5・4② 19才のブルース

 今までどれくらいの問題を解いたのだろう。

 覚えた単語や公式は何百? 何千? 

 手元にある参考書なんて何周したのか分からない。


 この日のために費やした時間はきっと計算しようと思えばできるんだろうけど、単純に考えれば約一年、365日ちょいなんだろうけど、俺や俺と同じ位置にいる人間にとっては一日が100年に感じるほど長い時間だった。


 一年間でシャー芯を折った回数のギネス記録に挑戦できそうなくらいはいろいろやったと思う。

 缶コーヒーも死ぬほど飲んだ。カフェインの過剰摂取のせいか知らないけど、一時期吐き気と下痢に悩まされた。

 夜眠れなくて困ったこともあった。どうしようもないから深夜にコンビニまで歩いたこともあった。


 予備校帰り自転車を漕いでいると、遠くの国道に数台車が走っているのが見えた。どんな人が運転しているんだろうと想像するうちに、この大人たちみんな大学行ったのかな、受験したのかな、どうやって乗り切ったんだろうなんて考えるようになった。


 そうしたら大人たちみんなが超人のように思えてきて。

 なんでこんなに受験って大変なんだよ、受験システム考えたやつ誰だよなんて意味もなく愚痴ったりして。

 進学を選ばなかった同級生たちがちょっと羨ましくなって。

 そんな自分に嫌気がさして……。


 テストが終わるたび、周りの答えを確認するのが癖だった。周りと違う答えになっていないか怖くて、平均からかけ離れないか不安で仕方なかった。


 テスト以外も同じだったかもしれない。自分の決断に全く自信を持てず、平坦で無難な選択ばかりしていた。自分の出した答えを、誰かに点数つけられるのが恐ろしかったのだ。バツをつけられたくなかったのだ。


 先が見えない10代。もはや毎日が選択問題を叩きつけられているようだった。テストのように何でも四択だったらいいのに、世界に広がる全てが無限すぎて困り果てた。


 ようやく決めた選択だけど、間違ってないだろうか。本当にこれが正解なのだろうか。今からでも選択を変えた方いいんじゃないか。

 


 ぶーん。ぶーん。



 その振動音はベッド横に放っておいたリュックからだった。

 シャーペンを握り締めたまま硬直していた腕がぴくりと動く。数時間ぶりに立ち上がると、血の溜まった下半身の重みが巡った。


 リュックの中を漁ると、ケータイが盛大に震え自己主張していた。


「……もしもし?」

『もしもしお兄ちゃん? ごめんね勉強中に』


 視界がぐらりと揺れる。折れかけていたものが折れる寸前にまで歪む。鼻周りが痒くなってくる。


『夜になっても連絡ないからさ、ちゃんとホテル着いたか心配で』

「……ごめん。忘れてた。4時くらいには着いてたよ」

『そっか。よかった』


 会話が終わる。言葉が何も出てこない。何も紡がれない沈黙が何テンポも続く。


 頭の中では、溜まっていたものがリズムを無視して不規則に雪崩れていた。


『生存確認できてよかったわ。じゃあ切るね。邪魔しちゃってごめんね。明日寝坊しないようにね』


 電話越しに微かな音が聞こえる。聞き慣れた、というより聞き飽きた音楽。日本国民なら恐らくみんな知っているであろうアイドルの顔が思い浮かぶ。


 彼らの顔が壁中に貼られた治安の悪い一室が見えた気がした。


「待って、切るな」


 掠れた声だった。渇いた口内が喉まで乾燥させる。咄嗟に唾を飲んだが、何も潤わない。


『……どうしたの』


 まるで警戒しているような怯えたトーン。混乱しているようにも聞こえる。


「な、なんかちょっとどうしたらいいのか分からなくなってきてさ」


 鼻水が出そうになって慌てて鼻をすすった。思い切り口から息を吐くと、自分の荒い息が電話越しで届いた。


「いくら問題解いても暗記しようと思っても全然ダメなんだ。集中できない。バカみたいに一つも入ってこない。段々自分の心臓の音が聞こえてくるんだよ。めちゃくちゃ速いの。ああ、やばいなって思うと余計速くなるし、頭がぼんやりするし、手の震えもすごいから何もできなってきて」


 向こう側は何も言ってこなかった。俺が言い切るまで待つつもりなんだろう。もしくは言葉を失っているのか。


「どうしよう、明日も全然解けなかったら。何も分からなかったらどうしよう。何も思い出せなかったらどうしよう。もしダメだったら……」


 何度も見た夢が脳内で沸騰する。感情が昂り、視界も悪くなってきた。

 言い表せない心情も漠然とした不安もどうにか言語化しようとしているせいか、唇の震えが止まらない。


「俺やっぱり無理かも。今、めちゃくちゃ死にそう。消えてなくなりたい」


 黙ったまま何度か鼻をすすると、予想に反した応えが飛んできた。


『何言ってんのこのマヌケ』


 まるで漫才のツッコミのような陽気な声。


『あのさ、国立って前日にちょっと勉強しただけで受かるほど楽なわけ? ホテルで数時間叩き込めば解けるような試験なの?』

「え……」

『違うでしょ。一年間毎日寝る間も惜しんで何時間も勉強してようやく立ち向かえるとこでしょ』


 いつの間にか電話越しで聞こえていたはずの歌が止んでいた。声だけが明瞭に届く。


『だったら今日くらいあんまり集中できなくたって大丈夫だよ。これぐらいでいちいち焦らないの。前日パニックになってもいいくらい頑張ってきた過去をちょっとは信用してもいいんじゃないの。今の俺の代わりに散々勉強してくれてありがとうって感謝しとけばいいのよ』

