4・1③ あなたを愛したのは

――2002年――


 俺が無謀にも人生初の家出を決行したのは、少年野球の監督から4番を任された日だった。次の試合からお前が4番だ、そう言われた。

 喉から手が出るほど欲しかった言葉に、俺は空も飛べそうなほど舞い上がっていた。これで母さんも試合に来てくれると確信したからだ。


 いつも仕事や用事と重なるせいで試合を見に来られなかった母さんも、これならきっと来てくれるはず。

 母さんはなんて言ってくれるだろう。喜んでくれるだろうか。どれくらい褒めてくれるだろうか……。



「ごめんね。その日は早人の模試があるから見に行けないの」


 期待は真正面から砕かれてしまった。


 リビングで手帳を開いていた母さんは、呆然と立ち尽くす俺に向き合って淡々と理由を告げた。


「おばあちゃんが早人を送れたらよかったんだけど、その日は検診だから……私しか早人を送って行けないのよ。ごめんね」


 目に入ったのはカレンダーの文字。『早人 模試』『おばあちゃん 検診』とあり、試合のことは書かれていなかった。


「……なんで? この前も仕事で来なかったよな? その前は早人の塾の説明会で来てくれなかった。俺、4番になったのに見たくないの?」


 リビングの壁に貼られたカレンダーから目が離せなかった。じわじわと何かが迫ってくる。なるべく落ち着いて話そうと心掛けたが、声が震えた。


「もちろん見たいよ。だから次の試合は絶対見に行くね。ごめんね勇人。本当にごめんね」


 俺が欲しかったのは謝罪ではなかった。母さんが来られない理由が理解できなかったわけでもなかった。それでも受け入れられなかった。


「次っていつだよ。いつも『次は見に行く』って言うけど、早人を優先して一度も来てくれなかっただろ。俺のことはどうでもいいのかよ」


 血流が、鼓動が疾走していく。感情が昂っていく。必死に抑えながら話していたからか、異様に早口になっていた。母さんは焦ったように俺の手を握った。


「本当にごめんね。次こそ絶対、絶対に見に行くから。お母さんが悪いね。これが最後だから。今回だけ我慢してくれる?」


 俺の頭を撫でようと伸びた母さんの手。反射的に払ってしまった。母さんの疲れた顔が困ったように歪んだ。


 どんな言葉を並べられても無理だった。試合に来てほしくて、試合に来てもらう理由が欲しくて必死に努力したのだ。


 裏切られたことから、長い時間をかけて少しずつ蓄積されていった些細な不満が、封を切ったように爆発した。


「どうして俺ばっかり我慢しなきゃならないんだ! 母さんはいつも早人を優先するよな!? 俺がバカで、早人が頭がいいからか!? 早人の方が大事なのか! 俺のことはどうでもいいのかよ!」


 兄弟をすべてにおいて等しく扱うのは不可能だ。愛情は平等だとしても、ただでさえ自分の時間を作れないほど多忙なのに、残された僅かな時間を兄弟半分ずつきっかり割くことなどできるはずもない。


 ただ、子どもがそんなこと理解できるわけもなかった。幼い人間にとって、きょうだいと平等に扱われていないと感じることは自分の存在意義を見失うほどの深刻な問題なのだ。


 「自分の方が大切にされていない」「自分が蔑ろにされている」と察知した瞬間、居場所がなくなったかのような壮絶な疎外感に襲われる。やがてそれは嫉妬や怒りへと変わり、感情のままに暴れることしかできなくなる。


「今まで我慢してたけどさ……自転車も服も体操着も全部早人のお下がりで嫌だったんだよ! なんで早人は新品を使えるのに俺はお下がりばっかなんだ! 俺だって新品の服を着たいのに……。早人の名前が書いてあるのを使うのはもう嫌だ! 早人ばっかりずるいよ! なんでも新品を使えて、塾に行かせてもらえて、みんなから褒められて! 俺だって頑張ってるのに!」


