4・6③ 頼むから

 人がぎゅうぎゅう詰めになっている体育館内。目の前の男の整髪料の匂いが感じ取れるくらい、人との距離が近い。全校集会の時でももう少しゆとりがあったのに。


 いつもは校長先生が長話をしている舞台上は、照明器具や機材がセッティングされていた。普段は見ることができないその景色は、まるでライブハウスのようだ。


「楽しみだね」


 夏が耳元で囁いた。暗い照明のせいで顔がうまく見えないが、上機嫌なのは確かだ。


 俺たちが立っているのは舞台の中心からやや上手側。本当は真正面で見たかったが、こればかりは仕方がない。化粧落としに手こずった割に、前から5列目で留まれただけマシだ。 


 それにしても軽音部の人気には驚かされる。相当盛り上がるとは聞いていたが、体育館がいっぱいになるほどとは。

 そしてその中に自分の弟がいるというのも更に驚きだ。本当に俺たち兄弟だよな? と疑念を抱いてしまいそうになる。



 定刻になり、トップバッターのバンドが舞台に現れた。1年生のバンドからということだったが、当然全員知らない人だった。どうせ2組目もだろう。勇人の番まで辛抱するしかない。


 数分を要した準備が終わり、演奏が始まる。披露されたのは、『宙船』と『シーソーゲーム』。その次のバンドは『小さな恋のうた』と『サウダージ』だった。


 楽器の音がデカすぎてボーカルが聞こえない時もあったし、バンドの入れ替わりの時間が長くて興ざめしそうになったが、有名曲ばかりのおかげでそこそこ楽しめた。


 何より空気感が凄まじかった。フェスだとかコンサートだとかには行ったことがなかったせいで、周りの発狂具合が衝撃的だった。


 湧き上がる歓声、耳を塞ぎたくなるほどの拍手、時々振り回されるタオルなど、いい意味で引いてしまった。知らない世界を見てしまったなぁという興奮から、気分が自然と高揚したのだ。


 しかし夏は違ったようだ。時々笑みを見せながらも、つまらなそうに舞台を眺めていた。誰もが知っている名曲を披露されようが、心が弾まないらしい。


 冷静に考えれば、知り合いでもない素人の演奏を見させられているわけで、SMAPにしか興味のない夏のテンションが跳ね上がるわけがない。


 あくまで勇人だけが目当てであり、勇人さえ見られれば十分なのだろう。勇人の演奏が終わってしまえば、回れ右して出口に走って行くに違いない。


 3組目に入った。ぞろぞろと男が舞台に現れ、セッティングが開始される。複数人が機材の調節などに取り掛かる中、見覚えのある背中が袖から現れた。


「あっ! 勇人だ! 勇人だよ!」


 夏はそう言って、さっきとはうって変わった興奮状態で、舞台上を指さした。

 今まで眠気を我慢しているような顔をしていたのに、勇人を見た途端にこれだ。相当楽しみにしていたのだろう。


 セッティングが終了し、制服姿の勇人がマイクスタンドの前に立つ。その顔が証明に照らされた途端、今までとは違ったざわめきが起きた。


 このまま自己紹介でも始まるかと思ったが、唐突に演奏が始まった。ドラムやギター、ベースが期待通りの音を鳴らす。落雷のように凄まじい勢いで響く、激しいリズム。指先が痺れていくのを感じた。


 いつか必ず聞こうと誓った日から、ずっと待っていたあの曲。若者の苦しさと痛みを訴えた、細胞をダイレクトに刺激してくる歌詞。


 その時、初めて勇人の歌声を聞いた。


 地声とは違った高さを持っている、若干ハスキーな声。荒いようにも甘いようにも感じる不思議な声質で、自然と人を惹きつけるような魅力があった。


 今は亡き尾崎豊が生み出した『15の夜』が、勇人の声に乗って耳に届く。会場は盛り上がるというより、息を呑んでいた。「10代のカリスマ」による痛烈な言葉に、何かを掴まれたのかもしれない。


