鳴った瞬間、ベッドの上に座り俯く影がこちらを睨んだ。


「入ってこないでよ!」


 びゅん、と何かが顔に飛んできた。咄嗟に避けると、それはドアにぶつかって床に落ちた。枕だった。カバーがめくれている。


 枕やクッションを投げられるのは慣れっこだ。辞書で殴られたことだってある。いつもなら危ないだろ、なんて文句垂れて終わること。なのに今は面白いくらい声が出てこない。


 なのに、頭が真っ白になるとはこういうことを言うのかと冷静に考え始める自分を殴りたくなった。次に理由を考えた。もしかしたら俺のせいなのだろうか。俺が何かやらかしたのだろうか。


 今日の昼過ぎ、バイトに向かう前、帰りにアイスを買ってくるよう言ってきたのは夏の方だ。だからこそいつも通りアイスを持って来てやっただけ。号泣されるようなことは一切していないはずだ。俺がバイトに行っている間に何かがあったということだろうか。


 思い返してみると、おかしなところはあった。


 バイトが終わったとメールしても、指定されたアイスが売ってなくて電話をかけても、仕方なしにハーゲンダッツを買ってやったぞと一報入れても音沙汰がなかった。てっきり居眠りでもしているのかと思っていた。こんなことになるとは。


 次に、何が正解なのか考えた。側にいて泣き止むまで待つべきか。落ち着いてから理由を尋ねるべきか。黙って立ち去るべきか。何も見なかったことにするべきか。


 俺が選んだのは、「無難」な道だった。


「と、とりあえずアイス冷蔵庫に入れとくからな」


 後退りするように徐々に廊下へ進み、部屋を出た。あ、冷蔵庫じゃなくて冷凍庫か。なんてくだらないことを口走りながら。


 夏は何も答えなかった。さっさと消えろと思っていたのかもしれない。俺は逃げ帰るように階段を下りて、家を飛び出していた。



 現在進行形でどろどろと溶け出すアイスのように、頭の奥が渦巻く。


 明日からどんな顔で夏に会えばいいのだろう。何も見なかったふりをするのが一番だろうか。変にツッコむと地雷を踏みそうな気がする。でも気にならないわけがない。できることなら理由を知りたい。


 あいつ、なんで泣いていたんだろう。


「お帰り」


 顔を上げると、すぐに目が合った。


 早人が床に座り込みながら段ボールをガムテープで留めていた。何度か失敗したのか、ぐちゃぐちゃに丸め込んだガムテープらしき物体が転がっている。

 「アイス買ってきたのか。俺のも頼めばよかった」と言われて、アイスを持ったまま自室に直行してしまったことに気が付いた。


「勇人」

「え、えっ、何?」

「冬服も持っていくべきだと思う? 荷物増えるし向こう付いた時荷解き大変かなーって思ってさ。とりあえず春服と夏服だけにして夏休みとかに足りない分持って行こうかな? どう思う?」

「あ、ああ……いいんじゃないか」


 部屋半分を見ると、午前中よりもすっきりしていた。最近は引っ越し準備で荷物を引っ張り出したりして汚かったのに。衣服やら謎の書類やらで空き巣に遭ったかのような有様だったのに。俺がバイトしている間、きっと必死になって片付けたのだろう。


 部屋の隅の段ボールの山。二日後に消え去る山。二日後に一人部屋になるこの空間。二日後に四人暮らしから三人暮らしに変わる家。


 俺が出ていくわけでもないのに、なぜか覚悟しなければという気持ちになる。


「な、なあ早人」

「ん?」


 ビリビリ、とガムテープが剥がされていく。たかが段ボールに苦戦する横顔に皺が寄る。


 お前、何か知ってる?

