5・6 つまり、俺が言いたいのは

――2010年3月――


 久々にテツさんに会いに行った。会いたいとは前々から思っていたのに、上京が決まってからようやくだ。


 店を辞めて一年近くが経っていたせいか、俺の知らないバイトばかりが働いていた。共に汗を流したバイト仲間の大半は、就職が決まったとか、別のバイトを始めたとかいった理由で辞めていったのだという。


 テツさんは昔と変わらない澄まし顔で唐揚げ丼を作ってくれた。休憩室で一人まかないを食べる時間はいつも空腹と孤独の狭間で妙に好かなかったが、今回ばかりは違っていた。


 あの頃はここでよくまかない食べてたな、疲れ切った時は椅子を並べて仮眠とっていたななんて思い出す。しばらくすると、缶コーヒーを手にしたテツさんがやってきた。


 他愛もない雑談を交え、俺が唐揚げ丼を平らげた頃、テツさんはタバコをふかしながら「お前は立派だよ」と言った。


「やめてくださいよ。褒められ慣れてないんで反応に困ります」

「いや、今回ばかりは天狗になってもいいだろ。そんだけのことをお前はしたんだから」


 懐かしいタバコの匂い。銘柄は覚えていなかったが、体にはしっかり刻まれていたらしい。一瞬で汗水垂らして必死に働いていた高校生時代に引き戻される。


「東京にはいろんな奴がいるもんだ。今までの価値観も常識もぶっ壊されるくらい驚くことがたくさんあると思う。でもいつかお前も俺たちを驚かせる側になるんだろうな。ここじゃできないことを経験して、俺たちが見違えるほどの人間になってるはずだ。ずっとずっと遠くの、手の届かないような場所にいるんだろうな」

「そんなわけないじゃないですか。俺はこのまま変わらないですよ。そもそも俺、東京似合わないですし。場違いというか、きっと大学でも田舎者丸出しで浮きますよ。東京に染まれないでしょうし。というか染まりたくないですし。向こうの生活が嫌になって逃げ帰ってくるかもしれないですよ」


 テツさんはふっと太い煙を吐いた。


「いいんだよ染まっても。東京に染まれるのは東京に行けたやつだけだ。いっそ染まっちまえ。田舎のことなんてさ、ダチとバカ笑いして飲み歩いて、ゲロ吐きながら蹲った時にぼんやり思い出すくらいがちょうどいいんだ。バカやれるのは若いうちだぞ。一生分のハメを外してこいよ」


 テツさんらしい独特の謎持論。自然と緩む頬を必死に抑え、「そうですか?」とだけ返事をした。


 まともに話せるのは今日だけということを分かっているからだろう。テツさんの口は止まらなかった。


「東京には人間の嫌な部分が凝縮されてる。クソみたいなやつらばっかだよ。それでもさ、信用できるやつを見つけろ。一人でいいから。先輩でも同期でも行きつけの居酒屋の兄ちゃんでもなんでもいいから。それだけで上京する価値はあるんだ。将来結婚して子供ができても年に数回連絡取り合うような人と出会えよ。絶対こっちじゃ見つからないから」


 空になったどんぶりが煙に包まれていく。唐揚げの油が染みていたものが、タバコ風味に変わっていく。


 ぼんやりだけど、年に一回でも、数年に一回の付き合いでも、きっと俺はテツさんとつながっていけるだろうと思った。


 一千万もの人混みの中を掻き分けながら、不意にテツさんに会いたくなる瞬間がやってくるはずだ。たまに愚痴を吐きながら、人には言えないくだらないことを伝えたくなるだろう。

