4・5② どうして君を
――2008年9月――
チカチカと目を刺激する照明。足にまで振動が伝わる爆音。
隣の部屋で、中年くらいの男が『海雪』を熱唱しているのが聞こえる。歌詞の一門一句をはっきりと聞き取れるくらい、壁が薄い。
目の前の画面には、何度も見たことのあるPV映像。スピーカーからは、今年死ぬほど聞いたメロディが、耳元で手拍子されるくらいの煩わしさで鳴り響いている。
雑音の一つ一つが、テーブルの上のグラスを眺めては溜息を吐く俺を遠回しに嘲笑っているようで苛つく。
『二人寄り添ってあるーいてええ!』
「うるせえんだよ!」
マイクを握って荒狂うスポーツ刈りに、手元にあったおしぼりを投げつけると、そいつは飛んできた白い物体を見て「うわあああ!」と叫んだ。その悲鳴がマイクを通して部屋に響く。
「な、なんだよ。どうしたんだよ。カラオケって歌う場所だろ? なんで歌っただけで怒られたんだ?」
そうやって目を見開いたまま狼狽える木田を見ても、苛つきは一向に収まらない。
確かにカラオケは歌う場所だ。でも状況が状況なだけに、俺を無視して歌い続けるケインコスギがどうしても我慢ならなかったのだ。
「周りの目を気にせずお前に話がしたかっただけで、別にカラオケがしたかったわけじゃない! 切り出し方が分からなくてちょっと黙ってただけなのにこんな何曲も歌うなよ! 言い出しにくいだろうが!」
木田は椅子に倒れこんだまま激しく瞬きし、「そっか……」と呟いた。
木田の通っている高校は、私鉄をいくつか乗り継がなければらならい僻地にある。それでも話がしたくて無駄に高い運賃を払ってまで来たというのに、こいつは俺をカラオケに連行するなり熱唱してやがる。
そりゃあ人目を気にせずゆっくり話すにはカラオケは悪くないかもしれないが、まさかずっと歌われるとは思わなかった。これでは話すタイミングが永遠に訪れない。
木田はゆっくりと立ち上がると、「でもさ……2時間経っても何も言ってこないのも悪いだろ」と吐き捨てた。
「は!? 2時間!?」
急いでケータイを開くと、カラオケに着いてから2時間半も経過していた。体感では30分くらいだったのに。
「なんでもっと早く言わなかったんだよ! 何呑気に歌ってんだよ!」
「いや、お前があまりにも深刻な顔するから歌うしかなかったんだよ! お前が言いだすまで待とうかなって思って……。でもさすがに2時間は長すぎ。銅像かと思った」
「それは申し訳ないけど……2時間も待つお前もヤバいぞ」
呆れ顔の木田が、氷がすっかり溶け切ったメロンソーダを持った。コップから、結露がポタポタと垂れ落ちる。
その顔を改めて見ると、色の濃さが目に付いた。最後に会った時はここまで焼けていなかったのに、いつの間にこいつはケインコスギから松崎しげるになっていたのだろう。
肌の色だけではない。身長が以前より高くなっていて、声は以前より低くなっている。何よりも、前は産毛しか生えていなかった口元が青くなっていることが、第二次成長期真っ只中であることを象徴していた。
「で、どうしたんだよ。勇人が急にこっちまで来たってことは、何かあったんだろ? 門限あるからほどほどに頼むよ」
門限というタイムリミットを提示されたからには、言わなくてはならない。このまま何も言わずに帰るなんて、交通費を無駄にするだけだ。
でもいざ真正面から構えられるとなかなか言い出しにくい。どんな言葉から入ればいいのか分からない。
黙っていると、隣の部屋が「ぽっぽぽぽぽー」と独特なフレーズを歌い始めた。こちらの沈黙が長引けば長引くほど、その音が脳幹を連打する。呑気にも、木田は「お、鼠先輩だ」と笑っていた。
「凪咲と別れた」
鼠先輩をかき消すように、投げやりに言ってやった。目の前の阿呆は、笑顔のまま固まった。直球すぎただろうか。もっと前置きが必要だったか。
隣の部屋はまだまだ「ぽぽぽぽ」歌っている。上り坂のように怒涛の「ぽ」ラッシュが響き渡る。
すると木田は急に真顔になり、デンモクの操作を始めた。すぐに聞き覚えのある切ないメロディが流れた。隣の歌声を紛らわすために、BGM代わりとして曲を流したのだろうか。
しかし、木田はマイクを持って歌い始めてしまった。呆然とする俺を無視し、凄まじい熱量で。のど自慢大会かというほど真剣そのものだった。
あっという間に曲が終わる。歌い終えた木田は、マイクを握ったまま再びデンモクを操作した。
画面に、木田の入れた曲が表示された瞬間、堪忍袋の緒がぷつりと切れる音が聞こえた。
『どおおおしーてえええ』
「いい加減にしろおおお!」
俺の怒号に、木田は「えっ」と戸惑って見せた。その反応が尚更癪だった。
「お前わざとか!? 『366日』やら『どうして君を好きになってしまったんだろう?』やら入れやがって! なんだ? 嫌がらせか? どういうつもりだ!」
「え、え……俺なりの慰めだったんだけど」
