4・5① 明日やろうは

――2008年9月――


 「好き」という感情の定義は結局なんなんだろう。人間としての「好き」と、恋愛としての「好き」の違いはどこなのだろう。

 

 恋に落ちただとか、惚れただとか、好きになっただとか。マンガを読んでいるとしょっちゅう出てくる言葉たち。みんな簡単に言うけど、世代も国境も境無く共通して存在するこの感情を、正確に説明できる人はいるのだろうか。きっかけも理由もバラバラな上に、すぐ冷める恋もあれば生涯続く愛もある。まるで統一性がない。


 胸が高鳴れば好きなのか、キスができれば好きなのか、体の関係を持てれば好きなのか、独占欲が生まれれば好きなのか、一生側にいたいと思えば好きなのか。


 やっぱりよく分からない。よく分からないくせに、いつの間にか「好きだ」と思っている。恋をしていると自覚している。そして「好きだ」と口にしている。


 曖昧にしていたほうがなにかと都合がいいのだろう。様々な感情を一気に包括してしまえるから。あまりにも細かく定義してしまうと、それから外れた場合、「恋ではない何か」になってしまうから。


 でも曖昧だからこそ混乱するように思える。感情の種類が分からず迷走し、恋が恋だと気付かないことがある。後になって恋だったのだと気付くこともある。恋だと思っていたものが、ただの執着や性欲、同情によるものだったと思い知らされることもある。


 俺はきっと、その曖昧さに救われ、おとしめられている。






「相変わらず下手でさあ。困ったよ。一番の振り付けを教えるだけで夜までかかったんだぜ?」


 クーラーの効いた、ピンクと白を中心に構成された室内。6畳ほどのその空間は箱庭のようで神聖さがある。毎週のように来ていた部屋だが、新学期が始まってから来るのは初めてだ。そんな久々の空間を、コーラ一杯で1時間過ごしている。


「そもそも受験生のくせに後夜祭出る時点でおかしいよな。俺なら絶対やらないわ。あいつはお人好しすぎるんだよ。断固拒否すればいいものを」


 大袈裟に声を張る。部屋の外にまで響いていそうな声量なのに、構わず続けた。「声大きいよ」と注意されるのを期待しているのだ。


「そういえば、文化祭の曲ついに確定したんだよ。ほんとは教えたいけど、当日のお楽しみってことで秘密にしとくな。でもきっとびっくりすると思うよ」


 机に置かれたポッキーに手を伸ばそうか一瞬迷ったが、食欲が湧いてこない。胃が何も受け付けないという意思表明をしている。今何か喉を通しても、食道の途中で通行止めを食らってUターンさせられる気がした。


 全部、いつまで経っても彼女が何も言ってくれないからだ。大声で話しても下を向いたままで口を動かしてくれない。部屋のど真ん中で向き合って座っているのに、一度も目が合わない。前にテスト勉強した時でさえもっと視線は重なっていたのに。


 氷が溶け切って、お世辞にもおいしいとは言えないコーラをなんとか飲みこむ。彼女はコーヒーに一口もつけないままで、結露だけがコースターに垂れていた。


「勇人」


 ようやく呼ばれて、息が止まった。

 アイスコーヒーが入っているグラスをぼんやり眺めていたその大きな瞳が、こちらへ向けられていた。


「……なに?」


 目が合ったまま、沈黙が続いた。睨まれているわけでもないのに汗が噴き出た。凪咲がふーっと息を吐く。


「ごめん。私、文化祭行けない」


 そんなことか。拍子抜けした。てっきりもっと深刻なことかと思っていたのに、文化祭のことで小一時間も黙っていたのか。


「……どうした? 予定でも入った?」


 一応尋ねたが、凪咲はまだ黙ってしまった。言いにくい事情でもあるのだろうか。でも「あっそう」とすぐに受け入れる方が失礼な気がする。


「文化祭二日間あるけど……両方来られない感じ? それとも……」

「別れたいの」


 俺の声に被せるように、凪咲がはっきりと言った。聞こえた。聞き取れた。一字一句確実に鼓膜が捉えた。

 だからこそ「え?」と声を出してしまったが、凪咲の目は真っ直ぐ俺を見据えていた。決して冗談ではない、真剣な言葉なのだと瞳が語っている。驚きで何も言えない俺の隙間を埋めるように、凪咲は言った。