 テツさんは、帰りたくても帰れない、この場所にしかいないから。


 俺はタバコの煙に咽せながら、きっと最後になる「ごちそうさまでした」を言った。






 勇人がバイトに出かけた頃、入れ違うように夏がやってきた。

 床に座って断捨離をしている俺を見下ろしながら、「ねえ、なんか気付かない?」とわざとらしく髪を耳にかける。もはや見せつけているに近い。


「ピアス開けた?」

「うん! よく分かったね。この前勇人にやってもらった」


 夏は「全然痛くなかったのー」と言いながら俺の横に座った。


「お兄ちゃんもやってみたら? なんならやってあげようか? ピアッサーあるからさ」

「怖いからいいよ。痛そうだし」


 俺が無関心すぎるだけなのだろうか。何が悲しくてわざわざ体に穴を開けようとするのかさっぱり分からない。


「お兄ちゃんは相変わらずビビりだね。勇人は何個もやってたのになあ」

「あれは勇人がイカれてたからだろ。今はまだマシだけどさ、あの時なんてすんごい腰パンでさ、髪なんかサボテンみたいにツンツンにしてさ、何がいいんだかさっぱり分かんなかったよ。ヤンキー気取りかと思った」

「若気の至りってやつだよ。勇人らしいじゃん」


 ごくせん化するのが勇人らしさなのか。たまったもんじゃない。弟が反抗期になって苦労したのはこっちだぞ。

 ビーっとガムテープを引っ張る。


「でもお兄ちゃんはいつまで経ってもお兄ちゃんだよね。地味ーな感じ。全然変わんない。お兄ちゃんのまんま」


 まあ、それでいいんだけどね。お兄ちゃんは。夏は段ボールの横に転がったガムテープの残骸をコロコロと丸めた。


「夏ってさ、俺のことずっと『お兄ちゃん』って呼ぶよな」


 ガムテープを丸める手が止まる。代わりに、その黒い目がくりくりと動いた。


「へ? だってお兄ちゃんじゃん」

「俺は名前で呼んでほしいんだけどな」

「ええ!? そうだったの?」

「うん。地味ーに思ってましたよ」

「え、そうだったんだ。なんかごめん。でも無理。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。今更名前で呼ぶなんてできないよ。親を名前で呼ぶみたいで違和感しかない」


 親を名前呼びする感覚か。妙に納得できた。


 それでも俺が年下だったら名前で呼んでくれただろうか、勇人が兄だったらあいつをお兄ちゃんと呼んでいたのだろうかと考え始めていた。


 夏が俺をお兄ちゃんと呼ぶようになったのはいつからだっただろう。初めからだったか。考えてみれば名前で呼ばれた記憶がない。どうして俺をお兄ちゃんと呼ぶのだろう。血も繋がっていないのに。


「俺さ、夏に言ってなかったことがあるんだ」


 夏が「なあに」と返事をする前に、声は出ていた。 


「好きだ」


 顔を見る勇気はなかった。手元のガムテープを意味もなく千切ってみた。指先に粘り気が纏わりつく。


 なんとなく視線を上げると、夏の目が点になっていた。何の話をしているんだとでも言いたげだ。聞いたこともないような国の言語に初めて触れた時、人はこんな顔をするのかもしれない。


 日本語は主語が無くても会話が成り立つけれど、説明不足はよろしくないようだ。


「初めて会った日から驚かされてたんだよな。兄貴の俺より勇人と喧嘩するし、手加減はしないし、アニメで見た女の子とは真逆すぎて。夏って俺だったら絶対しないことを平気でするし、大胆だし、何でもストレートだし、でも自分のことには正直で真っすぐで、意外としっかりしてるだろ。だからこそ夏の隣でたくさんの景色を見ることができた気がする。今の俺を作ってくれたのは夏だと思ってる」


 つまり、俺が言いたいのは。


「一緒にアイス食べるのも、毎日会いたいって思うのも、かわいいなって思うのも、キスしたいのも、全部夏だけだった。夏は俺のことを『お兄ちゃん』だと思っているかもしれないけど、俺は夏を妹だと思ったことは一度もなかったよ」


 夏が何かを言う前に俺は立ち上がり、机の引き出しから先日作ったものを取り出した。よかった。ちゃんとあった。引き出しの中が魔法のように何もかも消えてたらどうしようかと思った。