「慰めになってねえよ!」
「……じゃあどうすれば正解なんだよ。一緒に泣けばいいのか? 事情を根掘り葉掘り聞けばいいのか? そんなんで何になるんだよ。こういう時は思いっきり歌えばいいんだ。きっとスッキリするさ」
「スッキリさせるのはお前の脳みその方だ。来い。二度と歌えない体にしてやる」
俺が立ち上がった瞬間、木田は「なんだよお! 俺だってこんな話急にされて困ってるんだよお! ちょっと空回りしただけじゃんかあ!」と発狂しながら手元にあったタンバリンを叩きならして威嚇してきた。その様子があまりにも間抜けで、怒る気も失せる。
沸騰しすぎた血を抑えようと、コーラを飲んで一息つく。俺が冷静になったのが分かったのか、木田は音を鳴らすのを止めた。それでも俺の襲撃がまだ恐ろしいらしく、タンバリンを握り締めたままだ。
「じゃあ一応聞くけどさ、原因は何だ? どうして別れたんだ」
東方神起が流れ続ける。命が吹き込まれないまま音だけが部屋に舞っていく。画面に映る歌詞テロップが、律義に赤く染まる。健気な様子が、「どうして歌ってくれないの?」とこちらを責め立てているようにも見えた。
「私のこと好きじゃないでしょって言われた」
木田が手に持つタンバリンから、かすかにシンバル部分が鳴った。
「……好きじゃなかったのか」
「好きだったよ。振られたショックで一週間まともに食事ができなくなるくらい、眠れなくなるくらい好きだった」
「じゃあなんでそんなこと言われたんだよ」
答えに悩んでいると、「あれか、例のゴリエのせいか」と呆れた口調で木田が言い放った。
俺は木田を見た。木田も、タンバリンを抱きながら俺を見ていた。
「どうせ笹井のことも好きだったけど、ゴリエのことはもっと好きだった、ってとこだろ。で、笹井はそれに気付いたんだろ。なるほどなるほど。恋愛なんて人生の必須科目でもないのに忙しいやつだなあ」
イヤミったらしい言い草に文句でも言ってやりたかったが、図星すぎて何も言えない。
「バカだなあお前。大きな魚を逃したな。大損だぞまったく……。なんでよりによってゴリエなんだ。何がそんなにいいんだか。理解不能だね」
この手の感情は、学者が束になっても解明できない永遠の謎のようにも思える。
ふと思うのは、幼馴染が凪咲だったら夏と同じような想いを抱いていただろうかということだ。夏が同級生で、ただのクラスメイトの一人だったとしたら、ここまでの深い感情は生まれていただろうか。
何時間も何日も考えて辿り着くのは、結局は夏を好きになってしまう気がすると言う漠然とした結論。
「で、どうするわけ?」
「え」
「ゴリエにアタックするんだろ?」
「……なんで?」
「なんで? え? じゃあ何もしないつもりか? 現状維持?」
「だ、だって……凪咲と別れたのはつい先週だぞ? そんな急に切り替えられない。それに家族ぐるみで付き合いのある幼馴染だし……振られたら気まずいし……それに……」
「あ、そうか。ライバルいるんだったな。よりによって最強最悪最大の強敵が」
心臓に重石でも乗せられているように息が詰まる。そんな俺の心情を表すかのように、木田が溜息を吐いた。
「厄介な環境だな。変に情が沸いて遠慮したくなるだろ? 赤の他人とは違って邪険にできないから、迂闊に動けないし抜け駆けもできないだろ」
多分あいつは、俺の気持ちに気付いていない。血を分けた弟が敵陣に立っていることなど微塵も知らない。もしかしたら、自分の気持ちすら分かっていないかもしれない。それぐらい、鈍感なマヌケ野郎だ。
だからこそ何もできない。あいつが俺を出し抜いてくるくらい狡猾なやつだったら、俺も喜んで戦ってやるのに。
「でも心を鬼にして動かないと一生このままだぞ。少しくらい仕掛けたらどうだ。別に急に告白しなくたってさ、相手の心を揺さぶることをするとかさ、男として見られる努力をするとかさ、アピールするとかさ。ただの幼馴染から恋愛対象にまずは昇格しなきゃ」
「……別れた直後でそんな気になれないって」
「お前なあ、そんなグズグズしてていいのか? 恋愛はタイミングが重要なんだぞ! それに敵は兄貴だろ? どうでもいい赤の他人とは違うだろ? だからこそ何もできなくなる前に動いたほうがいいんだよ!」
何もできなくなる前?
含みのある言葉が、喉奥で引っ掛かった。
「どういうことだ?」
嫌な汗が喉をくすぐる。蜜のようにべったりとしていて、なかなか乾いてくれない。拭いても拭いても、いつの間にか同じように湿っている。だから俺はこの季節が、一番嫌いなのだ。
「お前だから話すよ。同じ兄を持つ者としての、一種の忠告だ」
気味悪いほど重い、木田の声。
空気を吸う。息を吐く。それだけのことが、すごく長く感じた。
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