4・3③ 何が最適解かなんて

 買物中、母さんは「他に買わなきゃいけないものあったっけ」と必死に何かを思い出そうとしていた。そうやって調味料売り場や野菜コーナーを何度もうろついていたが、結局買ったのはルウだけだった。


 はっきり言って俺がついてきた意味はなかった。考えてみれば、家の冷蔵庫に何が入っているのか知らないどころか、野菜は何円だと高くて何円だとお買い得なのかすらも知らない俺が役に立つわけがない。


 結果、ただ母さんの後ろを背後霊のように無言でついていくだけで終わった。母さんは、特に下心もなく従者のように後を歩く俺に終始戸惑っていた。



 ルウを握り締めながら助手席で揺られる。車内は静かで、吐息の音すら許さない神聖さがあった。

 遠い間隔で配置されている街頭を何回か見送る。明かりの点いた誰かの家を通りすぎる。その明かりを視界の終わりに差し掛かるまで追う。


 子どもの頃からの癖だ。知らない家を見るたび、つい明かりの向こう側を覗こうと試みてしまう。どんな生活が送られているのかつい見てみたくなる。その人たちが今後の人生で関わることはないと分かり切っているからこそ、惹かれてしまう。


 交差点に差し掛かった。周りには一台も車が走っていないのに信号が赤に変わる。時速50キロで動き続けていた視界が停止した。母さんは真っ直ぐ前を見たまま、赤が青になるのをじっと待ち続けていた。


「あのさ、母さんってどうして看護師になったの?」


 唐突な沈黙の終了に、母さんはこちらと信号を交互に見ながら「突然どうしたの?」と言った。


「なんとなく気になっただけ。俺もいつかは進路決めなきゃならないんだから参考程度に教えてよ」

「進路ねえ……。あれ、そういえば勇人って進学する気あるの?」

「まあ一応あるよ」


 俺の頭じゃ学校なんてまともに選べないだろうけど。「行きたいとこ」ではなく「行けるとこ」に進学することになるだろうけど。


 それでも母さんは、「本当! よかった! それ聞けただけでも嬉しい!」と大袈裟に歓喜した。まさかここまで喜ばれるとは。

 動揺を隠すように、「で、どうして看護師になんだよ」と冷たく言ってしまう。母さんは笑顔のまま答えた。


「おばあちゃんに言われたから」


 「へっ」と裏返った声が喉から出る。俺の反応が予想通りだったようで、母さんは笑いながら続けた。


「小さい頃からね、おばあちゃんに『一生食いっぱぐれない職に就け』って言われてきたの。人生何があるか分からないんだから、女一人でも生きて行けるような資格を持って、どこにいってもやっていけるような職を選びなさいって。ほら、おじいちゃんは私が高校生のうちに亡くなったでしょ? だからその言葉の重みがよく分かってね」

「それで看護師を選んだわけ?」

「そう。絶対食い扶持には困らないと思って。単純でしょ? 他にももっとあったんだろうけど、高校生だったから看護師くらいしか思い浮かばなかったの」


 信号が青に変わる。車が緩やかに進んでいく。


「看護師のほかになりたかったものとかなかった?」


 尋ねると、大きな瞳の上にある眉毛に、少しの皺が寄った。


「まあ……色々あったからね。人はやっぱり安定が一番落ち着くんだよ」

「看護師になったことを後悔しなかった?」

「んー、看護学生時代はちょっと後悔したかも。実習とか試験とかがハードすぎて。でも今となっては後悔してないよ。やりがいあるし、再就職しやすかったし、そこそこお給料は貰えているし、かわいい息子たちを飢え死にさせることなく生活できてるからね」


 ふふふ、と母さんは笑った。単純に可笑しかったのか、重い話をなんとかフランクに見せようとしているのか。


 思った。

 母さんが俺と同じ年の頃は、何かしらの夢を抱いていたのかもしれない。叶うかどうかも分からない淡い願いを秘めたまま堅実な道を選び、今まで生きてきたのかもしれない。そうした現実だけが渦巻く中で、俺をここまで育ててくれたのかもしれない。


