4・2③ 隠していたこと

 いつその言葉をかけられるだろうとずっと怯えていた。

 遂に言われてしまった。いい加減現実に戻れ、そう告げられてしまったのだ。


 今まで忘れていたはずの感覚が蘇る。ふと水面に視線を移すと、避けていた自分の顔がはっきりと映し出されていた。


 胃がひっくり返ったような気色悪さが内臓を刺激した。全身が痙攣する。散々喚いてすっきりしたはずの胸が、一気に暗くなっていく。


「とりあえず戻ろうか」

「……はい」


 テツさんに促され、濡れた足のまま砂浜を歩き、階段に戻った。


 腰を下ろしても、置いていたコーヒーを握っても、頭で渦巻くのはあの時の記憶だ。


 なんであんなことしたんだろう。もっと違うやり方があったはずなのに、理性を無くしてしまっていた。醜態を晒してしまった。夏に、あの男を見られてしまった。


 戻りたくない。誰にも会いたくない。誰にも見られたくない。

 今戻ったら、どんな言葉をかけられるだろう。正直どんな言葉も受け入れられる気がしない。


「お前の弟って、どんなやつだ?」


 横を向くと、テツさんが残り僅かとなった煙草をふかしていた。


「お前弟いただろ? どんなやつなんだ」

「……突然なんですか」

「ただの世間話だよ。気分転換。気軽に話そうぜ」


 俺を落ち着かせようとしているのかもしれない。興奮状態の俺を、何とか冷静にさせるために気が紛れるような話題を振っているのだろう。


「……弟は、俺より背が高くて、運動ができて、かっこよくて、明るくて頼りがいのあるいいやつですよ。俺より兄らしいです」


 腕を振り下ろす俺を、一瞬で押し倒すほどの腕力。あの時の勇人の目は、俺をどう映していたのだろう。


「いつも俺を助けてくれたんです。中学生の時、クラスで披露するダンスがなかなか覚えられなくて困ってたんですけど、あいつは俺のために振り付けを全部覚えて教えてくれたんです。それに持久走で1位になるために毎日グラウンド走ったりする努力家なんですよ。少年野球で4番任されたりもしてましたし。最近なんてバンドやってますからね。全てにおいて俺とは真逆のタイプです……」


 声が震えた。


 勇人のことを思い出せば思い出すたび、なぜか喉の奥が苦しくて、うまく言葉が通過してくれない。どうしてだろう。この引っ掛かりは、なんだろう。


 何度も唾液を飲み込んでも、それでも何かが上がってきた。


「気持ち悪いくらい褒めるな。弟がそんなに好きか。小さい時からずっと仲良かったのか」


 風に乗って俺の頬を撫でる白い煙。ニコチンの苦い香りがほんのり鼻の奥をくすぐる。いつも思っていたけど、どうもこの匂いが好きになれない。


「……仲は、よかったです。いつも一緒にゲームをしたりテレビを見たりしましたし、俺が宿題手伝ったり、テスト勉強付き合ったりもしてました」


 仲「は」。自然とそんな言い方をしていた。


「なんだよお前、いいお兄ちゃんやってるじゃんか。店ではあんなぼーっとしてるのに。お前もちゃんと兄貴なんだな」


 がはは。


 アニメのキャラクターのような、大袈裟な笑い声。暗い空気を明るくしようとわざと大きく笑って見せたのかもしれない。テツさんなりの気遣いだったのかもしれない。


 でもオーバーなそれが、どうも苛ついた。反射的に口を開いた瞬間、喉の奥にあった栓が外れた。


「俺はいい兄なんかじゃありませんよ」


 予想外だったのだろう、テツさんの瞳が揺れた。テツさんが何か言う前に、続けた。


「俺はあいつのこと、ずっと大嫌いだったんです。いなくなってしまえばいいのにって何度も思ったほど」


 自棄やけになっていたのかもしれない。つい口に出してしまった。それからはもう止まらなかった。


「あいつを見るたび嫌になっていたんです。あいつの綺麗な顔立ちも、高い背も、恵まれた体格も、全部嫌いでした。いつも友人に囲まれて、野球とか陸上とか、俺にはできないことを何でもやってのけているのも嫌でした。兄だから、長男だからって俺ばかり我慢するのも嫌でした。あいつは覚えていないだろうけど、母から何度も『お兄ちゃんなんだから許してあげなさい、譲ってあげなさい』って言われてきたんです。それが本当に辛かったです。好きで兄になったわけじゃないし、年だって2歳しか変わらないのにどうして俺ばっかり我慢しなきゃいけないんだってずっと思ってました」


