5・4① 位置について

――2010年2月――


 ない。どこにもない。


 机の引き出しを漁ってみるが、何年も使っていないノートや昔見た映画のチケット、ガラクタ同然のバトル鉛筆が出てくるばかりだ。部屋の隅々を見渡すが、視覚情報が飛び交い記憶が迷路のように渦巻くばかり。最後にそれを見た日を思い出そうとするたび絡まる。


 こんなんじゃまた夏に怒られる。センターの時だって同じようなことがあったのに。

 片っ端から調べようと、床に横たわったキャリーのファスナーを引っ張った瞬間、ドアが開いた。


「何探してるの?」


 声を聞いて、「ひっ」と言いそうになった。スウェット姿の夏が仁王立ちしている。頼まれたのか、勇人と俺の服を腕いっぱいに抱えている。


「もしかして受験票? それなら昨日まで仏壇に置いてたでしょ。忘れちゃダメだからもうクリアファイルに入れてリュックに突っ込んでおいたよ。必要書類は全部そこにまとめたからね」

「えっ」


 夏はクローゼットの方に進み、タンスの上段を開けた。冬服がぎっしり詰まっているせいで収納できるスペースがないらしく、奥に押し込んでいた皺くちゃの服を引っ張り出し、畳み始めた。


「……ありがとう」


 じゃあ次は下着類を用意しようと思い、俺も下着の入ったタンスを開けたが、いくら漁っても目当てのものが見つからない。この日のために買っておいたのに。念のため奥に手を突っ込んでみたが、出てきたのは半袖のものだった。


「ヒートテックが消えた……」

「新品の裏起毛のやつのこと? それならもうキャリーだよ。靴下もパンツも一つに袋に詰めたから」


 握力が風のように消え去り、エアリズムがするりと落ちた。夏は服を小さく圧縮しながら淡々と収納している。


「あとさ、いい加減ボロいパンツ履くのやめな? この前捨てておいたからね」

「え!?」


 下段の引き出しを確認すると、半分ほど下着が消えていた。ここ最近下着どころか服も買っていなかったが、まさかこんなことになるとは。

 古いパンツを断捨離している夏の姿を想像するだけで肌の表面温度ががくんと下がる。


「ハンカチもカイロも下痢止めも風邪薬もマスクも入れたからね。全部内側の小さいポケット」

「……俺は幼稚園児か? 準備くらいやれるって」

「どの口が言ってんの? 修学旅行の時パンツ忘れて毎晩洗面所で洗ってたくせに」


 ……誰がバラしたんだ。木田か? 勇人か? 髪を掻きむしる間にも夏は続けた。


「センターだって受験票も筆記用具も当日の朝まで用意しなくてパニックになってたでしょ。いい加減自分がポンコツだってこと自覚しなさい!」

 

 ダン、と勢いよくタンスが閉められる。思わず肩が上がってしまった。こちらに向けられた視線が冷たく肌に突き刺さる。


「……ごめん」

「私に謝ってどうすんのよバカ。もう準備は任せて勉強しな」


 夏は立ち上がると、くるりとドアの方を向いた。


「え、もう行くの?」

「だって邪魔しちゃ悪いし。どうかした?」

「あ、いや、なんでもない」


 心臓が一回だけ大きく跳ね上がった。悟れられないよう、夏の顔を見ずに椅子に座る。


 無意識に引き留めようとしていた自分に腹が立つ。もっと話していたいと、帰って欲しくないと願っていたのだ。そんな場合じゃないだろと頬を引っ叩きたくなる。


 この一年、時間は濁流のように過ぎていった。試験日まであと何日残されているのか日々意識していたのもあるかもしれないが、振り返る暇もないほどに目まぐるしい毎日だった。


 浪人し、年を取り、年を越し、関門であったセンターをなんとか終え、ついに前期日程が目前となった。試験会場近くのホテルで前泊するとはいえ、新幹線移動などを考えるとゆっくり勉強できるのは残り僅かだ。


 夏にも先を越されてしまったし、予備校の私立組も次々と合格を勝ち取っている。その影響か、最近胃が痛くて仕方ない。


 過去問をパラパラとめくっていると、ドアが閉まる音がした。振り向くとそこには誰もいなくて、主張の激しい足音が床を響かせていた。ふーっと吐き出される息とともに、筋力も抜けていくような気がした。


