4・4② 俺の弟が

――2008年8月――


 フォレストとジェニーが水を掻き分け走って行く。水飛沫を飛ばしながらお互いに辿り着き、群集が見守る中、激しく抱擁した。途端に激しい歓声が鳴る。なんて美しいシーンなのだろう。


 少なく見積もっても、この抱擁を100回以上は見ているだろう。セリフも覚えているし、次どんな展開になるのかも分かっている。それでもちゃんと感動できる。


「何してんの?」


 振り向くと、真っ暗な廊下で背の高い男が突っ立っていた。ブラウン管を睨み、何が映っているのか認識しようとしている。


「また『フォレスト・ガンプ』?」

「うん」

「ほんと好きだな。飽きない?」

「……うん」

「なんでいつもこんな深夜に見てんの?」

「なんとなく」

「なんとなく深夜に見るのかよ」

「……あれかな。心を浄化したくなったら見る、って感じかも」


 回答に納得したのかしていないのか、勇人は黙ったままキッチンへ消えた。


 いつも純真で真っ直ぐで自分の心に素直に動くフォレスト。その姿が愛おしくて羨ましくて眩しくて、でもそんな人間になれない自分がどこか虚しくて。

 いつかこの映画を見ても何も感じなくなった時、何かが終わってしまうような気がしている。だから時々、画面を眺めながら震えている。


 もしかしたらフォレストを見ることが目的だったんじゃなくて、それを見ている自分を感じたかっただけなのかもしれない。良かった、今日も心が震えた。そうやって何も変わっていないことを確認して、眠りにつけるのかもしれない。この映画の素晴らしさを一番理解できていないのは、俺かもしれない。


 リモコンに手を伸ばすと、横で何かが動いた。驚きで体が硬直した。

 頼んだわけではない。望んだわけでもない。それなのに、なぜか勇人が俺の隣に座って画面を見始めていた。


「俺も久々に見ようかな。内容忘れたし」


 夢だろうか。疲れすぎて幻覚でも見ているのだろうか。開いた口が塞がらない。唖然としている俺が気に食わなかったのか、勇人は不満そうに「なんだよ」と俺を小突いた。

 

「あ、いや、だって、お前あんなに嫌がってたじゃん」

「別に嫌じゃねえよ。お前が何回も見せてくるからうんざりしてただけで、良い映画だとは思ってるよ」

「……そうだったのか」

「そうだよ。お前が異常なんだよ。こんな何回も同じ映画見てるやつ普通いないって」

 

 異常という言葉に、思わず固い笑みを零してしまった。


 でも、これを見るのは決まって深夜だ。寝付けない夜、ベッドで睡魔が誘ってくれるまでの時間がどうしても苦手で、その隙間を埋めてくれるものが『フォレスト・ガンプ』だった。俺は隙間を埋めるために利用していただけなのだろうか。


「どこが好きなんだよ」


 「え」と顔を上げると、勇人がどうでもよさそうな眼差しでフォレストを眺めていた。


「だから、『フォレスト・ガンプ』の好きな場面とかセリフとかあるだろ。何がそこまでいいのか教えろよ。俺もお前ほどハマッてないだけで『フォレスト・ガンプ』は好きだし。だから語ってみろよ。いくらでも聞いてやるから」


 俺は勇人を見た。勇人は俺を見なかった。断固としてテレビから目を離さなかった。でもその横顔は、誰よりも綺麗だった。






 いつの間にか朝になっていた。


 そこまで時間が経っていないように感じたのに、あっという間だった。

 喉が痛い。久々に声帯をまともに使ったせいなのか、短時間で酷使しすぎたせいなのか。


 息を整えようと水を飲んでいると、半目になっていた勇人がついに瞼を閉じた。随分と疲弊したようで、このままではリビングで寝てしまいそうだ。


 勇人はずっと聞いてくれていた。うたた寝することもなく、しっかり俺の言葉を受け止めていた。眠気と闘うためか、何回か頬を平手打ちしていたけれど。


 俺の横で目を閉じている。同じ家で同じ料理を食べ、同じ部屋で寝て、同じ学校に通っている、同じ血が流れている男。俺の唯一の弟。顔も能力も趣味も考え方も、赤の他人レベルで何もかも違っている男。時々嫉妬してしまうほど、時々この関係性を恨んでしまうほど俺にないものを持っている男。


 ふと、その奥に、俺と重なるものがあるかどうか、確認してみたくなった。


「勇人」

「……ん?」

「もしもの話だけどさ」

「ああ」

「もしも……母さんが再婚することになったらどうする?」


 閉じていた二重瞼が大きく開かれていく。眠気が吹っ飛んだらしい。俺の言葉を完全に理解したのか、分かりやすく狼狽え始めた。


「……は? 母さん彼氏いるの? マジで? え、どんな人? イケメン? 写真とかないの?」


 なんか予想していた反応と違う。てっきり暴れだすか、強い拒否感を示すと思っていたのに。楽しそうに、嬉しそうにしている。まるで修学旅行の夜だ。


「……いや、もしもの話だよ」

「あ、そっか。確かにあんなに忙しい母さんに恋愛してる暇があるわけないか。えーでもどんな人がタイプなんだろ。真面目系? 寡黙な人? 意外とガテン系が好みだったりして。お前どうする? すっげーイケメン連れてこられたら」


 あまりにも水を得た魚のように生き生きと話し続けるその面に、唾を吐きかけたくなってしまった。


「……お前さ、なんでそんな恋バナみたいなテンションでいられるんだよ」

「だって、ある意味恋バナだろ」

「ある意味そうかもそれないけど、でもちょっと違うだろ。親の話だぞ!」


 俺の勢いに、勇人は少し身を引いた。何か考え始めたのか、その太い首を傾げた。それでも俺より遥かにあっさりとしていて、深刻に捉えていないような様子だ。俺がシビアに考えすぎなのか、こいつが楽観的すぎるのか。