 白い煙が視界を奪う。テツさんの顔が見えない。


「俺が受験勉強をしている間、あいつが野球やゲームを楽しんでいるのも嫌でした。俺は何もかも我慢して勉強しているのに、あいつが毎日楽しんでいるのがなんか気に入らなくて。こんなのただの嫉妬ですけどね。……俺より運動ができるのも嫌でした。あいつが持久走で学年1位になった時、最下位だった俺は周りから散々バカにされたんです。それが分かっていたから、あいつがゴールしそうな時につい『転べばいいのに』って祈ってました。……俺の弟があいつじゃなかったらよかったのに、もっと普通のやつだったら少しは救われたのにって思ったこともあります。俺ができないことをあいつが全部やってしまうから苦しかったんです」


 感情が昂る。心臓だけが正直で、言葉の数々とともに着実にその動きを速めていた。


「だから俺、全然いい兄じゃないんです。最低なんです。俺なんか兄になっちゃいけないタイプだったんですよ」


 声には形がない。目には見えないし、掴むこともできない頼りないものだ。それでも出してしまったら消すことも戻すこともできない恐ろしい一面もある。


 それが分かっていたからこそ、今まで蓋をしていた。ずっと言わないように考えないようにしていたはずなのに、漏らしてしまった。


「いっそ帰らないほうがいいと思うんです。帰る資格もないと思うんです」


 詭弁だ。帰りたくないからこそ、無理やり理由を作っているだけだ。逃避行を一秒でも先延ばしさせるための、苦しい言い訳だ。


 そうやって冷静に俺を非難する自分がいる。鬱陶しいけれど、その通りだった。


「そんなん別に普通だろ」


 場違いなくらい大きなテツさんの声。思わずすべてを飲み込みそうなほどの息を吸ってしまった。


「一人っ子に憧れたり、相手の存在が煩わしく感じるなんてどこの兄弟にもあることだろ。喧嘩も嫉妬も普通だって。だから変に考えんな。お前マジでクソ真面目すぎるんだよ。兄弟はこうあるべきだ、兄はこうするべきだって思いこんでるのか知らないけど……なんだ、兄って資格が必要なのか? 条件でもあんのか? ねえだろ? もっと気軽に考えろよ。そんなんだから苦しくなるんだよ」


 こみ上げてくるものを誤魔化したくて、コーヒーを飲んだ。なぜか、味が全くしない。


「……でもあいつは、俺のこと嫌ってるんです。長い間ずっと無視されてきて、まともに会話してなかったですし。俺なんか、いないほうがあいつも嬉しいと思います」


 咄嗟にこんなことを口にした自分に腹が立った。

 家に帰る勇気が持てない自分の情けなさを、勇人のせいにしようとしている。自己保身のために責任転嫁している。こんな自分が本当に大嫌いだ。 


 テツさんは俺の後悔を察したように、苦い笑みを見せた。


「実はな、お前が来る前に弟くんから電話があった。もしお前が店に来たらすぐ知らせてほしいって。ずいぶんと取り乱した様子だった」

「……え」


 勇人が。


 意外な知らせに握力が緩み、缶コーヒーを落としそうになってしまった。


「でもお前は来ないと思ってた。何があったのか知らないけど、お前みたいな真面目ちゃんの家出なんかかわいいもんだろうし、俺のとこに来るわけがないと思ってた。だからびっくりしたよ。傷だらけだし、死んだ顔してたし。まあとりあえずお前の様子を見てから判断しようと思ったんだ。ほら、事情も分からないのにいきなり帰すのもちょっとな……って思ってさ。それに無理やり帰らせてもまた逃げ出しそうな気がしたからな」


 勇人から知らされていたのか。その上で、俺をここまで連れてきてくれたのか。


 寒くはないのに、身体が震えた。


「弟くんは本気でお前を心配してたぞ。きっと今も必死こいて探してる。少なくとも弟くんはお前を待ってるぞ。電話中、『早人がもし来たら連絡くださいお願いします』って、叫び声で何回も言ってきたよ。『早人が、早人が』って」


 過るのは長い間俺に向けられてきた勇人の冷たい視線の数々。俺の声を無視する冷たい背中。

 確実にあいつは俺のことを邪険にしていた。それなのに、今になってなんだよ。


「心配してるだろうから、電話くらいはしてやれ。話して、それでもやっぱり帰りたくなかったらそれでいい。ずっと逃げてりゃいい。付き合ってやる。本当に逃げ続けたいなら一生そうしてればいい。でも電話くらいはしろ。ケジメつけろ。じゃないと今すぐ警察に突き出すぞ」

「……はい」


 そこまで言われてしまっては、打つ手はなかった。

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