4・1② 二人きりで
早人は個室のベッドで寝かされていた。鼻が折れていたそうで、鼻にガーゼのようなものを巻かれていた。
遠くからでも分かるくらい早人の頬は青黒く腫れていて、とても直視できそうになかった。母さんは早人の手を握りながら泣き続け、その隣でばあちゃんが母さんの肩を擦っていた。
二人の姿を見て、どうしても病室に入る気になれなかった。そもそも俺が傍にいたところで、何もできやしない。入り口で引き返し、廊下を必要以上にゆっくりと歩いた。
廊下の真ん中で、思い出したようにケータイを開く。凪咲からの大量の電話とメールが届いていた。心配させているのは分かっていたが、メールを読む気力がない。『後で連絡する』とだけメールをして、電源を切った。
ロビーへと進むと、列のように並んでいたベンチの中、夏が一番奥の端っこで座っているのが見えた。魂が抜けたように、呆然とどこかを見つめている。黙って隣に座ると、夏はビクッと肩を震わせた。すぐに俺だと分かると、気まずそうに呟いた。
「……お兄ちゃん、大丈夫だった?」
何を基準に「大丈夫」と判断すればいいのだろう。死んでいなければいいのか、無傷ならいいのか。正解が分からず、「多分」とだけ答えた。夏は「そう」と言って黙り込んでしまった。
「夏は入らないの?」
「え?」
「早人に会わないのか? まあ寝てるから話せないけど」
「……いい」
「なんで?」
「今お兄ちゃんの顔見たら、また泣いちゃいそうだから」
語尾が震えている。夏の目が再び潤み始めた。
思い出す。おじさんの車に乗せられ、病院に向かう途中。車内という密閉空間の中、後部座席で隣に座る夏がずっと涙を流していた。俺は夏の冷たい手を握り締めることしかできなかった。
「もう泣くな」
「……うん」
両目が充血している。瞼から雫が零れる前に、夏は目を擦った。
「夏は……大丈夫?」
「……何が?」
涙は流れていない。それでもその青い唇から漏れる鼻声が、涙を必死に堪えているのを物語っていた。
「怖かっただろ。ごめんな。こんな思いさせて」
「なんで勇人が謝るの。勇人のせいじゃないじゃん」
「……だってほら、一応俺の……父親が騒ぎ起こして、迷惑かけて、夏にも怖い思いさせて申し訳なくて……」
俺を見上げて薄汚い笑みを浮かべた男の顔が、瞼にしつこく残っている。脳内でその記憶を映像化させようとするたび、長距離バスでの車酔いのような吐き気が襲ってくる。あんな人間の血が自分に流れていると思うと気持ち悪くて仕方ない。
全身に毛虫が纏わりついているような嫌悪感。体の中から、あの男の部分だけを毟ってしまえるならそうしたい。関係を否定しようとするたび、よりはっきりと顔が頭に浮かぶ。何かを殴り殺したい衝動に駆られる。
「違うよ」
夏の瞳が俺を直視していた。飾っているわけではなく、繕っているわけでもなく、ただ純粋に俺を柔らかい空気で包もうとしているようだった。
「お兄ちゃんも勇人も、私たちの家族でしょ。お父さんの息子だよ。あんたたちの父親は、お父さんだけだよ」
気恥ずかしそうに顔をほころんでみせる夏。その表情だけで、感情が弾けた。視界が一気に歪み、何も見えなくなる。溢れた熱いものはもう戻せなかった。
今になってやっと涙が出た。一度溢れてしまったものは止めることができず、嗚咽が俺の意思を無視するように不規則なリズムで漏れていく。
夏の腕が、俺を包んだ。抵抗はしなかった。自然とその優しさに身を任せた。背中に回された両腕。力が強すぎて、余計に涙が出た。
♢
母さんとばあちゃんを病院に残し、俺はおじさんたちと帰宅した。家に着くまで、誰も何も言わなかった。沈黙こそ正しいようにすら思えた。夏は窓の外を見るばかりで、俺の方を一度も向かなかった。
誰もいないリビングの電気を点けると、床に広がった焼きそばがまず目に入った。すっかり冷え切り、散らばった状態で固まっている。
冷たくなった焼きそばをパックに無理やり詰めると、髪の毛や埃が絡まって付着してしまっていた。
それを無理やりゴミ箱に突っ込む。一連を、真っ暗な和室が見ていた。引き寄せられるように和室に入ると、灰に汚れた畳、床に散乱しているじいちゃんの写真や和菓子、鈴などがあった。ばあちゃんが発狂してしまいそうなほど荒れている。とりあえず、灰をどうにかしなければ。
納戸から掃除機を取り出した時、玄関が開いた。驚きのあまり、ヘッドを落としてしまった。その衝撃音で、誰かが「きゃっ」と声を上げた。