「お前は嫌じゃないわけ? 抵抗ないの? 受け入れられるのかよ。もしかしたら父親ができるかもしれないのに」


 「父親」。口にしただけで小さな静電気が全身を痺れさせる。


 父親ができることなんて、今まで想像したことすらなかった。今の生活に満足していたし、変化など求めていなかった。

 ばあちゃんと母さんと勇人。これだけで成立していた俺にとっての「家族」が終わってしまうことになる。


「俺は歓迎できない。嫌だ。簡単には受け入れられない」


 わがままと言われてしまえばそれまでだ。母さんのことより、自分を優先しているだけ。


 でもてっきり勇人も否定的な姿勢を見せてくれるかと思っていた。勇人も俺と同じように、変化を望まないのだと思っていた。


「だって、母さんが幸せになれるならいいだろ」


 一切の邪気のない溌溂とした声だった。


「そりゃ急に父親ができたら慣れないだろうし仲良くなるまでには時間はかかると思うよ。でもさ、母さんがそれで幸せになるんだったらいいよ。母さんの幸せが大事だろ」


 計算も何もない素直な言葉。ただ本音を発しただけの、純粋な想い。

 あまりにも俺と非対称な瞳に、後ろ指を指されているような焦りを覚えた。幼すぎる、自己中心的すぎる自分を炙り出されたような気分だ。


「……不安じゃないの? 急に知らない人連れてこられて、父親として接しなきゃいけなくなるんだぞ? 平気なのかよ」


 母さんが幸せになるなら、どんなことも賛成してやりたい。いくらでも協力したい。

 それは確かな本心のはずなのに、どうしてここまで体が拒否しているのだろう。誰の何を否定したいのだろう。


「まあ、悪いやつだったら嫌だな」


 独り言のように呟く勇人は、真っ暗なテレビ画面を見ていた。


「信用できないくらい最悪なやつだったらさすがに嫌だよ。俺だってその時は反対する。一緒に暮らせない。でもさ、文句のつけどころのないいい人だったら、俺はいいよ。受け入れる」


 その充血した大きな瞳は、強い意志を持っていた。以前から決意していたかのような、覚悟していたかのような固さが見えた。


「母さんっていつも自分のことは二の次だろ? でも……これ以上俺たちのために我慢させたくないんだ。母さんは母さんのために生きてほしいと思う。それに俺たちが家を出たら、母さんの側に誰もいないことになるだろ。そんな時、もし母さんを支えてくれる人がいたら、ちょっとは安心できる気がするんだ」


 俺が凝視しているのに、その瞳は一切揺れないままだった。自分が何を危惧していたのか、何に恐怖していたのか、徐々に噛み砕けたような気がした。

 やっぱり、俺とは違う人間だ。俺は始まってもいない未来に不安ばかり抱いて、ただ拒絶していた。こいつは素直に先を見ていたのに。


「でも母さん男を見る目なさそうだからなあ。だからもしダメ男を連れてきたら、その時にちゃんと文句言ってやろうぜ。絶対ダメだ! って追い出してさ、一昨日きやがれ! とか言ってさ」


 ふふふ、と勇人が笑う。俺たちがまだ見ぬ父親候補を玄関先で追い返すのを想像して、笑えてしまったのだろうか。


 今までこんな話をしなかった。しようとも思わなかった。勇人の本音なんて想像すらしなかった。

 まだ思春期真っ盛りの幼い弟だとばかり決めつけて、奥に眠っている言葉を引き出そうとしなかった。


「……勇人はすごいな。俺はまだまだ子どもだ」

「は? どういう意味?」

「なんか、勇人の方がよっぽど大人だよ。俺は全然」

「そうか? 俺からしたら早人も十分大人だと思うけど? 一応お兄ちゃんだし?」


 お兄ちゃんか。一応こいつには、俺がきちんと「兄」と映っているらしい。嬉しいような申し訳ないような。


「……じゃあさ、大人の線引きって何だと思う? どっからが大人で、どこまでが子どもだと思う?」


 質問内容が面倒だったのか、勇人は「はあ?」と困った顔をした。それでも暫く考え込んだ後、答えた。


「あれかな。大塚愛の『黒毛和牛上塩タン焼680円』を、ただの焼き肉の歌だと思っているうちは子どもだな」

「……それってどんな歌? 俺も知ってるやつ?」

「ブラックジャックのエンディングだよ」

「えっ? あれって焼き肉の歌じゃないの?」

「……お前、まだまだガキだな」

「え、え? どういうことだよ」

「あーそっかあ。早人にはまだ早かったかあ。悪い悪い」

「なんだよ! 説明しろって!」

「はいはい。なんでもない。おこちゃまに難しい話してごめんね」

「はあ!? 殴るぞ!」

「あら! 殴るなんて! いつからそんなこと言う子になっちゃったの! ダメでしょ!」


 わざとらしい女言葉。「やめろよ!」と強めに勇人の肩を肘で突く。勇人が俺のそんなささやかな反抗に笑う。筋肉質の腕が俺の背中を擦る。


 それは、昔俺の背中を追いかけてきた、たかがゲームで涙を流していた、あの時の少年と何かが違っていた。奥底に眠る偉大なる慈しみを残したまま、時の流れとともに変容し円熟していたのだ。


「お前でよかったよ」


 無意識に零れた本音。勇人は「どういうことだよ」と笑った。「なんでもない」と口では言いながら、いつか勇人にも、同じことを言わせてみたいと思った。

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