5・5②  旅立つ君に

 予想通りだったが、その日になっても校庭には何も咲いていなかった。衣替えを踏み留まるほどの肌寒さが連日続いていたせいだろう。春のはずなのに、まだ冬服が手放せない。


 といっても春は春だ。日付は着実に進んでいる。最近早人や母さんが家具などの買い出しに出掛け、部屋に俺だけが残されることが多くなった。


 一人でいることは別に珍しいことでもないが、これからはそれが日常になる。

 二段ベッドの上段は空きになる。毎晩律義におやすみを言ったり、集中力が切れるたびくだらない雑談をしたり、気軽にCDの貸し借りをすることはなくなる。家族が一人減るみたいで奇妙な感覚だ。今生の別れでもあるまいし。



「ねえ、あんたソックタッチ持ってる!?」


 そんな声とともに部屋のドアを開けてきたのは、上半身は寝間着に下は制服のスカートを履いた夏だった。一歩外に出たら不審者と勘違いされそうな風貌だ。


 俺はちょうど制服に着替え終わったばかりで、「あるわけないだろ!」とつい大声になった。そのせいでまだベッドで寝ていた早人が「なんだよ騒がしいなあ」と目を覚ました。


 それでも夏は「じゃあアイプチは?」と続けてくる。どうにか接着できそうなものを探しているようだ。


「だからなんで俺が持ってると思うんだよ。ないよそんなの」

「えーじゃあのりでいいから。貸して」


 夏が指差したのは、机に転がったアラビックヤマトだった。


「は? のりなんて塗って平気なのか?」

「大丈夫。人間の肌は意外と強いから。顔に塗るわけじゃないし」


 そういうもんなのか。とりあえず靴下がずり落ちるのを防げれば何でもいいのか。靴下一つにそんなこだわらなくてもいいんじゃないか。いろんな思いが渦巻く。


 じゃあ後でね。お兄ちゃんも早く起きなよ。夏は帰って行った。


「卒業式だから気合入ってるな」


 早人はそれだけ呟くと、あくびをしながら窓から差し込む朝日をうざったそうに睨み、再び布団の中へ消えていった。


 卒業式か。あいつが制服を着るのも今日で最後だ。もう少し、制服姿を見ておくんだったな。今更ながら思った。






 卒業式の翌日、夏は朝っぱらからピアッサーを持参して現れた。卒業早々やってくるとは思わなかったが、打ち上げで既に友人の何人かはピアスを開けていたらしく、自分も早くやりたいんだとか。


 おじさんたちの許可は取ったのか尋ねたが、とぼけるだけで何も言わない。事後報告する気満々なのがすぐに分かった。後でおじさんに怒られても知らないぞと釘を刺したが、夏は「やってしまえばこっちのもんだ」と息巻いている。


「あれ、お兄ちゃんは?」

「テツさんだっけ。あの、バイト先の。その人に会いに行った。東京行く前に挨拶したいんだとさ」

「あー、なるほどねえ」


 夏の耳たぶを保冷剤で冷やしている間、卒業式の話をした。


 PTA会長の話が長くて退屈だったとか、在校生は卒業生より暇だから睡魔との戦いだとか、D組の担任の先生がギターで『贈る言葉』を披露してくれたらしいとか、イケメンの先輩と写真を撮りたくて女子生徒が列を成していたとか。


 昨日は泣いている卒業生を何人も見た。特に『旅立ちの日に』を歌っている時と、退場の時。なぜか俺も感情が昂ってしまった。肩を並べ、思い出を語り合い、一緒に泣いてしまいたいとすら思った。それくらい卒業式というのは謎の効力を持っている。


 きっと来年の俺も寂しさで虚しくなり、大泣きはしないだろうが、友人との別れに多少は悲しむはずだ。もう送れない青春の時間に思いを馳せるだろう。


 ところが夏の場合、涙一つ見せることなく、むしろ早く短大に行きたいと目を輝かせている。カス高に思い入れがないのか、よっぽど短大が楽しみなのか、情がないのか。


 夏は軽快に、これからのことを話してきた。


「実は髪も染めたいんだ。ちょっと明るめに。真っ黒ってなんかダサいでしょ。だからバイトも始めようかなーって思って。毎日学校行くから服たくさん買わなきゃなんないしさ。あ、入学式までにメイクも練習しなきゃ」


 瑞々みずみずしい果実のような弾ける笑顔だった。

 どうしてそんな顔ができるのか分からなかった。

 どうして俺の前でそんなことを言うのかと憎らしくなった。

 あいつに東京に染まるなと言っておきながら、早々に変わっていくのが信じられなかった。


 ピアスを開け、髪を染め、化粧を覚え、フェミニンな服に身を包むようになる。やがて恋人ができ、数人と別れ出会い、ある程度落ち着いた年齢で結婚する。


 容易に未来が想像できてしまう。まるで自然の摂理のようだ。

 夏のせいではない。誰もかれもが通る道のように当たり前になりすぎているせいだ。それ以外の未来が想像しにくいせいだ。


 でも義務でもないその道に、必死に順応しようとする姿が馬鹿馬鹿しくも思える。

 その当たり前に、自然の摂理に、少しくらいは逆らってくれてもいいのに。夏だけは何も変わらず俺を待っていてくれたらいいのに。


「そろそろいい?」


 夏が時計を確認しながら言った。


「感覚無くなったか?」

「うん、たぶん」


 印を付けていた部分を消毒する。

 右耳の裏をなぞると、目に見えないほどの産毛の肌感が指先を刺激した。そこにピアッサーを当てがう。うなじの産毛と微かな体温が皮膚の奥をくすぐるようで、喉の奥がむず痒くなった。


