4・6① 終わりが始まる

――2008年9月――


 新学期が始まったと思ったら、もう9月の後半に差し掛かっていた。文化祭が終わればすぐに中間テストが待ち構えている。


 憂鬱なこの時期、暑さはまだ残っているが、8月ほどの熱はない。でも秋の涼しさもない。

 夏が終わっているのか、秋が始まっているのかよく分からない。このままぼんやりと季節は変わっていくのだろう。境目を明確に提示してくれないのは、気付かれると困る事情でもあるからなのだろうか。


 はっきり変わったことといえば、教室の空気。クラスメイトの目つきが明らかに一学期の頃と違う。

 高校3年生はどこもこんなものかもしれないが、地獄の夏を乗り越え、更なる追い込みに身を投じているからか、常に緊張感がある。


 そのうちAOや推薦で進路が決まる人も出てくるだろう。就職組も近いうちに内定をもらい始めるはずだ。


 こういった景色を見ると、尻を蹴飛ばされているような気分になる。


 ほら、もうお遊びの時間はおしまいだよ。現実を見ようぜ。そうやって誰かが耳元で囁いているような妙な錯覚。


 分かってはいるし、覚悟もしていたし、いよいよ本格的に動かなければという意識はある。


 でもよく考えれば俺たちはたった17、8年しか生きていないわけで、社会の「しゃ」の字も知らない若造だ。なのにさも当然かのように俺たちに人生が左右する進路選択を迫るなんて、社会のシステムに文句の一つでも言ってやりたくなる。


 自分含め、大半の高校生はまだまだ視野も狭いし精神的にも幼いし、自分一人では何もできない未熟な状態だ。

 中には目標に向かって邁進しているやつもいるが、殆どは周りに歩調を合わせ、集団からはぐれないように必死になっているだけ。そこに自立した姿勢や崇高な志などありはしない。


 国のお偉いさんからしたらさっさと働いて納税してもらいたいんだろうが、こんな状態で高等教育を終えても、健康で文化的な生活なんてとても送れないように思える。


「進路希望調査、文化祭前が締め切りだからな! 早めに出せよ! それと、センター受ける人は検定料の支払い忘れずに! 申し込み忘れないようにな!」


 重圧で死にかけ状態の俺たちに、担任が追い打ちをかける。受験制度を考えた人の胸倉を掴んでしまいたくなる。


 それでもどこかで、この学校生活が終わることを、自分が「高校生」ではない何者かに変わろうとしていることを、噛み砕き始めている。







 しゅーちしーん、しゅーちしーん……。


 なんとなく小声で練習する。夜ご飯のハンバーグが上昇しない程度に体を動かす。

 今では歌詞も振り付けを完全に覚え、アカペラで踊れるくらいにはなった。でも振り付けを覚えているだけでは意味がない。動きが生まれたての小鹿レベルでは話にならない。


 全校生徒の前で生き恥を晒さないため、自分の面子を保つため、練習するしかないのだ。


 しゅーち……


「ただいまー」


 勢いよく開かれるドア。飛び込んでくる制服姿の長身。重なる視線。

 咄嗟に動きを止めたが、勇人は俺の一瞬の挙動で察しがついたようで、ふっと笑った。


「順調か?」

「……聞くな」

「なんだよ協力者に向かって。お前のためにわざわざ振り付けを覚えてやったんだぞ。進捗状況くらい言ってくれたっていいだろ」


 勇人はネクタイを外しながら俺の横を通り過ぎ、そのまま席に座った。その綺麗な横顔に、女子が「男のネクタイを外す仕草」が好物であることを思い出す。なんとなくその理由が分かった気がしたが、女子の心がときめくのは美男子限定なんだろうなとも思った。


 最近気が付いたことだが、勇人の耳からピアスが消えた。穴は残ったままだが、いつの間にか装飾品から卒業していたのだ。


 ようやく自分の風貌を客観視できるようになったのか、「校則」という存在を認識できたのか、背伸びしてヤンキーの真似事をしても意味がないと悟ったのか。

 何にせよ大変喜ばしいことだ。若気の至りが落ち着いていく過程を現在進行形で観察できるなんて、貴重な体験に違いない。


「そういえば、お前のクラスは文化祭で何すんの?」


 なんとなく尋ねると、Yシャツのボタンを外す勇人の手が止まった。数秒経って、「クレープ」と聞こえた。


「クレープ?」

「そう。クレープ屋。一日目はバンドで何もできないけど、二日目はひたすらクレープ作る」


 軽音部の発表は文化祭の一日目だった。バンドにクレープに、随分と充実した文化祭なこった。

 対して俺は、後夜祭で『羞恥心』を披露するわけで、勇人との落差に肩を落とさずにはいられない。


「そっちはお化け屋敷やるんだろ? どんなお化けがいるんだ?」


 勇人の問いに一瞬悩んだ。ネタバレになってしまうからだ。

 こういうのは当日のお楽しみにしておいた方がいいはずだ。軽音部が披露する曲を頑なに明かそうとしないのと同じで。


 でもすぐに、勇人は俺のクラスになんか来ないだろうと思った。バンドやらクレープ作りやらで二日間忙しいに違いない。だったら教えてしまっても問題ないんじゃないかという結論に至った。


