4・3① 見せないようにしているだけで
――2008年8月――
騒動からもう3日。早人の顔の腫れは徐々に治まり、鼻も複雑には折れていなかったらしく、治癒しつつあった。週末には鼻のギプスも取れるという。ただ、一つだけ問題が残っている。早人が抜け殻状態なのだ。
どんなに話しかけても、虚ろな目で曖昧な反応しかしてくれず、終始感情を失ったような顔をしている。布団に包まって一日中寝ている日もあれば、椅子に座ってただ外を眺めているだけの時もある。
てっきり帰ってきた時に全てが解決したかと思っていた。寝て起きてしまえば、何もかも忘れて今まで通りの早人に戻るのかと思っていた。でも人間の心理はそこまで単純にできていないらしい。
気まずさからなのか、申し訳なさからなのか、恨みからなのか、後悔からなのか。とにかく癒えていない部分があるのだろう。
早人が家出から帰ってきた日の夜に、ようやく母さんから男の話を聞いた。
男はごく普通の会社員で、休日返上で働く真面目な人間だったという。しかし俺が生まれて数年経った頃、経営不振で突然リストラされ、反動で酒に溺れるようになったらしい。再就職することもなく、母さんの給料の半分を酒とギャンブルにつぎ込むようになり、やがて手を上げるようになったという。
ここまで聞いても、『ありがちな話だなあ』という感想しか浮かばなかった。ドラマで何回も見たような展開だし、リストラって本当にあるんだなあと呑気に考えたりもした。東京にいた頃の記憶が断片的で、どうも他人事のように思えてしまったのかもしれない。
別に立派な人間であってほしかったわけでも、人から尊敬されるような人柄であってほしかったわけでもなかった。ただ、平凡で平和に過ごしている人であれば少しは情が湧いたのにな、とは思った。
「働いている頃は本当に真面目だったのよ。誠実で努力家で、思いやりがある人だった。でも真面目だったからこそ荒れてしまったんだと思う」
男を庇うような母さんの言い草に妙に腹が立った。
もっと毒を吐いて、いかに男が悪いやつだったのか語ってくれればすっきりするのに。どれだけ苦労したのか教えてくれれば俺も一緒になって怒ってやれるのに。母さんは優しさに咽せそうだった。
今まで父親のことを気にしたことは何度かあった。
どんな人なんだろう、どんな顔なんだろう、今はどこで何をしているのだろう。そんなことをよく頭の片隅で考えていた。
それでも何も知らないままでいたのは、好奇心よりも恐怖の方が勝っていたからだ。
『父親』という概念すら存在しないかのように、母さんはナチュラルにそういった話題を避けていた。早人も微塵も関心のある素振りを見せなかった。子どもなりの敏感なアンテナで、なんとなく触れてはいけないワードなのだろうと察した。そのアンテナは正しかったようだ。
「勇人は大丈夫? 辛くない?」
母さんは櫛を通していない、乱れたままの髪をかき上げた。
「俺は平気だよ。早人のことでバタバタしてたし……。母さんこそ平気なのかよ。少しくらい仕事休んだら? 夜勤もちょっとは減らしてもらえよ」
「ありがとう。でも心配しないで。私は大丈夫だから。もうなんにも思ってない。母は強し、って言うでしょ? だからあなたは早人を支えてあげて。あの子が一番傷付いてると思う」
「……分かってるよ」
あの男に関することは、俺は幼すぎたせいかほとんど覚えていない。顔すら忘れていた。
でも早人の頭には、しっかりと刻まれていたようだ。鮮明に覚えていたからこそあんな行動に出たのだ。荒れた男の姿が脳裏に焼き付いていたのだろう。俺よりも複雑な感情を抱くのは当然だ。
そう思うと、子どもの頃の2歳差は大きいと感じてしまった。
バンドの練習が早く終わり、リビングに入ろうとした時、正面から人影が飛び出した。驚きで声を上げそうになったが、すぐに誰だか分かった。相手も俺に気付いたようで、硬い表情を和らげて微笑んだ。
