4・2① 逃避行の先は
――2008年8月――
顔が痛い。特に左頬と鼻。触らなくとも腫れているのが分かるほど、患部が熱を孕んでいる。
口を動かすだけで電流が走る。鼻に何かが詰められているせいで、口呼吸しかできないのが苦しい。命を繋ぎとめようと息するたび、それを嘆くように痛みが増す。
右手の甲を見ると、関節を中心に皮が剥けていて赤い肌が顔を出していた。周りは内出血を起こしているらしく、腐敗したように青い。神経が過敏になっているのか、右手に力を込めるだけでも叫びたくなるほどの激痛に襲われた。
人通りの少ない道を選んで歩く。何時間彷徨っているのかは分からなかった。でも意味もなく彷徨うしかなかった。
特にこれといった目的があったわけではなかった。だからこそ適当に足の向かうままに進んでいた。
目を開けたら病室で、ばあちゃんがベッドに突っ伏すように椅子に座りながら寝ていた。瞬時に何が起きたのか思い出せた。
「逃げなきゃ」。咄嗟に思った。みんなに会う前に、みんなが気が付かないうちに、みんなに見られないうちに逃げなければ。突き動かされるように飛び出した。
目を開けると、空が暗くなっていた。体を起こすと、服に付着していた砂がパラパラと落ちた。
どこにいるのか分からず慌てて周りと見渡す。真正面には何十段もある石階段、背には何が祭られているのかは分からない神社が確認できた。それでようやく思い出した。
確か神社の片隅で休憩するつもりで横になった。それがいつの間にか眠っていたらしい。意識が鮮やかになると、首筋の痒みに気が付いた。寝ている間に蚊に刺されたのだろう。蚊の襲撃から逃げようと、石階段を降りる。
蚊から逃げたところでどこへ向かうのかは決まっていなかった。なんとなく見慣れた道に沿って進み続けると、ある場所で足が止まった。
迷った。背を向けて立ち去ることもできる。意味のない放浪をこのまま続けることもできる。それでもいい加減誰かを頼りたくなったのか、足の疲れが限界だったのか、ドアノブを握っていた。
中に入ると、冷房の冷気と厨房の熱気が飽和した空気が俺を包んだ。俺を見た人は皆、二度見するか凝視するかのどちらかで、そのままポカンとしている人もいた。
香ばしい匂いの漂う奥に着くと、その人は相変わらず油まみれの厨房でカツを揚げていた。カツを油から上げたところで、俺に気付いた。
「……え!? お前、その顔どうしたんだよ!?」
頬が腫れ、鼻をガーゼやテープでガチガチに固定された俺を見て相当驚いてるようだった。
「ちょ、とりあえず奥に行け。すぐ行くから。揚げ物終わったら話聞くから待ってろ」
フライヤーから油が弾ける。小さな花火のように、パチパチと鳴る。聞き慣れた音が、どこか心地良く聞こえた。
♢
冷房が効きすぎている部屋でしばらく待機している中、テツさんが持って来たのはお粥だった。てってきり店が忙しくて来るのが遅かったのかと思っていたのに、わざわざお粥を作ってくれたのだ。俺は何も言わなかったのに。
「……あんまり腹減ってないです」
「食える範囲でいいから食え。最悪一口でもいいから」
お粥の乗ったお盆を、テツさんは強引に俺に押し付けた。その湯気を見ていると、徐々に眠っていた食欲が目を覚ました。
左手でれんげをとり、そっとお粥をすくう。ゆっくり口に運ぶ。
「いっ……た」
口に入れた途端、ピリッと口が沁みた。そうだ、口を切っていたんだった。すっかり忘れていた。
「あ、口切れてるから痛かったんだろ。ゆっくり食え」
「……はい」
「ったく、お前は一体何をやらかしたんだよ」
何も答えられなかった。事情を説明すること自体嫌だったが、説明のためにわざわざ記憶を辿らなければならないのはもっと辛かった。
都合の悪い質問には答えない俺を見て、テツさんはめんどくさそうに笑った。
「まぁ分かるよ。俺も昔はよく喧嘩してたし。お前よりよっぽど酷い顔してた。上顎にヒビが入ったり、前歯折ったこともあったし。それに比べりゃお前はまだマシな方だ」
テツさんは赤い箱に入った煙草を取り出すと、それを咥えた。ポケットの中からライターを取り出し、火を点けると、白く細いタバコの先から煙が生まれ、ゆらゆらと不安定な軌道が生まれた。
「お前みたいな真面目ちゃんでも喧嘩の一つくらいはするんだな」
ふーっと吐きだされた煙が竜のようにうねりながら換気扇へと吸い込まれていく。鼻に何かが詰められているせいで、お粥の味があまり感じられない。なのにニコチンの強い香りだけは感じ取れたようで、お粥を食らっているというより、煙を接種している感覚に陥った。
「殴ったのか?」