 自分がいかに親を困らせないよう子どもながらに必死に本音を押し殺してきたのか。どれだけ兄との不平等を感じていても文句を言わずに受け入れてきたのか。どれだけ自分の感情と折り合いをつけてきたのか。どれだけ寂しさと悔しさを抱えてきたのか。

 母さんには分かっていてほしかった。


「俺はいっつもみんなから早人と比べられて、バカにされてきたのに……どうして母さんまで早人なんだよ」


『兄ちゃんは頭いいのに、お前はバカだな』『兄弟なのに頭の良さは似なかったんだな』


 クラスメイトから投げられた残酷な言葉。早人が何かで表彰されるたび、テストで100点を連発するたび、俺は周りから比較され続けた。歳の近い同性の兄弟。何においても常に比べられ、劣っている方は常にバカにされる。


 せめて早人が普通のやつだったらよかったのに。俺ほどバカじゃなくても、平均的で全国どこにでもいる平凡なやつだったらこんな思いをしなくて済んだのに。何度も思った。


 だからこそ早人に勝てる何かが欲しくて、野球だけでなく、持久走に備えたランニングも始めた。俺にとってスポーツは、早人に一矢報いる唯一の手段だったのだ。


 そのスポーツで結果を残したのに、それでも早人を優先された。母さんを信じていたからこそどうしても許せなかった。


「母さんも早人も大嫌いだ!」


 感情に任せて吐き出してしまった言葉。一瞬の後悔の後、見えたのは酷く傷付いた母さんの顔。

 早人を優先された時とは違う胸の苦しさに襲われた。耐えられず家を飛び出していた。






 小学生の行動範囲なんてたかが知れている。家出をしようにも大した距離は行けない。それは俺も同じで、家から少し離れた公園で一人、ブランコで揺れていた。


 ずっとこうしているわけにもいかない。かといって家に帰る気にもなれない。行き場を無くし、意味もなくその場に留まっていた。


 目に見えない不安から涙がぼろぼろと流れた。母さんを傷付けてしまった。このまま家に帰らなかったら俺はどうなるんだろう。漠然とした絶望が涙となって溢れ出る。


「勇人? 泣いてるの?」


 空から知っている声が降ってきた。見上げると夏が目の前に立っていた。ミニモニを彷彿とさせる、ツインテール姿で。


「……なんでもない」


 泣き顔を見られたのが恥ずかしくて、そう答えた。慌てて頬を拭った。手の平が涙で濡れる。


「なんでもないわけないでしょ。だったらどうしてこんなとこで泣いてるの」


 言いたくなかった。 


 母さんと喧嘩して家出しました、だから公園で泣いてます。そんなことをバカ正直に言ってしまったら、自分が弱い人間だと告白しているもんだ。そんなのできなかった。


「……なんで俺がここにいるって分かったの?」


 涙の理由を尋ねられないよう、わざと話題を逸らした。夏は察したように意地悪に笑った。


「私には何でも分かるんだよ」


 夏が隣のブランコに座った。ピクリとも動かない俺とは反対に、夏はゆりかごのようにふらふらと揺れた。暫くの沈黙の後、夏が呟いた。


「お兄ちゃんのせい?」


 ドキリとしたが、何も答えなかった。でもどこかで肯定してしまいたい気持ちも生まれていた。

 すべて愚痴ってしまって、いかに自分が可哀相な人間なのか、不遇を強いられてきたのか知ってほしくもなったのだ。


 ずっと、母さんは俺の気持ちに気付いてくれていると思っていた。


 来ないとは分かってはいるのに、クラスメイトにつられてつい母さんを探してしまった授業参観の虚しさとか、俺だけ観客席に親がいない試合の言葉にならない寂しさとか、早人と母さんが塾へ行っている間ばあちゃんと二人で夕食を食べている時の静けさとか。


