4・2② やるなら今
ガソリンスタンドに着いた時には、空は真っ暗になっていた。スーパーもショッピングモールも閉まっていて、明かりが点いているのはコンビニやガソリンスタンドくらいしかない。
どれくらい走ったのだろう。何キロくらい町から離れたのだろう。そもそもここはどこなのだろう。
ただテツさんの背中にしがみついていただけだったから、検討がつかない。
「これでも聞いてろ」
給油中、テツさんが差し出してきたのはシルバーのMDウォークマンだった。
「まだMDなんですね」
「お前はもうiPodか」
「はい。今年の初めに変えたんです。なかなか踏み出せなかったんですけど、使ってみたらすごく便利ですよ」
「パソコン必要なのがめんどくせえ気がするけどなあ」
iPodに慣れてしまっていたせいか、久々にMDを持つと違和感があった。でもどこか安心してしまう。
再生すると、予想通り尾崎豊が流れてきたが、流れる音を俺は知らなかった。
「これ、なんて曲ですか?」
金額をじっと見つめていたテツさんが、こちらを向いた。そして給油していないほうの手を差し出してきた。俺は左耳のイヤホンをテツさんに渡した。テツさんはそれを耳に当てると、「あぁ」と呟いた。
「『OH MY LITTLE GIRL』だな」
「……初めて聞きました」
「そうか。いい曲だぞ」
テツさんが戻してきたイヤホンを耳にそっと入れると、鮮明に尾崎豊の歌声が感じられた。泣いているようにも、語りかけてくるようにも聞こえる。吐息さえも歌にしているような、そんな甘い声だ。
あれから尾崎豊について少しだけ調べてみた。
彼は勇人が生まれた1992年の春に、26歳という若さで生涯を終えていた。彼の追悼式には約4万人のファンが参列したという。
短すぎる人生の中で、多くの人々に感動と衝撃をもたらした彼は、きっと永遠に「10代のカリスマ」なのだろう。
「そういえばこれ、『15の夜』は入ってないんですか?」
俺の問いかけに、上昇していく金額をじっと睨んでいたテツさんが振り向いた。
「そのMD何色だ?」
俺はウォークマンに挿入されていたMDを取り出した。どこか懐かしい、カシュッという音とともに、白いディスクが顔を出した。
「白です」
「あー、それには入ってないな。『15の夜』が入ってるのは青なんだが、家にあるな」
「そうなんですね」
少し残念。今日みたいな日こそ『15の夜』が聞きたかったのに。
実のところ、『15の夜』をまともに聞いたことが無い。知っているのはサビくらいで、最初から最後までしっかり聞いたことは一度もない。
いつか聞こう。いつかは分からないけど、タイミングがあれば、絶対。
♢
海は想像以上に寒かった。
凍える俺にテツさんがくれたのは熱い缶コーヒー。左手で持つと、その温もりがじんわりと伝わってきた。
テツさんは、俺の気が済むまでバイクをいくらでも走らせてくれた。時々コンビニで停まっては、俺の様子を伺っていた。俺の気分が落ち着けば、いつでも引き返すつもりだったんだろう。
でも一向に晴れない俺の顔を見てか、逃避行を続行してくれていた。
そうしてテツさんの背中で過ごしていたら、いつの間にか海に着いていた。10代のテツさんが辿り着くことができなかった場所に着いてしまったのだ。
真っ暗な海を、海岸にある階段に座り眺めた。人気のない真っ暗な海は、何もかも飲んでしまえるほど深く、恐ろしく見えた。
テツさんの3本目のタバコの命が尽きようとしている。缶コーヒーの湯気とともに煙が風で揺れていて、どこか洗礼されているような空気さえ感じた。
「さっきのコンビニで買えばよかった」
めんどくさそうに、テツさんが舌打ちをした。手の平に握られている赤い箱には、タバコが数本しか残されていなかった。ニコチンを接種できないことへの苛立ちなのか、テツさんの顔は土曜のピーク時くらい渋いものになっていた。
海の音が静寂を遮る。テツさんとの間に言葉がなくとも、海だけがいつまでも語りかけてきている。言い方を変えれば、海がとりわけデカい独り言をひたすら続けている。
そんな騒音がありがたかった。海の音すらなかったとしたら、テツさんとの間に流れるあまりの静寂に耐え切れなかっただろう。海がいつまでも怒り狂ったように音を立ててくれているからこそ、黙って考え事をしていられるのだ。
これからどうしようか。今までの流れをざっとまとめるなら、こうだ。
家族の前で男を殴った。返り討ちに遭って鼻を折った。病院を飛び出した。逃げ回った挙句、テツさんのもとに押しかけた。バイクに乗せてもらった。海に着いた。海を眺めている。以上だ。
何も考えず無計画に飛び出したせいでこうなったのは分かっていたけれど、いざ逃げるところまで逃げてしまうと、逆に逃げ場を失った気分になる。このまま往生するしかないのだろうか。
いっそ海にでも潜ってしまおうか。波にうまく乗れたら、運よくどこかの島に辿り着いて、そこでひっそり暮らしていけるかもしれない。もしくはそのまま波にさらわれて海に沈むかもしれない。
この際どっちに転んでも良い。今の状況よりはマシだ。帰るくらいなら、海の底に沈んで腐敗していくほうがよっぽどすっきりする。
「ちょっと、海に入るか?」
俺の思考を停止させる言葉。心を読まれたのかと思った。