 目の前の信号が黄色から赤に変わり、停車した。対向車線から車が数台通りすぎていく。


「母さん」

「ん?」

「俺がバンドやってるの知ってるよな?」

「うん」

「文化祭に向けて練習してるんだ」

「そうみたいね」

「森崎っていうギター担当がいるんだけどさ、そいつめちゃくちゃ音楽できるんだよ。絶対音感あるし、譜面用意してくれたり編曲してくれたりするんだ」

「へーすごいね」

「でさ、てっきり音大とか行って音楽関係の仕事するのかなって思ってたら普通の文系大学行くらしいんだよ。なんでだと思う?」

「さあ」

「それがさ、音楽は趣味の範囲でやってるうちが一番楽しいから、仕事にしようとすると純粋に楽しめなくなるからだってさ。やばいだろ? もうびっくりして何も言えなくてさ。そう言う考え方もあるんだなって思った」

「へー。高校生なのにしっかりしてるねえ」

「だろ? あ、あのさ、今練習してる曲があるんだよ。何の曲だと思う?」

「なあに?」

「『15の夜』だよ。尾崎豊の。ベースの三木ってやつがさ、どうしてもやりたいって言ってきて仕方なく受け入れたんだけど、実はしょーもない理由でさあ」

「ちょ、ちょっと待って」


 母さんがハンドルを握りながら目をパチクリさせている。目にゴミでも入ったのかと思うほど素早い瞬きに、俺もつい同じように目を閉じてしまう。


「急に何?」

「え?」

「何かあったの? どうしちゃったの?」

「どうしちゃたの、とは」

「だって、勇人がこんなに色々話してくれるなんて珍しいから」


 超常現象を見たかのような母さんの驚き様に、顔が熱くなってきた。言葉にならないもどかしさが胸をくすぐる。


「別に理由なんてないよ」


 母さんの眉間はまた険しいままだ。時々信号を確認しては俺の顔を覗いている。


「だから、ただ母さんと話したかっただけ! それだけだよ……」


 母さんの顔を見たくなくて、さっと窓の外に目をやる。街灯もない電柱が寂しそうに直立していた。そこに重なるように窓に反射していた顔が徐々に微笑み、「そっか」と呟いた。


「ほら、信号青になったぞ! さっさと帰ろう。早くしないといつまで経ってもカレーできないだろ」


 心臓の動きに比例するように、分かりやすく早口になる。早く早く、と急かす俺に、母さんは「分かってるよお」と控えめに笑った。







『ヘキサゴン!』


 テレビ画面に映るお決まりのメンバー。ソファで一人、惰性のまま視聴している。別に今すぐテレビを消されても文句は言わないし、このまま寝るまで画面を見続けることもできそうだ。


 夕食は全員揃っていた。しかし空気は最悪で、喪中のような静けさだった。


 夕食を終えると、各々寝室へ行ってしまい、俺だけがリビングに取り残された。当然早人も食事を終えると部屋に直帰してしまった。それでも一緒に食事をしてくれるだけでも十分だと思っているのか、誰もそれを咎めず放置している。


 最後に早人と一緒にテレビを見たのはいつだっただろう。昔はばあちゃんに「お風呂入れ!」と怒られるまで二人でテレビの前から一切動かず、夢中になっていたのに。夜ご飯の前なんて、決まってアニメを見るために宿題を急いで終わらせていたのに。なかなか宿題が進まない時は、早人に協力してもらってたのに。


 あの時はすごく兄弟らしかった気がする。

 いつから早人とテレビを見なくなったんだろう。早人が隣にいないことに違和感を覚えなくなったのだろう。アニメへの興味の衰退とともに、兄弟としての関わりも減ったように思える。

 