 

 聞いてやろうかと思ったが、結局「なんでもない」とリビングに向かっていた。


 無暗に探らない方がいい。そんな勘が働いた。あと二日で旅立つ早人に無駄にストレスをかけたくなかった。なんとなく、早人が知っていて欲しくないという願いもあった。


 冷凍庫を開けアイスを投げ入れる。手の甲の温度が一瞬だけ、ゼロになったように感じた。




 夏に呼び出されたのは、惰性で食パンを咀嚼しながら今日の天気予報を眺めていた時だった。『部屋に来て』とだけ書かれたメールが届いて、慌てて食パンを飲み込んだ。


 まさか呼び出しを食らうとは思わなかった。しかも次の日に。


 頼むから俺のせいではありませんように。そう願いながらドアをノックすると、すぐに夏が現れた。昨日とうって変わって平然としている。というか表情がなかった。人形というより、ロボットだ。


 促されるまま部屋に踏み入れる。昨日とはまるで違う景色に見えた。もしかしたら昨日見たものは幻覚だったのかも、だなんて考えすら浮かぶ。


 机の上のラジカセから小さく音が流れていた。『夜空ノムコウ』だった。相変わらずSMAPばっかり聞いてることが分かって、少し安心した。


 さてどんな言葉が飛んでくるだろう。どう反応しようか。冗談混じりに明るく笑ってやろうか。考えながら部屋の真ん中立ち尽くしていると、夏はベッドに腰掛け、「聞きたい事があるんだけど」と口を開いた。

 

「あの日、なんでキスなんかしたの」


 鈍器で殴られたような衝撃だった。血管が締め上げられ、息が止まる。顔に熱が集中する。


 死に際でもないのに、記憶が走馬灯のように駆け巡った。大晦日の日、この部屋で、そこのベッドで、俺がしたこと。


 あれからぼくたちは……。


 空気も読まずにサビを歌うラジカセ。ぶっ壊してやりたくなった。夏は俺の顔をじっと見つめるだけで黙っている。なんで真顔でそんなこと聞けるんだよと問い詰めたくなる。


 どうしよう。まさか起きていたなんて。今更ながら後悔した。なんであんなことしたんだろう。そもそもこうやって問いただされた時、自分はなんて切り抜けるつもりだったのだろう。


 何の覚悟もなしに衝動的に行動したことの重さをようやく思い知った。


「お前、起きてたのか」


 崩れ落ちそうな膝をなんとか保つ。心拍数が乱れる中、言葉を紡いだ。俺の言葉で、鉄壁のように無だった夏の顔が予想外に歪に崩れた。明らかに顔に動揺が宿っていた。


「……やっぱり、夢じゃなかったんだ」


 夏は泣きそうな眼をしていた。見たこともないほど鋭い視線で俺を睨み続けている。やがて細く溜息を吐いて、軽蔑の色が混ざった声を発した。


「あんたって本当馬鹿だよね。頭空っぽのまま成長してない。こういう時は嘘でもしらを切りなよ。馬鹿正直に白状するなんて救いようのないアホだね」


 夏は足を組んだ。

 

「ちょ、ちょっと待てよ。お前起きてたってことだろ? だったらあの時なんで何も言わなかったんだよ。それに……起きてからも、今までも、なんで知らないフリしてたんだよ」


 どうして今になって聞くんだよ。知らないふりをするなら突き通せよ。

 まるで自分が被害者のように振舞っていた。そんな俺に、夏は更に長い溜息を吐いた。


「あの時何も言わなかったのは、驚きすぎて反応できなかったせい。どうしようって考えているうちに起きるタイミングを無くしてたの。それに夢なんだと思ってた。寝ぼけてただけだと思って。あんたがそんなことするわけないって思ってたから。なんてバカみたいな夢見たんだろうって自分に呆れてた」


 夏は苛立ったようにつま先で何度も床を叩いていた。俺に対する感情のようにも自分自身へのようにも見える。


「でも今になって、夢じゃなかったらどうしようって思ったの。なんか妙にリアルだったし。もし本当だったら……ふざけんなって。好きでもない女にそんなことするなんて最悪すぎるでしょ。悪ふざけが過ぎるだろって説教して、二度とやるなって怒鳴ってやろうって決めてた」