掃除機を持ったまま廊下へ出ると、すぐに声の主が誰なのか分かった。
「……眠れなくて」
部屋着姿の夏が、ほうきを持って恥ずかしそうに立っていた。
冷蔵庫で眠っていたコーラをコップに注ぎ、夏に差し出す。夏はコーラを飲むと、「炭酸抜けてる」と小さく笑った。
俺は中途半端にペットボトルに残ったコーラをそのまま飲み干した。分かってはいたが、あまり美味しくなかった。
炭酸が抜けたコーラは、どうしてこんなにも退屈な味になるんだろう。どうして炭酸があるだけで、コーラはあそこまで美味しくなるんだろう。不思議だ。
掃除が終わった安心感からか、そんなことを考える余裕が生まれていた。夏も同じで、椅子にぐったりと座っている。向かい合うように座ったおかげで、夏の表情すべてがしっかりと認識できた。
「ありがとな、掃除手伝ってくれて」
「いいよ全然。お父さんたちはお風呂入ってから寝ちゃったけど、私は寝られそうになかったから。ちょうどよかったよ」
時計を確認すると、4時になっていた。もう少しで朝陽が顔を出すだろう。
こんな時間まで起きたのはいつぶりか分からない。そのせいか、激しい倦怠感に襲われている。脳がうまく働いていないが、意識だけははっきりとしている。でもトン、と背中を押されてしまえば、いつでも夢の中に入り込むこともできそうな気がした。
酷い雨はとうに止んでいる。異様なほどの静けさのせいで言葉を紡いでいないと落ち着かない。
「夏はもう平気?」
尋ねると、夏は「何が?」と反応した。
「いや……ほら、いろいろとショックだったろ」
いろいろ。なんて便利な言葉なんだろう。はっきりと言いたくないことも、こうやってぼやかすことができる。相手に「察してくれ」と委ねることができる。
俺はショックだった。当然あの男が突然現れたことも、早人が鼻や口から血を流していたのもそうだし、夏が泣いていたことも衝撃的だっだ。
でも何よりも、早人が血眼になって男を殴っていたことが俺を混乱させていた。病院へ向かう揺れる車内で、脳内から離れなかったのは早人の姿だった。早人を心配する一方で、早人に会いたくないような気がしていた。
俺が一番早人を知っていると思っていた。家族で、兄弟で、同じ部屋で過ごして、毎日顔を合わせていた俺が一番早人を理解していると思っていた。
もしかしたら俺の知っている早人は、実は1パーセントにも満たないのかもしれない。少なくとも、あれは俺の知らない早人だった。
どんな顔でどんな言葉をかけて早人と会えばいいのか、今の俺には正直分からない。
「私ね、安心したの」
意外な言葉に、「へ?」とマヌケな声が出た。俺の動揺とは裏腹に、夏の表情は一切変わっていなかった。
「お兄ちゃんがああやって感情を爆発させているところを見て、もちろんびっくりしたしショックだったけど……でも、心のどこかで安心してた」
申し訳程度に残っていた炭酸が、舌を刺激する。消し去ろうと唾を飲み込む。
「お兄ちゃんっていつも笑って許してくれていたでしょ? 私がいくらわがまま言っても付き合ってくれたし、私が叩いたり髪を引っ張ったりしても、お兄ちゃんは抵抗はしても絶対やり返してこなかった。私と勇人は散々喧嘩したけど、お兄ちゃんが誰かと喧嘩してるとこなんて見たことなかった。お兄ちゃんはいつも受け入れてくれてたんだよね。それに感情をあまり表に出さないし、時々何考えてるのか分からないとこもあったじゃん? いい意味で人間っぽくない、って言うのかな?」
控えめに夏が笑ったが、どこか苦しそうだった。申し訳なさそうにも見えた。
「だからちょっと安心した。お兄ちゃんもちゃんと人間なんだな、私たちみたいに何かに対して、誰かに対してちゃんと怒るんだなって思えて。いつも自分の気持ちを隠している感じがしたから、お兄ちゃんの本当の感情を見た気がして、ある意味嬉しかったかも」
そうだった。夏は昔からこういう子だった。バカだし横暴だし単純だけど、でも誰よりも俺たちと真っ直ぐ向き合おうとしてくれていた。分からないことは理解しようとしてくれたし、見えない部分も見ようとしてくれた。
必要以上に干渉してくるのも、俺たちを自分の事のように考えてくれていたからだ。俺たちが抱えるものを、自分も一緒に背負おうとしていたから。
昔、俺が家出をした時もそうだった。家を飛び出して公園のブランコで一人泣いていた俺を、夏が一番に見つけてくれたのだ。
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