「なに渋い顔してんの?」


 夏だった。俺の真後ろで、おさげ姿で赤いジャージを着ている。なぜかラーメン屋の店主のように腕を組んでいた。


「なんだその格好。ヤンクミか?」


 指摘されるまで気付かなかったようで、夏はハッとした表情になっていた。恥ずかしくなったのか、頬を赤らめている。


「そ、そんなことよりどうしたの? 深刻な顔してたけど、何かあった?」

「いや、お前こそなんだよ。何か用か?」

「あ、その、お兄ちゃんどうしてるかなって思って……」


 そういうことか。


 やはり夏も、異様なこの空気を感じ取っているらしい。解決したようで解決していないこの状況。穴が開いたまま、穴の存在を見て見ぬふりして無理やり船を運航しているような。


「まだへこんでる?」

「へこんでるってレベルじゃねえよ。ずっと部屋に引きこもってるよ。話しかけても全然ダメ。ぼーっとして、適当に返事されるだけ。心ここにあらず、って感じ?」

「やっぱり」

「参ったよ。このままじゃ俺まで干からびそうだ。一緒の部屋にいるのが気まずくて仕方ねえよ」


 夏が俺の隣に座った。狭いソファのせいで強制的に体が密着した。


「近い」


 言われてようやく気付いたのか、夏は大袈裟に「ああ」と反応した。


「別によくない? むしろ今まで散々離れてたんだからくっついた方がいいんじゃない」

「そういう問題じゃないだろ。彼女が嫌がるからやめろよ。あんまり近付くな」

「え? まだ付き合ってたの? 長いねえ」


 山口久美子が楽しそうにケタケタ笑う。それでも一応「彼女」に気を遣ったのか、ソファから降りて地べたに座った。


 凪咲に電話をしたのは、早人が見つかってからだった。といっても、事情をうまく説明できず「ごめん」としか言えなかった。それでも凪咲は「連絡くれただけでも嬉しいよ。私にできることがあったら言ってね」と柔らかい声で許してくれた。必要以上に深入りしようとせず、俺から言葉を引き出そうともしない。あまりにも優しすぎて、逆に苛立った。


 なんで連絡くれなかったの。私のことはどうでもいいの。何があったのか教えてくれてもいいじゃん。ひどい。


 そうやって罵られることをどこかで期待していた。俺を責め立てて、謝罪と反省の機会を正式に設けてくれると思っていた。安易に許されてしまう自分が酷く悪人のように見えて、膿が溜まる。


 例えば、早人や夏がクソみたいなやつだったら。凪咲がわがままで手の焼ける女だったら。みんながみんな、自分の思うままに素直に行動できるやつだったら。感情を逐一言語化できたら。誰かが人生の正解を常に導き出してくれるなら。


 どれか一つでも事実になれば、この浮遊したまま着地できない自分が、せめて地に足付けて歩くことができるようになる気がする。


「きっかけがあればいいんだけどね。お兄ちゃんが元気になるような何かが」


 簡単に答えが出るならとっくに解決している。何が正解なのか分からないから困っているというのに、そんな漠然としたことを言われたって何も浮かんで来やしない。


「お前はなんか案があるのかよ」

「ない」

「なんだよ」

「でもさ、いろいろ試してみればいいじゃん。思いつく限りのことはしてみようよ。お兄ちゃんが喜びそうな事なら何でも」


 思いつく限り、か。そもそも早人って、何が好きだったっけ。何をしているとき笑ってたっけ。……ダメだ。『フォレスト・ガンプ』くらいしか浮かばない。


『ヘキサゴン!』


 シビアな空気にビンタをするように、明るく溌溂とした声が響いた。暗い顔の俺たちとは対照的に、満面の笑みの上地雄輔がテレビいっぱいにドアップで映されている。


「……お前、ダンスは好きか?」


 突然の言葉に、夏が首を大きく動かしてこちらを向いた。


「ダンス?」

「お前暇さえあればSMAP踊ってるだろ? ってことは、完コピとか得意?」

「まあ簡単なものなら」

「よし、じゃあ今からお前の部屋行くぞ。善は急げだ」

「は、はあ?」


 勢いよく立ち上がる俺を、夏は目をクリクリとさせて見つめていた。

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