「お願いします。私と別れてください」


 敬語に切り替わったことが、その重みを表していた。


 小さな頭がゆっくりと前に垂れる。つむじがこちらに向けられたまま、数秒間停止した。謝罪会見を見ているよう。数秒経って、ようやく言葉が降ってきた。


「なん、で」


 声を出して、自分の唇が震えていたことに気が付く。下唇を噛み、もう一度「どうしてだよ」と口にしたが、語尾がやはり揺れていた。顔を上げた凪咲は、真顔のままはっきりと口にした。


「もう終わりにしたい」


 その声は震えていなかった。


「え、何か悪いことした? だとしたらごめん。すぐ直す。気が付かなくてほんとごめん」


 改善の余地を生み出そうと試みたのに、即座に「ううん。私の問題。勇人は何も悪くないよ」と断られてしまった。


「じゃあなんで? 俺は嫌だよ。別れたくない」


 俺の言葉が意外だったようで、凪咲は素早い瞬きを繰り返した。予想外のものを引き当てたような顔だ。どうしてそんな反応をするんだ。俺が「はい、いいですよ」とでも答えると思っていたのか。


 そもそもどうして急にこんな話をしてきたのかが分からない。もしかして、悩みでもあるのか。何かあったのか。問い詰めようか。諭すように聞き出そうか。


「勇人はさ、私のこと好きじゃなかったでしょ」


 胸を鈍器で殴られたような衝撃が走る。重すぎて、声にならない大きな息が漏れた。俺が何も発せないうちには凪咲は続けた。


「でも頑張って私のこと好きになろうとしてくれたよね。大切にしてくれたし、ずっと私のこと気にかけてくれてた。毎日のように電話するのも嫌がらずちゃんとしてくれた。彼氏として文句の付け所がないくらいだった」

「ま、待って」


 眩暈がする。頭を掻きむしってしまいたくなるほど整理がつかない。「ちょっと待って」と再び口にした言葉もひっくり返っていた。

 

「俺……凪咲のこと好きだよ。きっかけこそ不純だったけど、ほ、ほんとに……好きになった。凪咲と付き合っていくうちに、本当に自然と好きになったんだよ。嘘じゃない」

「分かってるよ。好きになってくれて嬉しかった。ようやく想いが通じたんだって泣きそうなくらい幸せだった。でもね……」


 息ができない。いや、できてはいる。できてはいるけど、酸素が行き渡っていかない。動転して頭が回らないせいで酸欠のような状態になっている。


 パニックになっている俺を、凪咲は泣きそうな目で見ていた。悲しそうに、申し訳なさそうに眉が下がっている。

 そんな顔するくらいなら、こんな話をしなければいいのに。苦しいなら、苦しまなければいいのに。


「でもね……勇人が『好きだよ』って言ってくれるたび、私は心の中で『何番目に?』って思ってたんだ」


 音が鳴った。鼓膜のずっと奥。今まで積み上げてきたものが一気に音を立てて崩壊した音だ。


 俺が初めて「好きだ」と言った時、凪咲が涙を流していた。初めてキスをした時、恥ずかしそうに、でも幸せそうに微笑んでくれた。初めて凪咲と結ばれた時、お互いの不器用さと不慣れな様子に笑い合った。全て覚えている。


 どれもつい最近のこと。数か月間の間に経験した愛おしい記憶。無残にも叩き割られ、修復不可能なほど激しく損傷していく。


「好きで付き合ってくれたわけじゃないのが分かってたから、どこかで勇人の気持ちを疑ってた。ずっと不安だった。いつ勇人が離れて行っちゃうのか心配で、それで毎日のように電話をして、安心しようとしてた」


