4・1④ 夏の大捜査線
――2008年8月――
「ねえ、勇人」
夏の手が何も入っていないコップを意味なく掴む。何も話さないまま口を閉ざしていた俺に何か言いたいのか、奇妙な空気感への戸惑いなのか、瞳が忙しなく泳いでいた。俺の目を見ては逸らされ、再び目が合ったと思ったらすぐに窓の外や時計に移される。
「なんだよ。何かあるなら言えよ」
と俺が言った途端、夏の瞳は俺を映したまま動きを止めた。しかし意を決したのか、ふーっと息を吐いて俺を睨むように見据えた。
「……あんた、気付いてる?」
「何が?」
「私たちが会話するの、超久々だってこと」
俺は小さく「あ」と言ったまま、口が動かなくなった。言われてみれば確かにそうだ。最後にきちんと会話したのがいつだったのか記憶を辿ってみても、明確に思い出すことはできない。
「この際だから言うけど……実はすっごく寂しかったんだよ? 急に無視されて、何も話してくれなくなってさ。どうしたらいいのか分からなくてずっと悩んでた。お兄ちゃんに何回も相談したし、どうにか前みたいな関係に戻れないか毎日考えてた」
開いた口から生ぬるい息が漏れていく。言葉を探そうと唇を震わせようとしたが、戸惑いで声が出ない。そうこうしているうちに口内の渇きが喉元まで広がり始めていた。
「だからこうして勇人とちゃんと話ができて、すごく嬉しい」
垂れ下がった夏の眉を見た瞬間、弾丸で胸を打たれたような衝撃が巡った。そこから波のように熱が押し寄せる。その熱に煽られ、眩暈がしそうになった。
「……今だけじゃないよね?」
「え?」
「ちゃんと話してくれるの、今日だけじゃないよね? 寝て起きたらまた無視したりしないよね? これからもこうやって昔みたいに話してくれるよね?」
不安に染まった夏の顔に対する答えは、一択しか残されていなかった。
「……うん」
たった一言だけ。ぶっきらぼうに答えた。それでも夏は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に懐かしい熱い感情がじわりと滲み出たが、俺は気が付かないふりをした。
目が覚めたのは昼過ぎだった。
泣き疲れた夏は早人のベッドでぐっすり眠っていたようで、騒がしい寝息を立てていた。
ベッドから降り、充電していたケータイの電源を点ける。真っ暗だった画面がゆっくりと起動していく。
もしかしたら電話やメールが大量に溜まっているかもしれない。そう覚悟していると、待ち受け画面が見えた瞬間に着信を知らせるバイブレーションが俺の手の平で震えた。母さんからだった。
「……もしもし?」
『もしもし勇人? 今どこ?』
「え、家だけど」
『もしかしてそっちに早人帰って来てない? 確認してくれる?』
母さんの声色に違和感を覚えた。眠気で曇っていた頭が鮮やかになっていく。はっきりとした思考から、じんわりとその言葉の意味を悟る。暑いのに、背筋に冷たい嫌な感覚が走った。
椅子をなぎ倒す勢いで部屋を飛び出し、一段飛ばしで階段を駆け下りる。ドスンドスンと重い音が家に広がる。徐々に心拍数が上がっていくのが分かった。
リビング、和室、浴室、寝室。隅々まで確認したが、当然誰もいなかった。
「いない」
ケータイを握る手の平から汗が滲む。滑って落とさないよう、強く握る。俺の言葉に、母さんが息をのんだのが電話越しでも伝わった。
『……どうしよう』
「どうした? 何かあった?」
嫌な予感がする。
『早人がいなくなったの! いつの間にか病室から消えてて……今病院の近くを探してる。どこ行っちゃったんだろう……勇人今からこっち来れる!?』
密閉したリビングに、日の熱気が立ち込める。部屋の暑さなのか、熱い血の巡りのせいなのか、頬を一筋の汗が伝った。
「どうしたの?」
騒音で目が覚めたのだろう。髪が乱れたままの夏が、リビングの前で目を擦っている。まだ眠そうな、掠れた声だった。
♢
早人は病室に置手紙を残して消えた。
『ごめん。探さないで』
たったこれだけ。左手で書いたのか、小学生よりも汚い乱れた字だった。置手紙のお手本のような典型的な文面。それでも早人が自分からいなくなったということを理解するには十分すぎる内容だった。
母さんたちが目を覚ました時にはもうベッドからいなくなっていて、看護師さんに聞いても誰も目撃していないようだった。きっと職員の少ない早朝にいなくなったのだろう。早人のケータイに電話しても電源すら入っていない。
俺と夏はおばさんに運転してもらい、病院へ向かうことになった。俺たちが到着するまでの間に、母さんは警察に相談したそうだが、事件性がないことからとりあえず様子を見ようと言われてしまったという。何か起きてからじゃ遅いだろ、という言葉を声に出さないよう必死に飲み込む。
早人が帰ってくるのを待つか、自分たちで探し出すか。当然後者を取るわけで、母さんは病院の人に協力してもらい防犯カメラの映像を確認していた。
早人が寝ていた病室には、ばあちゃんが椅子に座って項垂れていた。俺に気付くと、皺が刻まれた目尻がこれでもかというほど下がった。
「……勇人、ごめんね」
すべてを隠すかのように、ばあちゃんは顔を手で覆った。俺は側に駆け寄った。
「なんでばあちゃんが謝るんだよ」
「だってわたしがずっと側にいたのに……。どうして気が付かなかったんだろう。本当にごめんね」
