4・2④ 大好き
恐る恐る、ポケットからケータイを取り出す。電源を点けると、無数の着信履歴が飛び込んできた。
母さん、勇人、夏、おじさん、おばさん、木田……。
メールも100件を超えていた。内容を確認するまでもなく、心配をかけていることは明らかだ。
それでも電話をする気にならなかった。
今更何と言えばいいのか分からない。電話したところで何を伝えればいいのか見えてこない。
帰りたいわけでも何かを解決させたいわけでもない中途半端な状況のまま電話したところで、何を話せばいいのだろう。
ケータイを握り締めたまま硬直していたその時、待ち受け画面が切り変わり、聞き慣れた着信音が流れた。よりによって一番話したくない相手からの着信。
どうしよう。
迷ったが、テツさんの鋭い眼差しが選択肢を与えてくれなかった。震える指でボタンを押した。
「……もしもし」
『え!? えええっ! もしもし!? 早人!?』
「うん」
『マジか! おい母さん! つ、つながった! 早人電話出た!』
バタバタと走る音。家にいたとばかり思っていたが、車の走る音が聞こえる。外にいたのか。こんな時間に出歩いて補導されないだろうか。
『なあお前今どこにいるんだよ!?』
息切れしていた。吐息交じりだけど、久々にまともに聞く勇人の声。ちょっとだけ声が低くなった気がする。
「海」
『海!? どこの!? なんで!?』
「分かんない」
『はぁ!? なんで分かんねえんだよ!? そもそもどうやって海まで行ったんだ!?』
「ごめん……」
テツさんは新しいタバコに火を点けていた。しかしライターの火が潮風に煽られ、うまく点かないようだった。
『とにかく今からそっち行くから。あ、母さん! 早人海にいるって!』
海!? どういうこと!?
電話の奥から、母さんの悲鳴に近い声が聞こえた。勇人は声量を保ったまま『知らないよ!』と叫んだ。
『あのさ……お前そんな遠出して大丈夫だったのか? 無事か? 怪我とか悪化してない?』
「うん……大丈夫。ごめん」
『そうか。ならよかった。迎え行くから待ってろよ! あーでも良かったマジで。何かあったのかと思った……』
「……心配かけてごめん」
『ほんとだよ! 今日だけでどんだけ走り回ったと思ってんだ! 部活の走り込みの方がまだマシだ!』
勇人の声を聞くたび、鼻がむず痒くなってくる。意識的に口呼吸をしないと死んでしまいそうだ。喉元が熱くなってくる。
「ごめん。俺は平気だから迎えに来なくていいよ」
『はぁ!? ふざけたこと言わずにさっさと場所言えよ! しばくぞ!』
口が悪いなあ。誰に似たんだろう。
電話越しの勇人を想像しただけで手が震える。ケータイを落としてしまいそうになる。
辛い。勇人の声を聞くだけで辛い。勇人が必死に声をかけてくれるたび胸が痛む。
「……ごめんな」
『さっきから何謝ってるんだよ! ごめんしか言えねえのか! もう一回「ごめん」って言ったら許さねえからな!』
なんか懐かしい。こうやって勇人に怒鳴られる感覚を鼓膜が覚えている。懐かしすぎて、嫌になってくる。
潮風で髪が
俺もあれのようにふらりとどこかへ飛んでいけないだろうか。ずっと海の底で漂いながら消えていけないだろうか。
腕の疲れから自然と耳からケータイを離していた。うまく聞き取れないけれど、まだ勇人は何かを叫んでいる。通話終了ボタンに親指を動かす。
『お兄ちゃん』
ボタンを押す直前。確かに聞こえた。俺を引き戻す声。迷わず再びケータイを耳に押し当てていた。
「……夏?」
『うん』
おい! 勝手にケータイ取るなよ! まだ喋ってる途中なのに!