 もう何ヶ月も誰かと好きなだけ話すことも、賑やかに食事することも、惰性のままテレビを眺めることもしていない。

 常に「もしも」を考えてしまうせいだ。日本のどこかに存在する競争相手のことも。同じ予備校に通う、いくつか年の離れた先輩たちのことも。


 勉強していても胸騒ぎがするが、勉強していないと余計に落ち着かない。浪人する以前の自分はどこか遠くへ消えてしまった。


 早く解かなければ。一つでも多く頭に入れなければ。今年の一分は60秒以上の重みがあるのだ。


 ペンを握る指先がほんの少し震えた。







 駅には予定時刻の1時間以上前に着いていた。念には念をということだったが余裕を持ちすぎたようだ。昼過ぎの駅構内は祭りのように賑やかで、颯爽と人が行き交っている。


 限られたランチタイムで腹を満たそうと早歩きの会社員人たち、駅弁を眺める親子、迷路のような地図に首を傾げている大学生グループ。みんなが一つの波となって大きな渦を巻いている。


「ほら、家出るの早すぎだって言っただろ。指定席なんだからそんな急がなくたっていいのに、母さんは心配性すぎだよ」


 勇人が眠そうに欠伸をしながら言う。母さんが「だって」と言うと、俺と母さんの間にいた夏が「まあそう言わずに。遅れるよりはいいでしょ」と大声で笑った。


 新幹線用改札が見えた。切符売り場を通り過ぎ、待合室の椅子に辿り着く。母さんと俺が隣同士で、真正面のベンチに勇人と夏が座った。

 俺はリュックから英単語帳を取り出し、いくつか貼られた付箋をなぞった。あと数日の付き合いであってくれと願いながら。


「コーヒーでも飲む?」


 母さんが俺の肩を叩いた。首を横に振ろうとした瞬間、「私が買ってくる! コンビニも行きたいから」と夏が立ち上がった。

 こちらの返事も聞かずにピンクのコートが自動ドアの向こうへと消えていく。俺とは反対に楽しそうだ。


 夏の背中を目で追っていると、「ねえ早人、本当に一人で大丈夫?」と母さんが言った。


「だってやっぱり不安だよ。一人で東京だなんて。私もついて行こうか?」

「平気だよ。新幹線代とホテル代がもったいないだろ。それに一人で行った方が勉強に集中できるからいいんだよ」


 「そうかなあ」と不満げに口をとがらせる母さんの眉が歪んだ。このままでは勢いで付いてきてしまいそうだ。なんて言おうか考えていると、勇人が声を上げた。


「大丈夫だって。確かにこいつはマヌケだけど俺がホテルの地図とか時刻表とか犬でも分かるくらい簡単にまとめてやったから安心して。母さんは方向音痴なんだからむしろ行かない方がいいよ」


 勇人が両足で挟んでいたキャリーがガタっと音を立てる。母さんは「何よ」と笑いながらも、納得したようだった。

 俺が単語をブツブツと呟き始めると、勇人も母さんもそれ以上は無駄な会話はせず、静かに過ぎ行く時間に身を任せていた。


 一度だけ、コンビニから帰ってきた夏が「のど飴いる?」と話しかけてきたが、それ以外、誰も口を開くことなく沈黙していた。



 待合室を出たのは発車時刻の15分前。


 ホームまで来なくていいと言ったのに、母さんは3人分の入場券を買った。「やっぱり見送りは必要だろ」と勇人が言っていたが、こんな盛大に見送られると逆に緊張する。改札でバイバイの方がよっぽどいい。


 駅ホーム側から、ポーンと電子チャイムの音が鳴る。サラリーマンや旅行客が改札に吸い込まれていく。大雨のような雑踏。カラフルな電光掲示板。さまざまな新幹線の名前と発車時刻が並ぶ。


 キャリーの振動を感じながら、俺も指定席切符を持って改札に進んだ。切符を入れた瞬間、目の前の小さなゲートが開かれた。それが一種の関所に見えて、どこかの筋肉が震え上がった。