「じゃあやるぞ」

「分かった。よろしく」

 

 右手に握力をこめる。夏の体がぷるぷると震えていた。捕獲寸前で逃げ場を失った小動物のようだ。痛みが恐ろしいのか、緊張しているのか、俺の袖をきゅっと掴んで離さない。


「やさしくしてね」


 手元が狂うかと思った。破裂しそうなほどの心臓の一拍に、全身が麻痺するような感覚に襲われる。


「お前、ナチュラルにそういうこと言うのやめろよ」


 黒い瞳が「え」と泳いだ瞬間、かしゃん、と控えめな音が鳴る。同時に夏の肩が「いっ」と動いた。涙目でこちらを窺う横顔に、俺の中のどこかが疼き始める。


 両耳の開通を無事に済ませると、夏は「怖かったあ」と泣きそうな顔で言った。最中、痛みで大暴れされたらどうしようと思ったが、夏は案外落ち着いていた。そこまで痛みはなかったらしい。


「あんまり触るなよ」

「分かってるよ」


 ケータイを取ろうとした時、まだ夏が俺の袖を掴んでいることに気が付いた。本人は無自覚なのかもしれない。なんだか堪らなくなって急いで立ち上がった。机の引き出しを開け、奥に眠っていた紙袋を夏に押し付けた。


「ほら」

「え」

「欲しいって言ってただろ」


 意味がわからないらしく、何度も俺の顔を確認しながら夏は袋を開けた。ドッキリとでも思っているのかもしれない。


 袋から出てきた夏の手には、手のひらサイズの小さな箱が握られていた。箱を開けた途端、夏の顔がぱあっと咲いた。


「え、わざわざ買ってくれたの?」

「まあな。卒業祝いってとこかな」


 夏が指先で摘み上げたのは、ピンク色のピアス。ワンポイントもので桜の形をしている。そこまで大きくないため、髪を耳にかけない限り分からないかもしれない。


 喜ばれるか不安だったが、ピアスを見てかわいいと笑う夏の様子に、胸を撫で下ろした。


「でもなんで桜なの?」

「んー……春だから、かな」


 春は出会いと別れの季節と言われている。だから桜を見て、華やかさの中に寂しさを覚えるのだろう。だからこそ毎年思うことがある。


 どうせ散るのになんで咲くんだよ。


 散った桜の花びらたちが、コンクリートの上で茶色に枯れていく姿が目に浮かぶ。


 卒業式。裸のまま伸びきっている枝が、冷たさの残る風に煽られ揺れていた。軽音部で多少お世話になった先輩たちと話し、写真を撮ったところで解散した。


 さっさと帰ろうと思っていたのに、夏は校門前で待ち構えていて、俺を見つけた途端、卒業証書が入った筒を振り回しながら「ねー見て。私、とうとう卒業しちゃったよー」なんて大声で叫んできた。


 それがどうしようもなく恥ずかしくて余計帰りたくなったのに、おばさんがどうしてもと言うから嫌々ながら無理やり撮ったツーショット写真。校門を背にした俺はどんな仏頂面をしていただろう。


 俺たちの前に撮影していたカップルのように腕を組むわけでもなく、手を取るわけでもなく、微妙に空いた数センチの隙間。居心地が悪くて仕方なかった。


「そういえば勇人は進路どうすんの」


 鏡で耳を確認していた夏が、不意にそう言った。表情はよく見えず、真剣に尋ねているのか分からなかった。


 だからこそ、特別な重みも含みも持たせない軽い口調で答えた。


「俺さ、早人ほど頭の出来は良くないけどさ、ちょっと出来るだけやってみようと思ってる」


 夏は黙って顔を上げた。真顔だった。


「俺なりにあいつに追いつけるようにやってみようかなって。あいつぐらい頑張れるか分かんないけど、足元程度には及ぶように踏ん張ってみようかと」

「……そっか。いいんじゃない」


 これ以上は何も言われなかった。俺も何も言わなかった。


 窓の外を見る。春らしい柔らかな日差しだった。やがて玄関が開く音が響き、おーい、勇人、降りてこい。テツさんが唐揚げ作ってくれたぞーという声が下から聞こえてきた。


 すぐに反応したのは夏で、俺を置いて階段を駆け下りていった。おいおい、呼ばれたのは俺だぞとつっこみたくなる。


 俺も部屋に出ようとドアの方を向いた時、隅に積み上がっている段ボールが目に入った。『春服』『食器』などの文字が殴り書きされている。


 夏も早人も旅立っていく。


 毎日嫌でも会える、誰よりも近くて理解している存在。何をするにもどこへ行くにも一緒の存在。そんな関係の終わりが着実に近づいているのを感じた。


 文字通りの終わりが訪れることなど、この時は思いもしなかった。「いつでも会える」から、「会えない」に変わることなど、想像もしなかった。


 今までに見たことがないほどの涙を流した夏を目撃したのは、バイト帰りにアイスを渡そうと、部屋に立ち寄った時だった。

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