「……大丈夫だって! きっとすぐ見つかるから! ばあちゃんのせいじゃない。頼むから自分を責めるなよ……」
口ではそう言ったものの、すぐに見つかるかは分からなかった。早人が行方をくらますなんて初めてのことだし、騒ぎが起きた昨日の今日で皆戸惑っている。
どこに行ったんだ。どうして急にいなくなったりしたんだ。変な気でも起こさないだろうか。
頭を掻きむしっていると、ケータイが鳴った。急いで番号を確認すると、木田の家からだった。俺は病室を飛び出し、廊下を歩きながら電話に出た。
「もしもし! あ、あの! 木田のお兄さんですか!?」
『あ、そうです。兄の方ですどうも。留守電聞いたよ。君が勇人くん? さっきは電話出れなくて悪かったね』
「いや、いいんです。突然すみませんでした」
ケータイを強く握りしめる。
車の中で、木田の兄に電話しておいたのだ。早人の知り合いにとりあえず電話してみようという夏の提案を聞いて、一番に浮かんだのが木田の兄貴だった。
現時点では、木田の家にいる可能性が高い気がした。現在全寮制の男子校にいる木田から兄貴の番号を聞き出し、連絡を取ったのだ。
「それで……どうですか?」
『あー残念だけどこっちには来てないよ。俺もあいつに何回か電話してみたけど出ない。他当たった方がいいかも』
張り詰めた肩の力が一気に抜けていった。
「……そうですか。ありがとうございます」
『別にいいけど……何があったわけ? 兄弟喧嘩でもした? でも早人って勝手にどっか行くようなタイプだったっけ? 珍しいな』
早人と喧嘩したことなんて皆無に等しい。もしこれがただの兄弟喧嘩だったらどれだけよかったことか。
「また今度事情はお話しします。お手数おかけしてすみませんでした。もし早人がそちらに来たらすぐに連絡してください。お願いします!」
『え、ちょっ……』
強引に電話を切ると、ほぼ同時に夏がロビーから飛び出してきた。
「勇人! どうだった!?」
「……ダメだった。木田のとこにもいないって」
てっきり木田の兄貴の場所にいると思っていた。駆け込み寺という最有力候補が外れてしまったからには、手当たり次第に探すしかない。考えるだけで気が遠くなってしまった。
どこから探す? やっぱり同級生の家か? もしくは飲食店? 駅前? 意外とショッピングモールにいたりするのか? もし電車に乗って遠くに行っていたらどうしよう。それにあいつは手元に金を持っているのだろうか。
考えても考えてもきりがない。思いついたところを片っ端から探すのが最適なのだろうか……。
「じゃあこれから、おばさんと木田の家に向かって」
「……は?」
夏の意外な言葉に、声が大きくなってしまった。
「な、なんで? いないって言われたんだぞ?」
狼狽しながら言うと、夏は「バカかコイツ」と言いたげな表情で俺を睨んだ。呆れと軽蔑の中間のような眉の歪み具合に、不本意ながらも苛立った。
「なんでそんな顔するんだよ」
「本当に分からないの?」
「なにが?」
夏が小さく舌打ちした。普段なら絶対に文句を言うところだが、今はそれどころではない。
「木田って、今全寮制の学校にいるんでしょ? あ、弟の方よ?」
「ああ」
「じゃあ仮にその木田が寮から逃亡してきたとするよ」
「え?」
「そんであんたに『傍若無人な寮長が嫌になって寮から逃げてきたんだ! 一次的でいいから匿ってくれ!』と頼んできたとする。その直後に、傍若無人な寮長から『そちらに木田が来てませんか?』って電話が来たらどうする? あんたはバカ正直に『はい、いますよ』って答えるわけ? 友達を速攻売るの? 違うでしょ? 『いませんよ』ってシラ切るでしょ? 嘘つくでしょ?」
……あ。
夏が言わんとすることをようやく理解して、口をあんぐり開けてしまった。そんな俺に夏は大きな溜息を吐いた。
「あんたってほんとバカだね。お兄ちゃんと仲良いなら、うちらに嘘ついて匿ってるかもしれないでしょ? いないって嘘ついてるかもしれないでしょ? ったく……デカいのは図体だけで脳みそは空っぽなのね。首に乗っかってるのは何? お飾りなの?」
本当にムカつくけど、夏の言葉に何も言い返せなかった。冷静に判断できている夏に対する驚きの方が大きかったからかもしれない。
「今からあんたとおばさんが突撃して確かめて来な。アポなしで」
「わ、分かった」
「それと向かう途中でいいから、お兄ちゃんのバイト先にも電話しておいて。テツさんに、もしお兄ちゃんが来たらこっちに連絡するよう伝えて。私とお母さんはとりあえず駅前とか探しておくから、勇人はとにかく電話。知り合いに電話して、お兄ちゃんが来たり見かけたりしたら連絡するように言って。多分そこまで遠出はしてないと思うから近所の人だけでいい」
「あ、あぁ……」
「あともしかしたら家に帰ってくる可能性もあるから、おばあちゃんは家にいてもらって。こっちも何か分かったらメールするから、ケータイは絶対持っててよ! 分かった!?」
「お、おぉ……」
虚ろに返事をすると、夏はそのままおばさんの待つ駐車場へ走って行ってしまった。勇ましい背中がおじさんと重なる。やっぱりあの二人は、よく似ている。
夏が家出した俺を一番に見つけてくれた理由が分かった気がした。あいつ、探偵にでもなったほうがいいんじゃないか。
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