「貞子、伽椰子、キョンシー、ジェイソン、フレディ、チャッキー……あとミイラとか落ち武者とかいたような」


 思い出した限りを列挙する。他にもいたような気がするが、わざわざ記憶から引っ張り出す必要はない情報だろう。


「なんだそのホラー映画のオードブルは。和洋折衷何でもアリか」


 勇人はそう言って鼻で笑った。自分から聞いておいてなんだよと思ったが、確かに超豪華なラインナップだ。著作権云々は大丈夫なのか心配になってくるが、恐らく抵触しないスレスレを攻めるのだろう。


 ウケ狙いということでお化け役は男子がやることになっていたが、伽耶子役が体育委員の牧田というやつだったのが印象的だった。牧田は身長180超えのラグビー部で、岩のような筋肉の持ち主。


 随分ガタイのいい伽椰子だなあ。仮装をしなくても、十分絶叫をかっさらえるんじゃないか。そう言ってクラスメイトとゲラゲラ笑ってしまったっけ。


「早人のは何番目?」

「何が?」

「後夜祭の順番だよ。何番目に『羞恥心』やるんだ?」

「……最後から2番目」

「へー。運良ければ優勝できそうな順番じゃん。ラストに大玉が出なければ」


 大玉ねえ……。

 文化祭実行委員も軽音部同様ネタバレを忌み嫌うタイプだったせいで、順番はあみだくじだった上に、自分の前と後にどのようなグループが何をするのか知らされていない。そもそも『羞恥心』以外に何が披露されるのかよく知らない。


「勇人は何番目なんだよ。軽音部の体育館ステージ」

「3番目。1年のバンドは前半だから順番が早いんだよ」

「ふーん。……あ、軽音部ってどこも2曲歌うんだろ? お前は尾崎と何歌うんだよ」

「は? 教えるわけないだろ。もともと『15の夜』も知られちゃまずかったんだから。当日の楽しみにしとけ」


 確かに『15の夜』を歌うことを知ってしまった時、勇人から「勝手に人の机見るんじゃねえ」と怒られてしまった。勇人からしたら重要機密だったんだろうし、当時勇人は反抗期真っ最中だったから余計に怒りを買ってしまった。


「そっか、分かった。あーでも『15の夜』、楽しみだな。ずっと聞きたかったんだよ。夏と行くから俺たちのために一生懸命歌ってくれ」


 ふざけた口調で言ったが、Yシャツを脱ぎ終えた勇人は上裸のまま固まった。でもすぐに眉尻を下げ、口角を上げた。


「そうだな。お前たちのことを考えながら歌うよ」


 想定外の反応に「なんだよ。冗談で言ったつもりなのに」と言うと、勇人は「いや……ちょっとな」と静かに呟いた。


「2曲目は、俺の決意表明だから。よろしく」


 突然の宣言に「は? どういうこと?」と即座に聞いたが、勇人は「そのうち分かるよ」としか答えてくれなかった。


「……なんだその意味深な感じ。気持ち悪い」

「意味深でいいよ。俺が言ってるのがどういうことなのか、その鈍い頭でちょっとは考えてみろ」


 そんなことを言われるなんて心外だが、勇人の言っている意味がまるで分からないところから察するに、俺は鈍感な方なのだろう。


「ま、まあ……楽しみにしとくわ」


 無難に返事すると、勇人は俺が何も理解できていないのを察したらしく、呆れたように笑った。


「俺こそ後夜祭を楽しみにしてるよ。せいぜい人から笑われない程度にな。最後の文化祭なんだから」


 飛んできた言葉に、胃が痛んだ。

 高校生活最後の文化祭。何も考えず気楽に楽しみたかったのに、『羞恥心』のせいで億劫だ。さっさと終わってしまえばいいのに。


「……水飲んでくる」


 わざわざ勇人に報告する必要もないのに、口に出す。勇人は特に反応することなく、半裸のままケータイをいじっていた。


 電気の点いていない階段を降り、廊下に出る。リビングに入ろうとしたところで、和室の扉が開いた。


「早人」


 声で誰なのか分かった。振り返ると、予想通りばあちゃんが立っていた。

 でもいつものばあちゃんではない。温度が違う。声の高さが違う。いつもより何もかも低く、重苦しい雰囲気がある。


「どうしたの? なんかあった?」


 思わず尋ねた。直感が外れていることを期待していた。


「ちょっと二人になれる? 大事な話があるの」


 まるで告白のようなセリフ。

 でも実際に俺の胸をかすめたのはトキメキでも期待でも高揚でもなく、気味の悪い緊張感。鬼から必死に身を隠す、かくれんぼのような息苦しさ。


 ばあちゃんの手に握られているものが目に入る。薄く、小さな手帳のようなもの。家庭の現実を数字化して表した、希望も絶望も感じさせるもの。


 幻想の終わりと現実の始まりを感じた時、何かが俺の尻を蹴飛ばした。

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