驚きのあまり今まで必死に張り巡らせていた思考回路がすべて切断されてしまった。
「ちょっと寒いけど、夏だろ。せっかくだから入ろうぜ」
「嫌ですよ! テツさん一人で行ってきてくださいよ」
「なんでだよ。中年が一人で海に入ってたら危ねえやつだと思われるだろ。だからお前もついてこい」
「こんな真夜中に男が二人で海に入ってたらもっと変じゃないですか? 通報されません?」
「大丈夫だよ。海は入るもんだろ。それにこんな夜中じゃ誰も見てねえよ。ほら、降りろ。浜辺に行くぞ」
「えええ!?」
テツさんの太い逞しい腕が俺の手首を握る。下手に抵抗なんてしたら、ポキッと折られてしまいそうだ。
決して同意はしていないのだけど、ほぼ強制という形で砂浜に引きずり降ろされてしまった。
仮にも怪我人なのに対応が荒すぎやしないかと思ったが、テツさんはそんなことは微塵も配慮してくれない。昔やんちゃしていたテツさんからしたら、俺の怪我なんてかすり傷程度に見えるのかもしれない。
砂浜に降りると、さっきの倍以上に海の音がうるさく響いた。大声で話さなければお互いの声が迷子になってしまうほど、海は大きく何もかも飲み込んでしまう威力がある。
テツさんは靴が波に濡れてしまうのではないかと心配になるほど波に近付いた。そのまま海を正面から見据え、仁王立ちした。俺も一応、その隣に立った。
白泡が波に乗ってこちらへ押し寄せる。波が海へ戻って行くと、砂浜に残された泡はパチパチと割れ、消えていった。シャボン玉のようで面白い。
「入らなくても、ここまででよくないですか? 足濡れたら面倒ですし」
「……ほんと、つまんねえやつだな」
俺がつまらないというより、テツさんが豪快すぎるだけな気がするけれど……。
そんなことを言おうとした時、テツさんが突然口に手を当て、「ばっきゃろおおお!」と絶叫した。驚きで反射的に肩がビクンと動いた。それと同時に波が勢いよく駆けてきて、靴が派手に濡れた。
「えっ!? えええ!?」
思わず大きな声を出してしまった。テツさんの突発的な絶叫のせいなのか、唐突な荒波の襲撃のせいなのか、それとも両方なのか。
俺のプチパニックをよそに、テツさんは二度目の「ばっきゃろおおお」を始めていた。テツさんの靴はガッツリ波と砂にまみれているのに、本人は全く気にしていない様子だ。
ちょっと情報過多過ぎないか。
波からちょこまかちょこまか逃げながら、誰かに通報されていないか急いで周囲を見渡す。運がいいのか、驚くほど人影はなく、建物の電気もほとんど点いていなかった。
「ほら、お前も叫べよ」
「えっ?」
「好きなだけ吐け。どうせ波の音で聞こえねえから思う存分叫んだらいい。鬱憤溜まってんだろ? ガス抜きしろよ」
波の音が鼓膜を刺激する。真っ黒な海は、確かに何もかも掻き消してくれそうな気がした。
テツさんが突然絶叫したのは、そういうことか。勝手に納得してしまった。
それにしても、海に向かって叫ぶなんてドラマかよ。
実際に海に向かって叫ぶやつがいるわけないだろって思っていたけど、まさに今そんなやつになろうとしている。
「なかなかこんなチャンスないぞ。こういうバカは若いうちにやっとけって。年取ったら恥ずかしくてやる気にもならねえから。やるなら今だぞ」
つい数十秒前まで海に向かって叫んでいた40代にそんなことを言われても説得力がない。でもそれはテツさんだからできたことであって、40代の自分にそんな勇気があるとは思えなかった。一度しかない人生、やるなら今しかないか……。
「ほら早く」
「え、あ、はい」
急かされるのは好きじゃないが、とりあえずゆっくりと息を吸い込んだ。するとつられるように昨夜の記憶が脳に侵食し始めた。
気味の悪い笑み。12年前の日々。冷静さを欠き、咄嗟に手を上げた自分。
感情に任せて暴力に走るなんて、あの男と同じではないか。
「……くそったれえええ!」
どっちに怒りをぶつけているのだろう。どこまでも貪欲で腹黒いあの男に対してだろうか。それとも、どこかあの男が濃く表れてしまう自分に対してなのか。
俺はなんであんな男に似たんだろう。俺だけがあの汚い部分を強く引いているような気がして、強烈な黒い感情が渦巻いてしまう。自分の存在をどうしようもなく否定したくなってしまう。
言葉にならない感情を、叫びともいえない鋭い音で叫んだ。
鼻に何かが詰まっているせいでうまく声が出ない。だからこそ意地でも声を張った。喉のつっかえを全て吐き出すように、吹き飛ばすように。
こんな真っ暗な海に向かって男二人で汚い言葉を叫ぶなんて、傍から見たら絶対不審者に見えるだろうな。今更だけど。
必死に叫んでいる俺を睨む、冷静な自分がいる。そいつは何もかも悟ったような態度で、バカじゃないのか、と鼻で笑っていた。
どうでもよかった。いくらでも笑えばいいと思った。喉が焼けるほど大声で叫んだ。
驚くほど快感だった。こんな大声で何かを主張したことが無いからかもしれない。今までの鬱憤を吐き出せているような感覚がしたからかもしれない。
「……なあ」
喉の痛みと渇きで叫喚を終えた頃、横で立っていたテツさんの口が開いた。波の音に消えてしまいそうだったけど、ちゃんと聞き取れる声だった。
「いい加減、家族に連絡しろ」
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