 自分はいらない子だったのかもしれない。母さんは、早人だけが可愛いのかもしれない。


 そんな子ども染みた極端な思考が渦巻く。罪悪感と後悔と悔しさと悲しさで、また涙が零れた。


「おばさんは、勇人のこと大好きなんだよ」


 思いがけない言葉に、鼻を必死にすすっていた荒い呼吸が止まった。夏は身を乗り出すようにこちらを見ていた。


「今はお兄ちゃんにばっかり構ってるけど、でもおばさんはお兄ちゃんと同じくらい勇人のことも大好きなんだよ。お兄ちゃんだけが大事なんじゃないよ。お兄ちゃんにとって今が一番大切な時だから一生懸命になってるだけ。勇人が同じことをしたら、おばさんは同じくらい勇人のために頑張ってくれるよ」

「……なんで」


 なんでそんなこというんだ。


 そう言いたかったのに、溢れる大粒の涙としゃっくりで言葉が出てこなかった。


「勇人はお兄ちゃんのことを嫌いになっちゃダメだよ。お兄ちゃんは勇人のこと大好きなんだから」


 夏の言葉で、思い出した。


 お菓子もデザートもおかずも、一つ余った時は必ず早人が「勇人食べな」と言ってくれたこと。

 俺がプラレールやミニ四駆を壊しても、早人は悲しい顔をしながらも決まって優しく許してくれたこと。

 早人の持っているバトルえんぴつがどうしても欲しいとせがんだ時、お気に入りだったくせに迷わず譲ってくれたこと。


 一番衝撃的だったのは、俺が小学校の持久走大会で学年1位になった日だ。俺とは反対に、早人は最下位だった。


『女子よりも体力ないのかよ』『弟は1位なのにお前は最下位かよ』


 そうやって早人はクラスメイトからバカにされていた。小学生らしい残酷でストレートな言葉の数々。


 俺はそれを遠目で見ていたが、きっと早人は悔しがるだろうと思っていた。涙を流したり、悔しさのあまりにどこかへ走り去ったり、嘲笑する同級生に殴りかかったりするだろうと。兄弟と比較される俺の気持ちが少しは分かるんじゃないかとも思った。それなのに。


『そうだよな、すごいよな。俺とは大違いだ』


 早人は笑顔でそう言っていた。

 俺が浴びせられてきた言葉を同じように早人も受けたはずなのに、俺とまるで違う反応に混乱した。


 俺は何を張り合っていたんだろう。


 早人は純粋に俺を弟として大切にしてくれただけなのに、俺はなぜかあいつに勝とうとしていた。早人は土俵にすら立っていなかったのに、俺が勝手に勝負をしていた。


 早人は何も悪くないのだ。自分が勝手に早人に嫉妬して、母さんを取られたように感じて、勝手に僻んでいただけだ。


 むしろ早人は、誰よりも優しい兄だったのに。俺だって家族として、弟として、早人の受験を応援しなきゃいけなかったのに。


 早人が模試で毎回A判定なのを見ていると、割り算の宿題に必死になっている自分が情けなくなったし、辞書のように分厚いテキストを抱えながら母さんとともに塾に行く早人の背中を眺めるたび、何とも言えない虚しさがあった。


 でもそれは、俺自身の問題であって、早人の問題ではない。早人は実直に努力しているだけだ。


 思い出せば思い出すほど自分の行動が許せなくなり、嗚咽が止まらなくなった。鼻水が垂れようと、服が涙で濡れようと構わず泣いた。


「おばさんが忙しい分、私が勇人のことちゃんと見るよ。勇人の試合、私が絶対全部見に行くし、勇人のやりたいこととか、行きたいとこ一緒に行く。私がいるよ。だからもうおばさんとお兄ちゃんに怒っちゃダメだよ」

「……うん」


 夏の優しさが胸を抉る。夏はいつの間にかブランコから降り、俺を抱きしめてくれた。俺は夏の胸の中で気が済むまで泣いた。




 こうやって夏は俺を真っ直ぐに見てくれていた。だから俺は、そんな夏がずっと好きだったのだ。

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