 やばい。帰りたい。


「俺が持つよ」


 後ろを歩いていた勇人が、俺の持っていたキャリーをひょいと持ち上げた。


「ほら、早く行けよ」


 勇人に押し出されるように改札を出ると、母さんも夏も続いて入って来た。


 エスカレーターに乗り、ホームに出ると、すでにあちこちで人が並んでいた。この人たち全員東京に行くのだろうか。この中に俺と同じ目的の人間はいるだろうか。


 俺も目的の号車の前に並ぶと、すぐに新聞を読んでいる気難しそうな男性が背後に立った。この人が隣じゃないといいな、と心の中で願ってしまう。


「のど飴いる?」


 横にいた夏がはちみつ味の飴をちらつかせた。


「いや、大丈夫」

「そっか。……あのさ、ビルとかマンションみたいな高い建物をじっと見上げるのはやめてね。田舎者丸出しだから」

「なんだよそれ」

「お土産よろしくね」

「そんな余裕ないよ」


 そんな話をしているうちに、遠くの方から新幹線の光が見え始めた。鼓動もスピードを増していく。


 「気を付けろよ」「頑張ってね」「体調だけは崩さないようにね」。

 そんな声たちに、「うん」と応えるので精一杯で。気を抜くと、本音を零してしまいそうで。3人の顔を直視できなかった。


 目の前に現れた扉。キャリーを片手に、足を踏み入れる。両足が着いた途端、体が動かなくなった。後ろを歩いていた男性が「なんだ」と小さく呟く。咄嗟に先に行くよう手で促し、振り向いてしまった。


 向こう岸で心配そうに俺を見つめるの3人の顔。鼻の奥がツンとした。


 なんとか口角を上げ、右手を顔の前でぶんぶん振ってみせた。母さんや勇人は心配そうな顔ながらも振り返してくれたが、仏頂面はこちらを睨んだままで動かない。俺はキャリーを持ち直し、座席へと向かった。


 勉強道具以外を荷物棚に置き、席に着く。出発まであと2分となっていた。俺は廊下側の席で、窓際は母さんと同世代くらいの女性が静かに雑誌を読んでいる。東京までなんとか集中できそうだ。単語帳に挟んでいた赤シートを取り出す。


「お兄ちゃん」


 幻聴か? 聞こえるはずのない声が頭上からする。見上げると、息を切らした夏が立っていた。


「え!? なんでいるんだよ。なんかあった? もしかして忘れ物?」


 夏は首を振りながら、震えた声で答えた。


「えっと、そのね、……あの、エアコンで喉風邪ひかないように気を付けてね」

 

 訳が分からない。今更何を言うんだろう。とりあえず「うん」と頷く。夏は何かを思い出そうとしているのか、足踏みをしながら続けた。


「ホテル無事についたら連絡してね」

「う、うん」

「お腹空いたらコンビニ行くんだよ」

「……うん」

「試験前に飲み物飲みすぎないでね。トイレ行きたくなるんだから」

「うん。分かってる」

「インフル流行ってるんだからちゃんとマスクしてね。手洗いうがいもしっかりね」

「分かってるよ。大丈夫だから。もう新幹線出ちゃうよ」


 「そうだね」と呟く夏は、まだ何か言いたそうな顔をした。一度出口を向いたが、もう一度こちらに向き直った。


「やっぱりあげる」


 強引に手を掴まれ、何かを握らされた。のど飴だった。はちみつだからか、蜂のイラストが描かれている。


「お兄ちゃんは大丈夫だよ。大丈夫だからね。負けちゃダメだよ」


 それだけ言い残し、夏は走ってホームへ戻って行った。同時にドアが閉まり、完全に地上と切り離された。


 新幹線がゆっくりと加速する。窓の向こうから手を振る3人が見えなくなっていく。数分前までいたはずの場所が遠ざかっていく。瞼が熱くて仕方なかった。


 微かな揺れとともに、ある言葉が頭の奥で反芻する。


 早人は頭がいいから、お医者さんとかいいかもね。


 いつのことだろう。小学生の頃か、それよりもずっと前か。

 確かなのは、母さんがそう言ってくれた瞬間からずっと頭から離れなかったこと。母さんの職場に行くたび、働く母さんの姿を見るたび、漠然とした憧れだけが純粋に膨らんでいった。

 

 でもいざ本気でその道を志してみると、憧れは憧れのままのほうが幸せだったのだと悟った。初めてまともに受けた模試で食らったのはD判定。滑り止めとして選んだ大学もCが並んだ。果てしない底なし沼にはまったようだった。


 この一年間、何度も同じ夢を見た。しかも回数が重なるたびより鮮明でリアルになる。正夢になりそうで恐ろしかった。そのせいで毎晩寝る前は緊張するようになった。疲れ果て、気絶するように寝落ちした方がずっと楽だった。


 望んで得た日々のはずなのに、どんどん自分が暗闇に堕ちていくようで。震えた手は一向に収まらなくて。目の前の単語が一つも頭に入ってこなくて。

 

 窓から高いビルが見え始めた頃。潰れてしまいそうなほどに、飴を握りしめていた。

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