4・3② 決断とは選ぶこと

「なぁ森崎聞いてくれよおおお!」


 サイレンよりも騒がしい声。暗い水の中で息を止めていたような感覚から、一瞬で意識を引き戻された。潤っていた口元を慌てて拭う。


 周りには楽器ケースやアンプが転がっていて、部室独特の嫌な臭いが鼻を突いた。どうやら部室の地べたにあぐらをかいたま眠っていたようだ。角度が悪かったのか、寝違えたような首の痛みもある。


 肩を押さえながら首を回している間にドアが開き、頭をカチコチに固めた森崎が「聞いてるからさっさと言えよ。めんどくせぇなぁ」と言いながら入ってきた。後に続くように入ってきた三木は「お、杉山寝てたのか。起きろ!」と言い、手に持ったビニール袋を大袈裟に揺らした。


 二人の顔を見て、徐々に記憶が蘇ってきた。午前練習が終わった途端、昼飯を買うと言って森崎と三木がコンビニに行っていた。もう帰ってきたのか。

 自分はどれくらい寝ていたんだろう。いつの間に寝てしまったんだろう。こんなに綺麗に寝落ちしたのは久々だ。


 やっぱり原因は昨日の出来事だろう。あれからずっと眠れなかった。天井を仰いでは寝返りを打ち、深呼吸をしてみたり頭まで布団を被ってみたりしたが、睡魔は一向に来てくれなかった。眠った記憶が全くない。


「どうした? 午前中もずっとボーっとしてたし、徹夜でもしたのか?」


 と言いながら森崎は俺の隣に座った。


「そんなとこ」

「あっそ。そういえば杉山って充電器削ってるか? 充電ピンチなんだよ」

「……削ってない。そもそも充電器を持ってきてない」

「なんだよ使えねえなあ」


 ケータイを充電し忘れたやつが悪いだろと思うも、声を出す気力もないまま惰性であくびをする。俺の口が開いている間に、三木が「杉山も聞いてくれよ! お前も俺の元カノ分かるだろ!?」と森崎の隣に座りながら絶叫した。


 元カノという言葉で、先日三木から「アド変しました」と連絡がきたのを思い出した。送られてきた新しいメアドは、以前のようなリア充満載のものから単純で短いものに変わっていた。わざわざ彼女用のコムも買ったというのになんともあっけないものだ。


 やはり恋人にちなんだメアドを作成することや、付き合って間もないカップルがお揃いのコムを買うのは危険行為ということを全校集会で周知させたほうがいい。いっそ校則で禁止にしてしまえ。そうでないと黒歴史の連鎖は止まらないだろう。


「他に好きなやつできたってむこうから振ってきたんだけどさ、なんかmixiに足跡ついてたんだよ! お前どう思う!?」

「ど、どうって言われても……」

「まだ俺に未練あんのかなぁ!? 別れたのに何なんだろ!? あーもーこれだから女子は分かんねぇ!」


 お前の恋愛事情はどうでもいいよ、とつい言ってしまいそうになる。それは俺だけではないらしく、森崎が細い目で三木を見ていた。きっとコンビニに行っている間もこんな話を聞かされていたのだろう。疲労が目に見えて分かる。


 森崎が黙って紙パックとストローを渡してきた。パッケージをよく見ると、寝落ちする前に俺が頼んでおいたもも水だった。ストローのビニールを破ったところで、部室のドアが豪快に開いた。


「お前ら聞いてくれよおおお! リサちゃんから3日もメールが返ってこねぇんだよおおお!」


 午前練習を寝坊でサボった由利だった。「なんだよさっきから……」と森崎がボソッと呟く。奇遇にも、俺も全く同じことを思っていたところだった。

 由利が三木と俺の間に座った瞬間、やつの香水が猛威を振るった。あまりの香りの強さに酔いそうになる。こいつは寝坊したくせに香水を付ける余裕はあるのか。


 話を遮られて苛ついたのか、三木が「よかったじゃんか、告る前に振られて! 告白の手間が省けただろ」と嘲笑うように言い放った。


「なんだと!?」


 と掴みかかる勢いで睨む由利。


「こっちは元カノから足跡ついてて悩んでるんだよ!」


 と怒鳴る三木。


「はあ!? お前自慢か!? こっちは好きな子からメールは返ってこないのにmixiにはログインしてるのを知って絶望してるんだぞ!? しかも知らねぇ男の紹介文とかもあったんだよ!」


 と言い返す由利。


「なんだそれ、お前ハナから相手にされてないだけだろ! 諦めろ!」

「諦めたくねえええ! ほんとに好きだったんだぞ! めちゃくちゃ期待したのに! メールとか楽しかったのに! メアド嬉しそうに教えてくれたのに! 普通脈アリだと思うだろ!」

「諦めも立派な決断だ! 男なら潔くなれ!」


 寝不足のせいか寝起きのせいか、二人の大声がガンガン頭に響く。音の一つ一つが神経を刺激してくる。睡眠を工事現場の作業音で遮られたとき並みに不快だ。


 うるせなぁ……。


 そう思った瞬間、「は? 杉山、なんだてめえ」と由利が反応した。顔を上げると、由利と三木が眉間に何層にもなった皺を寄せ、俺を睨んでいた。


「え?」

「え、じゃねぇよ! 心の声駄々洩れなんだよ!」


 由利の唾が顔に飛んでくる。最悪だ。心の中で言葉を留めていたつもりが、眠気のせいか口から出していたのか。慌てて何かを言おうとしたが、由利がまた大声で続けた。


「お前はいいよな! かわいい彼女がいて羨ましいわ! 彼女ができない俺の苦しみなんか分かんねえだろ! 好きな女が自分を好きになってくれるなんて奇跡なんだぞ! お前は好きな子と付き合えてさぞかし毎日楽しいんだろうな! 幸せでしょうがないだろ!」