「勇人おかえり! これから仕事行ってくるね!」
「……今日も夜勤?」
「そうだけど?」
「少しは休めって言っただろ。夜勤ばっかで本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。何年看護師やってると思ってんの。あ、冷蔵庫に豚汁の残りあるから食べちゃってね。いってきます!」
まともに整えていない荒れた長髪。昨日と同じ服装。そんな姿のまま母さんは出て行ってしまった。
こういう時くらい休めばいいのに。母さんだって心を休める暇すらなかったくせに。早人のことが気がかりでまともにご飯も食べてないくせに。平気そうなふりをして、取り繕って、なんとか踏ん張って歩いているくせに。
「あれ? 祥子は?」
入れ替わるように、ばあちゃんがリビングにやって来た。ほんのり線香の匂いがした。また仏壇にいたのか。
「仕事行ったよ」
「もうそんな時間か……。なんだか時間が経つのが早いねえ」
年をとればとるほど、時間の経過を早く感じるようになると聞いたことがある。もしそれが正しいのなら、ばあちゃんは俺の何倍速でこの瞬間を生きているのだろう。
いつの間にかばあちゃんはキッチンへ移動していて、やかんに水を入れていた。麦茶でも作ろうとしているのだろうか。
「よく普通に仕事行けるよな。倒れないか心配になるよ」
ついつい口に出してしまう。本人がいないこの場で何を言っても意味がないのに。
それでも愚痴のように不満を吐露してしまうのは、壊れかけた状況がこれ以上崩れないか不安だからだ。
まだ調子を取り戻しきれていない早人。早人を気にしつつも俺の前では平気そうに振舞う母さん。居心地悪すぎてモヤモヤする。
「俺がどんなに心配しても『大丈夫』ばっか言うんだよ。絶対大丈夫じゃないのに。絶対無理してるのに。なんであんなに強がるんだ」
カチカチと、コンロに火を点ける音が小さな花火のように鳴る。それと合わせるように、換気扇が回る音がした。
ばあちゃんは暫く口を締めきっていたが、最中を持ってこちらへやって来た時、ようやく口を開いた。
「それはあなたが子どもだからよ」
「……え?」
俺の動揺をよそに、ばあちゃんは椅子にゆっくりと腰掛ける。つられるように、俺も正面に座った。
「親ってもんはね、子どもの前では強くあろうと頑張りすぎるものなの。いい意味でも悪い意味でもね」
皺だらけの手の平で遊ばれていた最中が、パキッと半分に割れる。拍子で小さなカスが机の上に散った。
「子どもは親に甘えて頼って生きるものでしょう? それに応えようと親は必死になるの。だから祥子があなたに『大丈夫』しか言わないのは、あなたがまだまだ子どもだからよ。でも親だって人間だし、決して完璧じゃない。子どもの前で強がっている親ほどパンクするんだろうね」
ばあちゃんの口に運ばれた最中が、ゆっくり咀嚼される。しっとりした感触が見て伝わってくる。餡の甘い匂いが、こちらまで香ってきた。
「だから少しでもいいから安心させてあげなさい。あなたのために必死にならなくてもいいくらい、強がる必要がなくなるくらい安心させるの」
「え、でも安心って……どうしたら」
いきなりそんなことを言われても困る。今まで母さんを安心させることなんて考えたことが無かったし、むしろ不安にさせることしかしてこなかった。
まともに家に帰らず会話もせずつれない態度ばかりをとっていた。ここ最近、母さんとは最低限の会話しかしていないだろう。母さんからしたら、俺は不安要素でしかない気がする。
「簡単なことでいいのよ。最近誰とどこで何をしたのか、何をしようとしているのか教えるの。くだらないことでもいい。少しでもいいからあなたのことを話すの。自分が考えていること、感じていること、悩みでも何でも。それだけでも親は嬉しくなるし、安心するんだよ」