 やはりこれは『15の夜』だ。10代が歌うことに意味がある。10代が聞くことに価値がある。

 未来という強靭な壁を目の前に、希望と絶望を抱いた10代だからこそ胸に響くのだ。酸いも甘いも経験した大人では、きっとここまでの熱は湧き出ない。


 一瞬すぎる輝きと情熱が眩しくてあまりにも尊くて、若さに身を任せて海まで逃げた夜を思い出して、目頭が熱くなった。


 曲の終了と同時に、歓声と拍手が地上を轟かせた。耳を塞ぎたくなるほどの喝采の嵐。夏も感激した様子で激しく手を叩き、その演奏を讃えていた。


「ヤバかったね! 勇人ってあんなに歌上手かったんだ……ってやだ、お兄ちゃん、泣いてるの?」

「泣いてない」

「ほんと? なんか目が光ってるけど? 絶対泣いたでしょ」

「泣いてないって」

「……あっそ。なんでもいいけど、頼むからこんなとこで泣かないでよ。恥ずかしい」


 泣いてないってば。泣きそうになっただけ。


 でももし、ここが俺と勇人だけの空間だったら。俺の涙に茶々を入れる存在がいなかったら。唇を噛み締める力を少しでも緩めていたら……。



 勇人によるMCが始まった。慣れていないのか、恥ずかしそうに話している。共感性羞恥ほどではないが、身内という立場のせいか、俺まで照れてしまう。


 勇人がメンバー紹介をしている中、どこからか「あの子イケメンじゃない?」「何組の子?」といった囁きが聞こえてきた。


 予想通りだ。これであいつは学校中の女子から注目されることになるだろう。つい最近彼女さんと別れたことも相まって、大変なことになりそうな気がする。


「ねえ知ってる? どうして勇人が軽音部に入ったか」


 夏が俺の横腹を肘で突いた。俺は首を横に振った。


「あのドラムの人が何度も勇人をスカウトしたんだよ。勇人は何度も断ったんだけど、廊下のど真ん中で土下座されて根負けしたんだって」

「そもそもなんでスカウトされたわけ?」

「えっと……確か、遠足のバスレクで『GLAMOROUS SKY』歌ったのがきっかけだったような。うちの学校って入学直後に遠足行くじゃん。その時のバスレクがカラオケ大会だったらしいよ」

「……なるほど」


 妙に納得できてしまった。あの顔であんな歌声で『GLAMOROUS SKY』なんか披露されたら、確かにボーカルに誘いたくなる。



――『2曲目は、俺の決意表明だから』


 そういえばあれはなんだったのだろう。俺をからかうために言ったのか、何かしら意味があったのか。よく分からない。


 首を捻っている間に空気を揺らしたのは、尾崎とは違った穏やかな旋律。バラードでも始まりそうなほど、柔らかく優しい演奏。


 俺が邦楽に疎いせいだろうか。全く聞き覚えがない。ジャンルすらよく分からない。もしかしたら余程の音楽好きでないと知らないマニアックな曲なのかもしれない。

 やっぱり洋楽ばかりじゃなくて、邦楽も聞いておけばよかっただろうか。


 しかし前奏を耳にしているうちに、知っているような気がし始めた。頭の中のある記憶が、手を上げてこちらに呼びかけている。


 メロディラインによく耳を澄ませた途端、確信した。

 知ってる。聞いたことがあるレベルじゃない。うんざりするほど聞かされた、脳に染みついた曲だ。


「あれ、この曲……」


 夏も気が付いたようで、目を見開いて舞台を見上げていた。


 前奏が終わり、勇人の甘く低い歌声が空間を包む。空気が変わる。温度が変わる。世界観に飲み込まれる。


 俺は誰よりも何よりもこれを知っていた。車の中とか、リビングとか、蒸し暑い二階の部屋とか、MDとかiPodとかDVDとか、そんなあらゆる場面と媒体で散々聞かされて、散々語られたから。


 夏が世界で一番愛する曲。SMAPの『らいおんハート』。


 丁寧に歌い上げる勇人を無視し、俺の首は横を向いていた。周りの観客も楽器たちが奏でる音さえも遮断し、一人だけを見つめた。


 俺の横にいるその人は、俺を無視し、舞台上を向いていた。自分とマイクスタンドの前に立つ男以外は誰も存在しないかのように、呆然と一点を見つめている。


――『もし結婚するなら、旦那さんになる人にはこの曲を歌ってもらいたいな』


 夏が語ってくれた、淡い願いを思い出す。


 その瞳が、サビと同時にきらりと光る。俺が涙腺で留めたものが、彼女の目から零れ落ちる。


「……くな」


 頼むからこの曲で。


「泣くな」


 囁くように漏れた願いは、舞台から溢れる綺麗な旋律に抹殺され、どこへも届かぬまま露のように溶けていった。

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