 夏が大袈裟に髪をかき上げた瞬間、耳がきらりと光ったのが見えた。


「でもなんか怒る気力すら無くなっちゃった。一発殴らせてくれたら水に流してあげるから、ちょっとそこ座りな」


 ほら早く。夏が床を指差す。さっさと事を終わらせようとする姿に無性に腹が立った。


「お前はバカか」


 夏が「は?」と眉をひそめる。構わず続けた。


「よく考えてみろよ。どうでもいい女の買い物や映画に付き合ったり、興味もないドラマ見たりライブDVD見たり、アイス買ってくると思うのか? ピアス渡すと思うか? 全部ただの親切心でやってると思ってたのか? 幼馴染だからだとでも? ただの幼馴染にキスするやつがどこにいるんだよ。悪ふざけで俺がそんなことすると本気で思ったのか? だとしたらお前は救いようのないアホだ」


 夏の目が丸く見開かれていく。言葉の真意を悟り、分かりやすく混乱している。ざまあみろと言ってやりたくなった。


 夏が指差した場所に膝をついて座り込むと、「えっ」という声が降ってきた。


「一発じゃなく、好きなだけ殴れよ。その代わり絶対に水に流すな。無かったことにするな。俺は本気だからな」


 これから毎日死ぬほど悩めばいい。俺のことだけを考えて、ちょっとは苦しめばいい。そんな意地汚い考えが浮かぶ邪悪な自分に軽く絶望した。


 顔を上げる勇気がなかった俺は、床だけを見ていた。沈黙の空間に、ある歌声だけが流れる。きっと死ぬまで忘れられない曲になるんだろうなと思った。


 やがて曲が終わると、一言だけ鼓膜に届いた。


「ばかじゃないの」


 結局、俺は無傷のまま解放され、二度と夏からアイスを頼まれることはなかった。








「よし、これで全部かな」


 母さんが車から戻ると、早人は「そうだね」と笑った。ワンボックスカーにギリギリまで積み込まれた荷物。こんな圧迫感のある車内で母さんと早人は何時間も高速旅をするのかと想像する。それだけで疲弊しそうだった。


 振り返ると、二つ並んだ家がこちらを見下ろしていた。春の日差しが眩しく照り付ける。どこか懐かしさを感じさせる風が吹いた。


 ずっとみんなで生きてきた場所を離れ、一人旅立ち誰も知り合いのいない世界で生きていくと決めた早人を、改めてすごいと思った。


 玄関先で見守っていたおじさんとおばさん、ばあちゃんに抱擁やら握手を交わす早人の姿は、まるで村を旅立つ勇者のようだった。まあ、ある意味勇者で間違いない。今日ばかりは、素直に自分の兄が偉大であることを認めたくなった。


 盛大なお見送りの中、一人顔を出さないやつがいた。


「あいつ、見送りに来ないんだな」


 独り言のように呟く。おばさんは「具合が悪くて部屋から出てこないのよ」と言っていたが、やっぱり俺のせいだろうか。俺と顔を合わせたくないから意地でも現れないのだろうか。


 早人に悪い気がして、胸が痛んだ。早人だって最後にちゃんと挨拶くらいしたいはずなのに。俺がいなければ気兼ねなく見送れたはずなのに。


「まあ、俺がやらかしたせいだから仕方ない」


 いつの間にか俺の横に立っていた早人が、苦笑しながら言った。小さく呟いたつもりだったのに聞こえていたのかと驚いた。同時に、言葉の意味が分からず思考が止まった。


「え、やらかしたって?」


 俺は、勘がいい方だ。長年一緒にいるやつなら特に。相手の顔を見るだけで、ある程度察しがつく。


 だから分かっていたはずなのに。今まで気が付かなかったのは、そんなことはあるはずないといという思い込みのせいだろうか。そうなってほしくないという勝手な願いのせいだろうか。


「一昨日、お前がバイト行ってるときさ」


 思い出した。俺が監督を鼻で笑っていた理由。分かりきっていたからだ。


「夏に告白したんだ」


 ツーアウトからの逆転劇はごくわずかで、大抵は何も起こらずゲームセットになるということを。

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