「でも……でももしそれでもダメだったらどうしよう」

『別にいいじゃん。一回くらいうまくいかなくても許容範囲でしょ。人生長いんだよ? またチャレンジしたければすればいいし、勉強はもうこりごりだって思うならそれでいいんじゃないの。好きにしなよ』

「……簡単に言うなよ」

『だって医大に受からないとこの世が終わるわけじゃないし、この私だってどうにかなったんだし、お兄ちゃんなら大丈夫って分かるもん』

「なんで分かるんだよ」

『理由はない。でも分かるの。何年一緒にいたと思ってんの。少しは自分に自信持ちなって』

「だって……いくら考え抜いて選んだことでも、もしかしたらすごく後悔するかもしれないだろ。やっぱやめとけばよかったって思うかもしれない」


 回答を書かない限り、選択が正解なのか不正解なのか分からない。失敗も成功も分からない。だから恐ろしいのだ。


 近い将来訪れるかもしれない絶望を予感しながらもただ待つしかない状態も、その絶望を真正面から受け入れるしかない現実も耐え難い。本気であればあるほどなおさら。


 いっそ未来の自分がこっそり正解を教えてくれたらどんなにいいだろう。


『……そういうのはさ、結局は結果論なんだよ。何も問題ない生活だったらこれで良かったんだって思うし、逆に不満を抱いたり躓くことがあったらやっぱりあの時勝負すれば良かったとか、何もしなければよかったって思うんだよ。だからなんでも思う存分満足できるくらいやり切るしかないんじゃないの。なんだかんだここまでやってこれたじゃん。後悔したくないなら全力でやる以外ないと思うよ』


 思えば今までの人生、100パーセントの正解などなかった。


 あの時、あの日、あの瞬間、他のやり方もできたんじゃないかと時々思い出すことがある。


 いつかの夜見た国道を走る大人たちだってきっとそうだ。今立っている場所が本人にとって最善かは本当のところわからない。他の場所ならもっと輝けていたはずの人だってもしかしたら大勢いるのかもしれない。


 目に見えるものの向こう側を、知らないだけなのだ。


『だからもうウジウジするのはやめな。勉強は簡単に済ませてさっさと寝な。それに泣きつかれるこっちの身にもなってよ。対応に困るじゃんか』

「泣いてないし」

『ほんと? 鼻すすってたのに?』

「寒いだけだよ」

『あっそ。まあどっちでもいいけどさ、とりあえず無事に帰っておいで。試験終わったら何でもしてあげるから』

「ほんとに?」

『ほんとほんと。欲しいものあるなら買ってあげる。なんなら今のうちに準備しておこうか? 何が欲しい?』

「……夏」

『え、なに?』


 大きく息を吸う。吐くように言葉が溢れた。


「夏がいい。夏に会いたい」


 カーテンを閉め切った窓に近付く。隙間から覗くと、高層ビルや飲食店などの光に溢れた景色が広がっていた。遠くに見える交差点。地元じゃありえないほどの交通量に口が開いたままになっていた。


『そんなことでいいの?』

「うん」

『……変なの。そんなの受験しなくても叶うのに。嫌でも毎日会えるのに』


 緊張していた肩の筋肉が緩んでいく。とたんに脱力感に襲われた。


「ありがとう。夏は昔から俺のこと助けてくれたよな。何回も夏に叱られた気がするけど、でもそれってそれだけ夏に助けられてたってことだと思うんだ。夏が俺のことを気にして怒ってくれたからなんとか生きてこられたんだと思う」

『急に何? 大袈裟すぎない? 明日死ぬの? これって遺言? 録音したほうがいい?』

「縁起でもないこと言うなよ」

『ごめんごめん。でもお兄ちゃんだって私のわがままに付き合ってくれたじゃん。いくら無茶なことを言ったって、無理なことを言ったって、なんだかんだ最後は私のやりたいようにさせてくれたでしょ。私が一方的にSMAPの話をしてもいつも聞いてくれたじゃん』

「……そうだっけ」

『あ、覚えてる? 私がクリスマスに星が欲しいって言ったとき、お兄ちゃんが駄菓子屋まで走って金平糖買ってきてくれたこと。あれすっごく嬉しかったんだよ。サンタさんが叶えてくれなかったことをお兄ちゃんがしてくれたんだもん』


 ああいうことをサラッとやっちゃうのがお兄ちゃんなんだよね。明るい声に包まれていく。


「……やったかも。あの雑種犬がいた駄菓子屋だろ? すっかり忘れてた。よく覚えてたな」

『だって今までずっと一緒にいたじゃん。嫌でもなんでも覚えるの。だからお兄ちゃんが勉強で忙しくなって全然話せなくなって、ずっとつまんなかったよ。早く帰って来てね』


 俺は本当に恵まれているのだと思う。


 俺の選択を尊重してくれる人がいて、俺のために苦労も厭わない神様のような人がいて、俺のために涙を流してくれる人がいて、俺のことをずっと応援してくれる人がいて。


 その人たちが近くにいないだけで、顔が見えないだけでここまで胸を圧し潰されそうになるなんて思わなかった。声を聞くだけで涙が出そうになることがあるなんて思わなかった。これほどまでに、会いたくて仕方ない人がいるとは思わなかった。


 この感情をどう形容するべきか、今なら容易に導き出せる気がした。

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