4・6② 即席仮装大賞
――2008年10月――
人。
視界に飛び込んでくるのは、人、人、人。虫の大群の如く、そこら中に群がっている。
「うどん売ってまーす!」
「11時からプールでウォーターボーイズやりまーす!」
「中庭ステージのカラオケ大会ぜひお越しください!」
遠くから聞こえる、宣伝という名の絶叫。
廊下で着ぐるみやコスプレした生徒が看板を持って徘徊しているというカオスな景色は、文化祭特有というかなんというか。
午前からこの有様で、昼を過ぎても勢いは収まらない。
俺の座っている受付前も、長蛇の列でいっぱいになっている。満員電車レベルの人口密度。更に移動中の人が教室前を行き交うせいで、酸素濃度が薄れてきているのか息苦しい。
文化祭において、お化け屋敷は鉄板中の鉄板であり、人気が集中するものらしい。迷路をやっている隣のクラスから
その上、勇人の言葉を借りるなら俺のクラスは「ホラー映画のオードブル」である。人気映画のお化け仮装を一目見ようと、野次馬気分のやつらが大量に押し寄せているわけだ。
「おい杉山! さっさとしろよ! 客詰まってんだろーが!」
黒いカーテンから、包帯を頭に巻いたミイラが顔を出した。
列が減ってもまた新たに列ができる。一応列を確認したが、廊下の突き当りまで伸びているのを見て白目を剥きそうになった。
これを捌かなければならない自分と、人数分脅かすお化け役の苦労を想わずにはいられない。
「じゃあどうぞ。暗いので気をつけてくださいね」
そう言って最前で待っていた女子生徒二人を案内したが、俺があまりにも暗く棒読みだったせいか、二人は俺の顔を二度見してきた。
無愛想な受付だなと思ったのかもしれない。でも、クーラーの恩恵を受けられない廊下で、朝からずっと受付係をしているのだ。愛想なんてものはものの一時間で蒸発してしまった。溌溂とした接客を求めているならディズニーにでも行けばいいのだ。
彼女たちが黒いカーテンをくぐった直後、甲高い悲鳴が響いた。あまりにも凄まじい声に、次に並んでいたカップルの顔が青く染まる。
次は君たちだよ、と意地悪に言いたくなる気持ちを必死に抑えていると、「おい! 杉山!」と後ろから呼ばれた。
「え?」と教室の方を振り返った瞬間、吹き出しそうになった。ドアを覆う黒いカーテンの隙間から、血反吐を吐いた落ち武者が首を出していたのだ。八つ墓村の生首を彷彿とさせた。
驚いたのは並んでいたカップルも同じだったようで、男性の方が「ぶっ」と、女性の方が「ひっ」と声を上げた。
「お前誰だ? 血の量多すぎないか」
「そんなことどうでもいいんだよ! 杉山、お前暇か?」
「え? あ……軽音部見に行く以外は暇、かな」
「よっしゃあ! おい、代打見つかったぞ!」
落ち武者が教室内に向かって叫ぶ。
「え、え、どういうこと?」
「伽椰子が腹壊して来れなくなったんだよ!」
「へ?」
「ほら、体育委員の牧田! なんか昼に委員会で配られた弁当が腐ってたみたいで、さっき病院送りになったんだ。だからお前が午後から伽椰子になってくれ!」
「はあ!?」
伽椰子ってあの伽椰子か。「ア、ア、ア……」の。それを、俺がやれと?
「嫌だ。なんで俺が」
「軽音部までのちょっとの間でいい! な? メイクなら貞子がやってくれるから!」
「貞子?」
きっと来る……。
脳内再生される例の曲。
拒否する間もなく、暗い教室から黒髪ロングの筋肉質な男がぬっと現れた。白い衣装は、井戸から這い出てくる貞子そのもの。
抵抗する間もなく、濃い腕毛を生やした貞子が、俺を井戸の底よりもずっと恐ろしい暗闇へ引き摺りこんだ。
♢
「うっ……くっ……」
「笑うな」
「うう、ふっ……」
「笑うな。頼むから。死にたくなる」
小刻みに震える夏の肩。着ている黄緑色のクラスTシャツの文字が動くほど、肩や腹筋の揺れが激しい。
夏は必死に口を
「そんなに笑える?」
「うん。ヤバすぎる。真っ白すぎ」
「……急ピッチだったから」
「仮装大賞にこういうの一人くらいはいるよ。ほんと笑える。俊雄くんそっくり」
俊雄じゃなくて伽椰子だ。カツラを取ったせいで俊雄に見えたのかもしれないが、まあどっちでもいい。結局怨霊であることに変わりない。
必要以上にドーランを塗りたくられてしまったらしい。血色全てを失わせる白さが皮膚を覆っていて、睫毛も眉毛も真っ白だ。なのに口紅と血糊だけはしっかり塗られていて、口周りだけ異様に赤くなっている。
溜息を吐くと、廊下の騒々しさがドア越しに伝わってきた。ドアの前を何人もの人が通っていくのが分かる。でも誰もこの教室に入ってくることはない。余分な机や椅子が押し込まれただけの空き教室だからだ。
避難所としては最適だが、外界から一切を遮断されたようで不思議な感覚に陥る。
「血糊付けすぎじゃない? 歯まで赤くなってるよ」
俺の下唇を摘まみ、血糊の侵食具合を確かめる夏の眉間に皺が寄る。
その瞼はほんのり桃色に染まっていた。文化祭だからか、少しだけ化粧をしているようだ。先生もこの日ばかりは大目に見てくれるのかもしれない。
「ほら、顔拭くよ。こんな顔でバンドなんて見に行けないでしょ」
夏はカバンからクレンジングシートを取り出し、俺の額から頬に向かって丁寧に拭き上げた。俺は「早く人間になりたい」と願いながら、目を瞑って身を任せた。
「くち、うーってして」
突然のことに、思わず目を開いた。
「うー?」
「そう。ちゃんと拭きたいから」
とりあえず「うー」と言いながら口を突き出すと、すぐにシートが上唇をくすぐった。血糊を拭く夏の顔は、真剣そのものだ。
「もっとちゃんとやって。うまく拭けない。ほら、うー」
「うー……」
唇に神経を集中させると、夏の顔がこちらへ寄った。
俺と同じように「うー」と唸り続ける夏の唇が、数センチの距離にまで近付く。鼻先にある夏の顔をぼんやり見つめていると、その瞳がこちらを向いた。
目が合ったのは、数秒のことで。でもその短さの間に、黒目の色とか、睫毛の長さとか、涙袋のほくろとか、頬に生えた産毛とか、そんな普段は気にも留めないものばかり目に入った。
お互いの空気が震えた気がする。でもお互いに言葉を飲み込んだままでいた。
気まずさから押し黙ったまま視線を落とすと、その先で、「う」の形に突き出された、二つの唇に気が付く。
それに触れたことがあることを、今更ながら思い出した。
夏も同じことを思ったのだろう。俺と同じように唇に目を向けながら、瞳を泳がせている。
口元の緊張をそっと和らげると、唇と摘まむ手がゆっくりと離れた。
夏は頭を掻くと、口を堅く噛み締め、わざとらしく壁を見つめ始めた。
「貸して」
「え?」
「シート。自分で拭く」
椅子に転がっているクレンジングシート。夏は「あ」の口で狼狽え、勢いよく俺にシートを投げつけた。「最初から自分で拭きなさいよ」とブツブツ言っている。
俺の唇よりも赤く染まるその頬を見て、喉の奥にむず痒さを覚えた。
顔が白くて助かったかもしれない。
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