5・5① 息もできない
――2010年3月――
「なあ、まだなのか?」
呼吸を忘れるほどの緊張感が漂う空気を破ったのは、おじさんだった。せっかくくしゃみを我慢していたのに最悪だ。
みんなの視線がドアに耳を押し当てるおじさんに集中する。本人は全く気にしていない様子で耳を擦り付け、意味のない盗聴を続けていた。
呆れたおばさんがその襟を持ちドアから引き剥がすと、おじさんは「なんだよお」と鳴いた。
呆れてしまうが、待ちきれない気持ちも分かる。大人が揃いも揃って何十分も廊下をうろついてはドアを見つめているのだ。
自分の部屋なのに自由に立ち入れないなんて奇妙な話だが、今回ばかりは明け渡すしかない。全ては「結果は一人だけで見たい」という、早人の要望のために。
家族のこととはいえ、心臓が肋骨から飛び出そうなほど暴れまわっている。自然と呼吸も乱れる。じっとしていられない。
「あと何分で分かるんだ? もう待ってられねえよ」
「お父さん落ち着いてよ。もうすぐなんだから黙ってて」
廊下の壁にもたれかかるようにして立っていた夏がおじさんを睨む。やはりおじさんは一切気にしない。持て余した時間を消費するためか、雑談を始めた。
「今はいい時代だよなあ。パソコンで結果が分かるんだもんな。合格発表といえば現地に行って直接確認するもんだと思ってたけど」
「でもそれって地方勢つらくない?」
「そうだけどさあ、でもあの番号を探す緊張感がいいんだろ。胴上げとかしてさ。それが青春ってもんだ」
「胴上げが青春なの?」
うるさい親子だなあ、これ以上くっちゃべるなら一階に降りろ!
と、いいたいところだったが、おばさんがすかさず「いい加減静かにして」と制した。
階段から足音が上ってくるのが聞こえた。振り向くと、不安げな顔をした母さんが階段から顔を出していた。「まだだよね?」とキョロキョロしている。
「うん。ばあちゃんは?」
「和室にいるよ」
「え、なんで?」
「仏壇の前から一切動かないの。きっとおじいちゃんに頼んでるのよ。早人を合格させてくれって」
そうか。この場でできるのは祈ることぐらいだもんな。
この前の墓参りで、自然と早人を合格させてくれと祈ったものだ。神でもないじいちゃんに頼んでも仕方がないのかも知れないが、祈るほかない気がした。
もう神でも仏でもじいちゃんでもいいから叶えてくれ。
合格発表予定時間になった。
自然とみんなが部屋のドアの前で聞き耳を立てて密集する。なんか、放課後の校舎裏で同級生が告白しているのを陰で見守っている野次馬の気分だ。
「静かだな」とおじさんが呟いた。
「なんか聞いてないのか? よくできたとか自信ないとか。お前ら三人でアバター見に行っただろ? その時とかなんか言ってなかったか?」
夏と目が合う。夏は首を振るだけで何も言わなかった。仕方なく、俺が答えた。
「……なんも。合格発表まで試験のこと絶対何も聞くなって言われたぐらいだし。もう思い出したくない、何も考えたくないってさ」
「思い出したくない? なんか意味深だな。もしかして……」
言葉の続きが発せられる前に、突然ドアが開いた。みんなが一斉に口も目も開けて凝視する。
待ちに待った人物の登場。しかし予想外の顔をしていた。
きっと分かりやすいほどの笑顔か、どうしようもないほど憔悴した様子の二択だと思っていたのに、なんとも言えないのだ。
絶望で蒼白しているようにも、致死量の喜びで抜け殻になっているようにも見える。
とにかく、寝起きのようなぽけっとした顔だ。感情の向こう側みたいな。
判断が難しい様子に「どうだった!?」「どっちだ!?」「受かってた?」とほぼ同時に誰かと誰かと誰かが言った。
おじさんが飛びかかるようにその肩を揺らす。早く言わないと張り手でも食らわしそうな勢いだ。それでようやく早人の虚な目の焦点が定まった。
「……した」
「は!? なんだよ!」
誰かが息を飲んだのが聞こえた。もしかしたら俺だったかも知れない。
数秒の沈黙の後、答えが降ってきた。
「……受かり、ました。春から大学生です」
誇張なしに、家が揺れた。大の大人たちが、二階の廊下で跳ね上がり大歓喜したからだ。皆んなが手と手を取り合い、笑い、安堵し、抱き合った。母さんは涙を見せるほどだった。
俺も転げ落ちるように階段を駆け下り、和室に飛び込んだ。
「ばあちゃんばあちゃん! 受かった! 早人受かったよ!」
俺の声と同時に、仏壇の前で正座していた背中が安心で崩れた。
「ああ……よかった……」
消えてしまいそうなその声が微かに震えていて、俺も途端に泣きそうになった。
すぐにおじさんが出前を頼み、夏の家にみんなで集まった。普段は絶対に食べないような豪華寿司が卓上に並ぶ。大人たちは次々にビールを開け宴会状態。もはや本人よりも喜んでいる。
祝いの言葉はすぐに現実的な問題に切り替わり、会議のようになった。
「じゃあさっそくアパート探さなきゃな」