「……え? そんなことでいいの?」
最中に注がれていたばあちゃんの視線がこちらへ向いた。俺の顔を見てか、目尻が優しく笑んだ。
「子育ては見えない不安との戦いだからね。子どものことを全て知ることなんてできないし、ずっと一緒にいることもできないでしょ? でも親は子どものことなら何でも知りたいのよ。分からないことだらけだと、どうしようもなく不安になるの。でも年頃の子どもに対する接し方が分からないし、あれこれ干渉するわけにもいかないから、余計に頑張ろうとしちゃうの」
餡の甘みを含んだ声が終わったのと同時に、やかんのピーっというけたたましい音が鳴った。ばあちゃんは席を立ち、コンロを止めた。
すぐにエアコンの風に乗って、温かい麦茶の香りが漂ってくる。苦しくて、少しだけ息を止めた。
奥に見える掛け時計。それが視界に入った時、ほんの一瞬だけ秒針が速く進んだ気がした。
♢
「なんであんな人と結婚したんだろう」
深夜、喉の渇きで目が覚めて、足音を立てないよう慎重に階段を降りていた時。和室より奥の方。ばあちゃんの寝室からだった。じめっとした空気の中、鼻をすする微かな響きが突き抜けていった。
「なんにも見えてなかった。お母さんは最後まで反対してたのにね。バカだった。……どうして別れてからもあんな人のせいでこんなに苦しまなきゃならないの。本当に許せない。二度と会いたくないし関わりたくないけど、早人があんなに傷付いてる姿を見たら……」
言葉の続きは嗚咽で消えた。
あと数段で一階の廊下に降り立つことができるのに、彷徨った足は一向に階段から進もうとしない。そんな一階でも二階でもない半端な空間で、俺は両足が崩れ落ちないよう気を張ることしかできなかった。
「でも……あの人がいなかったら早人も勇人もいないから、もし人生をやり直せたとしても私は同じことをすると思う。もう一度あの人と結婚すると思う。……あの時どうしたらよかったんだろう。何が正解だったんだろう。私が間違ってたのかな。もっとあの人を信じて、努力するべきだったのかな」
語尾が震えている。悲しみを堪えているのが分かる。気が付けば俺も自分の手を力強く握り締めていた。爪が手の平に食い込んで、尖った痛みが侵食してくる。
「何言ってるの。何も間違ってないよ。早人も勇人もあんなにいい子に育ったじゃないの。あなたはよくやってるよ。だからもうこれ以上毎晩のように泣くのはやめなさい」
柔らかい雰囲気ながらも、強い語気を感じさせるばあちゃんの声。すぐに激しい嗚咽が聞こえてきた。
普段俺たちを温かく包んでいたその人が、俺たちの前では決して弱さを見せなかったその人が、弱音を吐き子どものように泣いている。
小さい頃、親は生まれた時から「親」なんだと勘違いしていた。世の中の全てを知っていて、何にでも打ち勝つ強さを持った偉大な存在なのだと思い込んでいた。
でも実際は、母さんも俺と同じように誰かの子どもとして生まれ、成長し大人になり、ようやく「親」になった一人の人間だった。子どもだった俺にとって神様のようにも見えたその人も、一人の「娘」であり、俺と同じように傷付き苦しみ、涙を流す繊細な人だった。俺が母さんの強さばかりを感じていたのは、俺に見せないようにしてくれていただけだった。
喉の渇きをすっかり忘れた俺は、静かに寝室へ引き返した。
早人を起こさないように、そっとベッドに戻る。無理やり瞼を閉じたが、カーテンの隙間から部屋に差し込む月光が眠気を阻むばかりだ。
頭の上から聞こえる、穏やかな呼吸の音。何も知らない子どものような寝息は、純真で黒さを感じさせない。それだけで、胸を撫で下ろしてしまった。
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