そんな勇人の声がいつまでも響いている。
『お兄ちゃん』
夏は勇人を無視したまま、もう一度俺を呼んだ。
何も言葉が出てこない。何か言いたいけど、何も降ってこない。
『お兄ちゃん、お願いだから帰って来て。会いたい。今すぐ会いたい。だから早く戻って来て』
電話越しでも分かるほど声が震えていた。必死に動揺を抑えようとしているようだった。
冷静に努めている夏を思い浮かべた途端、涙が滲んできた。
『お兄ちゃん』
「……うん」
『ごめんね』
どうして夏が謝るんだ。謝らなきゃいけないのは俺の方なのに。俺が先に謝らなきゃいけないのに。
頬が冷たい。風で冷めきった涙だった。顎にまで伝っていた。
「ううん。俺こそごめん。本当にごめん。夏に悪いことした。嫌な思いさせたよな。どうかしてた。ずっと謝りたかったのに、こんなに遅くなってごめん」
ようやく言えた。ちゃんと伝えられた。こんな形だけど。
『そんなのもういいんだよ。戻って来てくれればいいから。……戻って来てくれるよね? ちゃんと帰ってくるよね?』
夏の声の震えが激しくなる。それと連動するように、俺の呼吸も荒くなっていた。鼻呼吸ができないせいか、ハアハアと激しく乱れていく。苦しい。息が詰まる。
時々こうなる。夏と話していると、呼吸の仕方を忘れてしまう瞬間がある。
「……うん」
『よかった。じゃあ待ってるから。急がなくていいからとにかく無事で帰って来て。迎えに行かなくて平気?』
「うん。大丈夫。自力で帰るから」
『ちなみにいつ戻れそう?』
「朝くらいかな……」
『そっか。よかった。そういえば海にいるんだって? どう? 綺麗?』
「いや……真っ暗で何も見えないよ」
『そっか。じゃあ今度明るい時に一緒に行こっか。久々に泳ごうよ。あ、でもお兄ちゃんカナヅチだもんね。浮き輪買わなきゃ』
夏だ。夏の声だ。
夏と話さなったのはほんの数日だけど、それでも俺にとっては長い時間だった。でも今、夏がこうして俺に話しかけてくれている。ぽっかり空いていた穴が少しずつ形を取り戻していく。
『お兄ちゃん』
「ん?」
数秒間の沈黙。海のさざ波が脳に響く。
『大好きだよ』
頬を殴られた時よりも激しい衝撃が全身を貫いた。息ができない。唇が痺れる。呂律が回らない。
「……うん」
急いで電話を切った。これ以上は無理だった。嗚咽を堪えることができなかった。
鼻に得体の知れない何かが詰められているせいで、うまく呼吸ができない。それでも俺は泣いた。我慢はしなかった。
下手くそで情けない泣き声を上げる俺に、テツさんは何も言わなかった。だからこそ気が済むまで泣いた。
涙が枯れるまで、どれぐらいの時間を要しただろう。何十分、もしくは1時間以上かかったかもしれない。
それでもテツさんは側にいてくれた。下手に慰めの言葉をかけるわけでもなく、「いい加減泣き止めよ」といった茶々を入れることもなく、横に座ってタバコをふかしているだけだった。
ただ、俺の涙が落ち着いた頃、テツさんがたった一言だけ「これも一興だよな」と呟いていた。
♢
テツさんには家から10分ほどの距離の場所で降ろしてもらった。家まで送ると言ってくれたが、テツさんに迷惑がかかるのは避けたかった。
日が昇る中、田んぼ道を歩く。昨日も歩いたはずの道なのに久々に感じた。昨日も見た景色がどこか違って見えた。
今まで自分が過ごしてきた世界とは違うところへ来てしまったような感覚。
家が見えてきた。隣の、夏の家も。
朝日に照らされて、眩しく光っている。砂利道を一歩ずつ、確実に踏みしめる。足が震えた。
背後では、もう一人の自分が俺を行かせまいと裾を引っ張っていた。「やっぱり戻ろうよ」と、ずっと耳元で囁いている。
庭が見えたところで、玄関に何かがあるのに気が付いた。玄関の前で、扉によりかかるように蹲り俯いている。
「……母さん?」
認識した瞬間、走った。まだ湿り気が残った靴で駆けた。もう俺を引っ張るものはいなくなっていた。
「母さん!」
母さんの肩を掴むと、大きな目がゆっくりと開いた。虚ろな目は、焦点を探しているように揺れた。
徐々に、その瞳が俺の形を捉え始める。途端に目が大きく見開いた。
「早人!」
飛びかかるように、強く抱きしめられた。その勢いに倒れそうになってしまったが必死に堪え、俺は母さんを抱きとめた。
「よかった……。本当に良かった……」
「な、なんで外にいるんだよ。中で待ってればいいのに」
顔が見えなくても分かった。母さんが涙を流している。肩が母さんの流す熱い涙で湿っていった。
「ごめん。ごめん母さん。本当にごめん」
「いい。無事ならいいから」
母さんの細い肩が震えている。細すぎて苦しい。
もう一度謝ろうと口を開いた瞬間、玄関が勢いよく開いた。
「早人!?」
目を向けると、ぼさぼさ髪の勇人が部屋着のまま玄関から飛び出てきていた。その顔は酷く疲れ切っていて、クマができていた。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。
勇人は俺を見て安心したのか、次第に穏やかな表情に変わっていった。母さんも勇人に気付き、ゆっくりと腕を下ろした。
立ち上がると、身体のどこかが痛んだ。歩きすぎて筋肉痛になっていたのかもしれない。呆然と立ち尽くす勇人と目が合った。
俺より、ほんの少し目線が上の勇人。また背が伸びたのか。いつの間にこんな大きくなったんだろう。
その高い背を見て、俺を真っ直ぐ見つめる瞳を見て、思い出した。
俺が中学受験に失敗した時、一ミリも涙を流していない俺をよそに、勇人は引くほど号泣していたこと。
あんなに頑張ってたのになんで。どうしてなんだ。早人は誰よりも頭がいいのにこんなのおかしいよ。
そうやって、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、俺のために泣いてくれてたっけ。自分のことのように悲しんでくれたっけ。
お前が俺のために泣いてくれたことが嬉しくて悲しくて、それで俺もようやく涙が出たんだっけ。
受からなかったことよりも、自分の情けなさに、勇人の純粋さに泣けてきたんだっけ。
だから俺は、お前が大好きになったんだっけ。
「勇人……ごめ」
「お兄ちゃん!」
勇人の背後から弾丸が飛んできた。吹っ飛ばされそうなほどの衝撃に「うっ」と呻いてしまう。
一瞬のことで、顔は見えなかった。でも分かった。俺をそう呼ぶのは一人しかいない。
逞しい腕が、俺の首に回されている。必死に俺にしがみつこうと、プルプルと震えながらつま先立ちをしている。
「バカ。本当にバカ」
「……うん」
その背中に腕を回し力を込めると、脱力したように息が零れた。
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