「駅近を選ぶか学校近くを選ぶかだね」
「家具も買わなきゃ」
「じゃあ今度の週末ニトリ行こう」
「買い物リスト書いておいたほうがいいな」「早人は自炊できるの? 今のうちに料理教わったら?」
「洗濯機の使い方わかる? 洗剤と柔軟剤の違い分かってる?」
そうやって相槌の暇もないほど次々と飛んでくる質問に、早人はくたびれたように笑っていた。結果にほっとしているのだろうが、おじさんたちほどテンションは明るくない。
でも本当に東京に行ってしまうのか。早人と一緒に部屋を共有するのもあと少しか。
そう思うと、浮き立った心が少しだけ沈下した。
次々と空になっていく缶ビール。大量に消費されていくわさびや醤油。
そんな騒がしい祝いの中、一人だけ陰りのある面持ちのやつがいた。
絶対に公害レベルで騒ぎ回ると思っていたのに、暗い顔で寿司を食っている。
マグロに目がないこいつは、いつもなら周りを一切配慮せず一人で平らげようとするだろうに、なぜか一つも口にしていない。目の前にあるかっぱ巻きをちみちみ咀嚼しているだけだ。
俺が「食えよ」と中トロを差し出しても首を振る始末だ。
そうして寿司桶が空になった頃、夏は暗い面持ちのまま静かにリビングから消えていった。みんなが不思議そうにそれを見送る。
「どうしたんだ?」「具合でも悪いのかな」などの声が上がる。
立ち上がろうとした瞬間、その背中を追いかける人影が前を横切った。二人分の足跡が二階へ上昇する。主人公の失踪に大人たちが余計に困惑した顔になった。
俺も慌てて後を追った。
足音を立てないよう階段を上ると、ドアが微かに開いていた。隙間からそっと覗くと、夏がベッドの上で固まるように体育座りをしているのが見えた。
早人は夏の真正面に正座し、必死に機嫌を窺っているようだった。
「どうした? 具合でも悪い? お寿司全然食べてなかったよな?」
子供をあやすような柔らかい声。やはりこいつも、おじさんたちに話しかけられながらも夏の異変を感じ取っていたのだ。
「……別に」
聞こえてくる声は、いつにも増して不機嫌そうだ。これ以上刺激したら激昂されるだろうと予想がつくほど。
「本当? なんかあったんじゃないのか? 俺、何かした?」
「うるさい!」
太い腕が早人を突き飛ばす。早人は「うわっ」と怯んだが、すぐに体勢を立て直し夏に向き合った。
「な、なんだよ。俺が悪いならはっきり言えよ」
直すから、謝るから。そうやってなだめ続ける。
これじゃまるで……。
「お兄ちゃんなんか、買い物もまともにできないくせに」
遮るように発せられた太い声に、「え」と言いそうになった。それは早人も同じで、「へっ」と首を傾げた。
「忘れ物ばっかりですぐ物無くすくせに」
「……うん」
「服だってちゃんと選べないくせに。穴空いた靴下ばっかり履いてるくせに」
「うん」
「何をどこにしまったか分からなくなるくせに。私がいなかったら何にもできないくせに」
徐々に強くなる語気。早人はふーっと息を吐いた。
「……うん。そうだな。夏がいないとダメだな」
「そんなんで一人暮らしできるの? 料理とかできるの? ちゃんと生活できるの?」
「……さあ」
「どうせ東京が楽しくなってこっちのこと忘れて帰って来なくなるんでしょ。東京の友達と遊んで、彼女とか作って、私たちのことなんてどうでもよくなるんでしょ」
「……そんなことないよ」
しんとする室内。足が動かなかった。俺が立ち入ってはいけないバリアのようなものを感じた。
息を殺してドアの前で立ち尽くしていると、俯く夏が「お願い」と震える声で言った。
「東京に染まらないで。女好きで酒癖が悪い派手な髪色したチャラチャラした人とつるまないで。言葉遣いが悪いケバい化粧した女と付き合わないで。ハメ外して飲んだくれたりしないで。どうせ似合わないんだから変にブランド物とか身に付けたりしないで。こっちにはないようなオシャレなカフェで無駄に高いコーヒー飲みながら勉強とかしてカッコつけたりしないで。お願いだからそのままでいて。私の知らないお兄ちゃんにならないで」
音一つ一つが泣き出しそうな悲しさを帯びていた。
早人は感情を押し殺して下を向く夏を、目を逸らさず真っ直ぐに見つめていた。
「分かったよ」
早人の腕が伸びる。夏を包み込む。早人の腕に抱かれた夏の肩は、小刻みに震えていた。
……これじゃまるで、恋人同士の痴話喧嘩じゃないか。
背中の体温がすーっと低下していく。
どっちだ。
思わず考えた。本当に判断ができなかった。いつもなら勘が働くはずなのに、今日に限って機能しない。
残るは、祈ることだけだった。
どうか、涙の理由が幼馴染と別れることへの寂しさに対するものであるように。それ以上の深い意味はありませんように。
願わずにはいられなかった。
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