 ズボンのポケットに入っているコムの感触。意味もなく服の上から握りしめる。


 これを媒介して彼女の声を聞いていた日々を思って指が震えた。彼女に電話をかけるたび胸が高鳴っていた瞬間を思って胃が委縮した。明日もきっとこれを使って目の前の彼女と愛を囁き合うのだと信じていた数分前を思って目頭が熱くなった。


「幸せだったよ。本当に私のこと好きになってくれたんだ、ちゃんと私は勇人の『好きな人』になれたんだって思えたから。でもあの花火大会の日、傘も持たずに走って行く勇人を見て、やっぱりそうか……って思った。一年間付き合ってたのに、あの時勇人は一度も私に見せなかった目をしてた。私には絶対向けない目だった」


 じわりと靴を濡らした雨の冷たさ。浸食してくる泥の感触と、肌に張り付く服の重み。思い出した時には、そのつぶらな瞳に大きな雫が浮かんでいた。


「……その目を見て、去年の花火大会でも、私を置いて走って行ったことを思い出したの。それで分かった。あれって、同じ人でしょ? 勇人はその人のために走ったんでしょ?」


 一年前のあの日、無我夢中で走ったことが走馬灯のように蘇る。雨の降ったあの日、電話を聞いてすぐに走り出したことも。ともに、同じ顔のことだけを思い浮かべていたことも。

 

「ごめん。でもそれは訳があって……」

「分かってる。でも、だからこそもう無理だなって思ったの。勇人は私のせいで気付いてないだけだよ。本当に好きなのは私じゃないでしょ」


 はらはらと熱いものが流れた。何の涙か分からない。複雑に入り組んだ感情がただ涙腺を刺激するばかりで、何に対して泣いているのか判断ができなかった。


 少しずつ、胸の内だけが白状していた。


 いつも視界に入る存在。排除しようと意識すればするたび翻弄されていた。関わらないようにと努めていたのは、意識しなければ離れられなかったからだ。

 あの夜、久々に話した時、抱いていた感情を思い出してしまっていた。純粋な気持ちで凪咲と電話できない自分がいた。


 凪咲の言葉を、即座に否定できないのがすべてだろう。


「ごめんね。私が意地汚いせいでここまで付き合わせちゃって」


 声も出さず泣く俺を見て、凪咲も目を潤ませていた。


「ち、ちが……俺が悪い。凪咲は何も悪くない。俺が凪咲を不安にさせてばかりだったから……俺がちゃんとしてなかったから……」

「私が悪いよ。自分が安心することだけを考えてたんだもん。私が必死にしがみついて離さなかったの。ごめんね。そもそも私が……勇人と付き合わなければよかったんだよ。他に好きな人いるのに付き合おうって言ってきた勇人を、ちゃんと跳ねのけてればよかった」


 俺のせいだ。凪咲にこんな話をさせているのも、謝罪させているのも、すべて俺のせいだ。

 俺が自分の気持ちに逃げ回って、傷つくことを避けて、自分の手を握ってくれる凪咲に駆け込んだせいだ。


 凪咲を利用していたんだ。必死に自分の気持ちを掻き消そうとしていた。凪咲で上書きしようとしていた。脆い偽装工作をしていたせいでこんなことなった。最低だ。凪咲を拒否することも肯定することもできない、選択権もない屑だ。


 俺は振られたんじゃなくて、振ってもらったんだ。彼女がはっきり言ってくれなかったら、このままずっと付き合っていただろうから。踏ん切りがつかなくなる前に、これ以上苦しくなる前に、彼女から終わらせてくれたのだ。


「でももうこれで自由の身なんだから、後悔のないようにね? 明日やろうはバカ野郎なんだよ? ドラマみたいに『ハレルヤチャーンス!』とか言ってタイムスリップなんてできないんだから。未来の自分に恨まれないようにね」

 

 凪咲も泣いていた。それを見て、余計に泣いた。肩も肺もなの口も背中も震えるほど。

 なのに、口から出た言葉は、「それ、何のドラマだっけ」というくだらないものだった。


 凪咲は「忘れちゃったの?」と涙を拭きながら笑った後、一年前俺に教えたドラマのタイトルを、そっと言ってくれた。

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