 耳障りな由利の言葉が、不快感とは違う何かをもたらした。バウンドのような重い鼓動が内臓を圧迫するように響く。殺人犯が工藤新一に話を振られた時も同じ体験をするのだろうか。もしくは、不倫を必死に隠してきた男が妻から「また出張なの?」と言われた時、このような感覚に陥るのだろうか。


 急に黙り込んだ俺が心配になったようで、「なんだ、どうしたんだよ」と由利は混乱した様子を見せた。そんな由利に反応する余裕がないくらい俺はもっと混乱していた。

 今自分は何を考えていた。頭の中で何を思い浮かべていた。どうして急に脈が速くなった。きっと疲れているからだ。寝不足だからだ。だからこんな変なことを考えているんだ……。


「ま、雑談はそれくらいにしてさ。全員揃ったことだし、曲決めようぜ」


 空気を破る森崎の声に、全員が同じ呼吸をした。

 そうだ、こんなくだらない言い合いをしている場合ではない。時間がないのだ。そんなことを全員が同時に思い出し、我に返ったのだろう。


 文化祭の演奏曲。あと1曲決めなきゃいけない。今日中に選ぼうと決めていた。というか今日中に決めないと色々とヤバいことになる。さっさと決めて、本番に向けて本格的な練習に入らなければならない。


 全員の視線が、消しカスやスナック菓子のカスとともに床に散らばった譜面に集中する。尾崎豊と何で文化祭を飾るのか、一人一人が自分なりの決断を下そうとしている。


「俺はこっちだな。リクエストしたのは俺だし」


 と、一方の譜面を指さす三木。その声に、咄嗟に「俺も!」と反応したのは由利だ。


「こっちの方が盛り上がりそうだし。バンドっぽいじゃん」


 由利が賛同したことが嬉しいのか、三木は満足げに頷いた。

 なんとなく予想通りだ。二人が好きそうな曲だなと思っていたし、練習も楽しそうにしていた。


「……俺はSMAPがいいけど」


 その声で三木と由利が一斉に首を動かした。あまりの鋭い反応に申し訳なく思ったのか、森崎の方が縮こまった。


「あ、いや……なんか、意外性があっていいだろ? どうせなら他のバンドがやらないようなタイプをやりたいってみんな言ってたし、絶対インパクトはあると思うんだよ。それに練習見た感じ、ぶっちゃけこっちのほうがみんな合わせやすいだろ? 本番に絶対間に合う方を選ぶならSMAPだと思う」


 森崎の意見に一応納得したのか、三木と由利が黙って頷いた。


「じゃ、じゃあ……杉山、お前は? どっちの方がいいと思ったんだよ?」


 三木の言葉に、全員の視線が俺に集中した。俺の意見で全てが決まるわけではないが、重要な意見であることは確かだろう。


 いつまでも残る動揺と、皆の熱い眼差しに口が動かない。俺が何も言い出せないでいると、「何黙ってるんだよ。早く言えよ」と由利が、「もしかして決めてないのか?」と三木が煽ってきた。


 文化祭。凪咲が来るんだ。凪咲に初めて披露する舞台なのだ。……それに、あいつらどうせ見に来るんだろうな。てことは、今選んだ曲をあいつらが聞くってことだよな。舞台の上で、どこにいるかも分からないあいつらに聞かせるってことだよな。


「俺は……」





 夕方、リビングでおばさんの煮物を食べていると、母さんがニンジンや玉ねぎが透けたビニール袋を提げて入ってきた。仕事帰りに買い物をしたのだろう。


「おかえり」

「あれ? 勇人だけ? みんなは?」

「それぞれ部屋にいるよ」

「そっか……。あ、今日は私がカレー作るから待っててね。急いで作るから」

「マジ?」


 休日でもないのに母さんが飯を作るなんて珍しい。仕事の日はいつもばあちゃんが作るのに。もしかして早人のためか。あいつの好物は母さんのカレーだ。母さんなりに少しでも早人を元気づけようとしているのか。


「急がなくていいよ。これ食ってるからそこまで腹減ってないし」


 母さんの視線が煮物に移る。


「そう? でも私はお腹空いてるからちゃちゃっと作っちゃうね」


 時短のためか、母さんはキッチンで手を洗った。そしてすぐに野菜を切る音がキッチンから聞こえてきた。時々その音が途切れては、母さんが鼻をすすりながら瞼を擦っていた。何事かと思ったが、ツンとした独特の匂いで納得した。玉ねぎと格闘しているようだ。


 出汁の染みた椎茸を摘まんでいる黒い箸に視線を落とす。その間にも、玉ねぎを切る音が響く。俺はそれを食べずにタッパーに戻し、蓋を閉めた。すると突然、「あ!」と母さんが声を上げた。


「どうしたの」

「カレールウ買ってくるの忘れた……」

「え!?」


 よりによって一番重要なルウかよ。カレーなんて、ジャガイモや肉が入っていなくともルウさえあればなんとかなるのに、どうしてそれを忘れるんだ。


「買ってくるね!」


 母さんは慌てた様子でエプロンを外し、財布の入った鞄を掴んだ。玄関へと向かう疲れた背中を見送る。どこか頼りなくて、細くて折れてしまいそうだ。冷えた煮物を見る。喉が震え、口が開いた。


「おっ、俺も行くよ!」


 人見知りのような口どもった声に、母さんが廊下で足を止めた。聞き間違い? と首を捻り、眉間に皺を寄せている。


「……暇だし、一緒に行く。連れてって」


 聞き間違いじゃないぞ、と念を押す。俺の言葉が意外だったのだろう。クマのできたその瞳が見開いた。

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