 ちょっと強引に夏の手を取り、それを無理やり握らせた。


「ごめん。言い逃げだよな。困らせるだけだって分かってる。でもどうしても言っておきたかったんだ。明日言おう、明日言おうって毎日毎日思ってたけど、いつまでも明日会えるわけじゃないから」


 夏は手の平を凝視していた。小さな手に簡単に収まるシルバーの輪郭は複雑で、ノコギリのようにも、棘が生えているようにも見える。それと同じ形をしたものを、俺も持っていた。


「誰よりもお兄ちゃんのこと知ってるからさ、お兄ちゃんが冗談を言っているのか本気なのかぐらいは分かるつもりでいる。……だからこそごめん。急に言われても困る。分かんないよ。だ、だって今までずっと家族みたいに……ずっとお兄ちゃんだと思ってたし……わ、わけわかんないよ」


 歯切れの悪い言葉たち。細切れで伝えられる。


「返事が欲しいわけじゃない。答えを出せなかったらそれでもいい。今まで通りがいいなら俺も努力する。夏を尊重するよ」

「じゃ、じゃあ、これは何なの。どうすればいいの」


 夏は手の平をこちらに見せつけた。何の変哲もないただの鍵だ。ただ、それが鍵としての役割を果たせるのは一つの部屋だけ。


「もし俺を、家族でも幼馴染でも兄でもなく男として見ることができたら、その時に使ってほしくて。返事をする気になったら、それを使って会いに来てよ。俺はいつまででも待てるから。夏にしか渡さないから」


 夏はしばらく黙っていた。喜怒哀楽どれとも判別ができないような顔をして、ずっと俯いたままだった。


 部屋を立ち去る時にようやく夏が発した言葉は、「分かった」という一言だけで、それが最後の会話だった。


 もしも「ちなみに交通費は自己負担なの?」とでも尋ねてくれたら、少しは笑って別れることができたのに。






 出発直前になっても夏が現れなかったのを見て、正直やっちまったなと思った。タイミングをもう少し考えればよかったと後悔した。


 誰かに吐き出したくなって、告白したことを勇人に伝えていた。それなのに開口一番「なんの?」と言われ、少し救われた気がした。


「振られたらどうするつもりだよ。帰省しにくくならないわけ? てかこっちの身になれよ。気まずいだろうが。母さんたちには絶対バレないようにしろよ」

「そっか。どうしようかな。あんまり考えてなかった」


 あまりにもノープランだったせいか、勇人は心底呆れた様子で溜息を吐き、俺を睨んだ。


「お前のそういうとこ、本当にムカつく」



 母さんと長時間の旅の末、新居となるアパートに辿り着いた。二階建てで、大学まで自転車で十分程度の距離にある。俺は家賃負担を考え、一階の部屋を選んだ。


 六畳程度のワンルーム。当然ユニットバスだ。いわゆるオンボロアパートというやつで、お世辞にも綺麗とは言えない。売れない芸人が住んでいそうな部屋だと思った。

 分かってはいたが、段ボールを積み上げた方がもっと立派な部屋ができそうな気がした。


 母さんが帰り、荷解きも半分も終わっていない状態で一人暮らし初めての夜を迎えた。机代わりにした段ボールの上に並ぶのは、近所のコンビニで買った唐揚げ弁当。炭水化物とタンパク質だけが並ぶ茶色い景色に、疲れとは違う息が溢れる。


 これからはこれが日常になる。お皿いっぱいに盛られた炒め物や、鍋におかわりがいくらでも残っていた生活が遠い過去のようだ。


 口にご飯を運ぶ度に思い浮かんだのは、毎日毎晩夜ご飯を用意してくれた皺がある温かい手。


 もう食事ではなかった。俺は遠く離れてしまった故郷を思いながら、上京の冷たさと、孤独を食っていた。


 やっぱり少しは、冬服を持ってくるんだったと思った。

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