テツさんの視線が、机上で居心地悪く転んでいる俺の右手に向けられていた。
「まともに喧嘩したことないやつが力任せに殴るから痛い目見るんだ。殴るのにもコツがあるんだよ」
「……すみません」
「なんで謝るんだよ。いいんだよ。誰だって殴ってやりたいやつの一人や二人いるだろ。まあ次殴る時は素手はやめとけ。タオルを手に巻くとかしろ」
誰かを殴りたくなった時に、そんな都合よく手頃なタオルが手元にあるものなのだろうか。そもそも何かを手に巻こうと考える冷静さが残っているのなら、感情のままに手を上げることもしないだろう。
痛みを承知の上で、お粥をもう一度口に運ぶ。当然、同じような痛みが走った。それでもお粥の温もりが広がって、わさびを食べたようなツンとした感覚が鼻を刺激し、目頭から涙が滲んだ。
テツさんの持つタバコから灰が落ちる。テツさんはそれに一切目もくれず、泣きながら夢中でお粥を食べている俺を呆れながら見ていた。
「誰も取らねえからゆっくり食え」
言われても、手が止まらなかった。
口が痛くて仕方ない。上手く噛めないせいで、喉に詰まる。それなのに、手が止まらなかった。窒息寸前になるほど、夢中でお粥を掻き込んでいた。苦しい。頬が腫れているせいでうまく咀嚼できない。痛くて苦しくて、違う涙が滲む。
「どうしようもないやつだな、お前」
テツさんは白い息を吐いて笑った。
結局、完食するのに30分くらいかかった。でもテツさんは黙って俺が食べ終わるのを待ってくれていた。
空になった器を呆然と眺めていると、テツさんが立ち上がり、食器を厨房へ持って行ってしまった。俺が片付けるべきだったのに、申し訳ない。
これからどうしよう。
家には帰りたくない。母さんや勇人、夏に会いたくない。かといって、行く当てもない。いっそ、このままどこかへ消えてしまえたら楽なのに。
そんなことを考えていると、テツさんがまた戻ってきた。
「お前、これからどうするんだ?」
「え……」
「帰らないのか?」
「……すみません。お粥、ありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした。もう行きます」
「どこに行くんだ?」
「えっと……」
「家には帰らないつもりか?」
何も答えなくなった俺に、テツさんが溜息を吐いた。
迷惑だろうな。自分でも分かっている。仕事中にバイトが急にボコボコの状態でやってきて、号泣しながらお粥を食べて、ボーっと居座っているんだから。
これ以上迷惑をかける前に立ち去ろうと足に力を入れた瞬間、
「じゃあお前も尾崎になってみるか」
とテツさんが言った。
「……は?」
意味が分からず、ポカンとしてしまった。理解しようと必死になっている俺の心中を察したかのように、テツさんが優しく笑った。
「ほら、乗ってみるか?」
テツさんがポケットから出したのは、何かのキーだった。
♢
星が見え始めた頃。店の駐車場で俺はカタカタ震えていた。未知の恐怖が全身を震わせていて、心臓がバクバクと動いている。それに無理やりヘルメットを被ったせいか、頬の痛みが増した気がする。
「なんちゅう顔してるんだよ」
「だ、だって……怖くて」
「怖かねぇよ。一応無事故無違反だぞ。安全運転だから安心しろ」
「は、はい……」
想像以上に大きいバイクは、跨ぐことすら苦労した。テツさんの壁のように大きい背中に、俺は身を任せた。
「絶対離すなよ」
脅すような低い声に、慌ててテツさんの腰に回していた手に力を込めると、渋い瞳が笑った。
ヘルメット越しにも聞こえてくる排気音。自転車と全く違う重厚感。車とは違って、その振動が生身にダイレクトに伝わってくる。それが緊張感を増大させる。まるで一つの生き物のようだ。
「じゃあ、行くぞ」
「……はい」
獣の咆哮のようなエンジン音が鳴り響く。地上から離れていく感覚。その動きのままに身を委ねる。何も聞こえなくなるほどの轟は俺を世界から隔離した。
凄まじい突風に、景色を見る余裕なんてなかった。目を開けられないほど風が身を煽る。テツさんの背中にしがみ付いて、丸くなっていることで精一杯だった。それでも飛ばされそうになるほどの風に包まれる感覚は、驚くほど爽快だった。
何もかも突き放してしまえそうな、凄まじいスピード。言葉にはできないほどの開放感。「自由になれた気がした」、そんな感覚。テツさんが昔、理由もなく海へ走ったのが分かる気がした。
暗い夜の中を走って行く。どこまでもどこまでも、堕ちてゆくようだった。
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