第4章 泣かないで

4・1① ごめん

 ――2008年8月――


「さっむ……」


 今日だけで何回この言葉を呟いただろう。8月なのにゾクッとするほど肌寒い。きっと雨のせいだ。


 夕方には小雨になっているだろうと思っていたのに、こうして歩いているだけで靴下まで濡れるほどガンガン降っている。歩くたびに湿った靴下の感覚が足の裏を撫でて気持ち悪い。


 凪咲の家へと続く道を淡々と歩く。雨の水を含んだ土が、ねっとりと足を捕える。


「来年は花火見られるといいね」


 黒いブラウスを着た凪咲がそっと俺を見上げた。睫毛が綺麗に伸び、目元は鮮やかに彩られている。


「そうだな。雨はもううんざりだ」


 傘のせいでうまく凪咲と近付けない。雨音に消されないために、いつもより声を張ってしまう。

 周囲の全ての音を覆い隠してしまうほどの雨。俺の進行を妨げるような泥のぬかるみ。全部大嫌いだ。


 もうすぐで凪咲の家に着きそうだという時、マッサージマシンのような奇怪なリズムが尻を刺激した。ズボンの中からだ。ポケットに手を入れると、ケータイが震えあがるように小刻みに揺れていた。


「勇人? どうしたの?」

「なんでもない」


 震えを無視し、俺は凪咲の家の方へ歩き続けた。凪咲といる時はなるべく電話に出たくない。特に早人のは。


 それなのに、俺の意志に反して二つ折りのそれは一定のリズムを刻み続けている。一度止まったかと思うと、再び同じ振動を繰り返す。幾度も尻を刺激し、俺が動きを止めることを期待している。


 何度も繰り返されるバイブレーションにしびれを切らし、俺はケータイを取り出した。しつこいぞ、と怒鳴ってやろうか。いっそ電源を切ってしまえばいいか。

 勢いで画面を開くと、意外な名前が表示されていた。


『夏』


 目を疑った。もう何か月も連絡なんかなかったのに、どうしていきなり。こんな前触れもなく。


 動揺で足が止まった。その一瞬の躊躇ためらいのうちにケータイの震えは終わり、画面が暗闇に包まれてしまった。着信履歴は3件あり、全て夏からだった。


「電話?」

「あ、あぁ……」


 力ない返事。上の空で、凪咲の声が耳から抜けていた。聞こえてはいるけれど、それは鼓膜で終わり、脳まで届くことはなく記憶にも留まらない。


 ケータイの画面が雨で濡れていく。

 どうしたらいい。折り返したほうがいいのだろうか。こんなに連続でかけてくるなんて絶対に何かあったはずだ。でも……。


 迷いのうちに、ケータイが再び痙攣を始めた。指先に振動が強く伝わる。


 それはもう着信ではなかった。


 背中をじっとりと這う悪寒。胸に暗い雲がかかったような違和感。得体の知れない何かが押し寄せているという直観。それが警告となって、俺の手の平で声を上げていた。


 揺れた手でボタンを押す。耳に当てると、画面の冷たさが肌を突いた。


「もしもし?」

『勇人!?』


 想像以上に取り乱している夏の声。


「ど、どうしたんだよ急に」

『あんた今どこ!?』

「どこって……彼女の家に向かってるとこだけど。なに?」

『早く来て! とにかく帰って来て!』


 大声のせいで耳に鈍痛が走る。鼓膜から直通で胸を刺激するような、全身を巡る血管を一気に締め上げるような悲痛な叫び。


「え、え? どうした? 何があった?」

『わかんない! わかんないけど大変なの!』

「え?」

『なんか騒がしいから家に来てみたら、知らない男の人がお兄ちゃんを襲ってるの! お願いだから早く来て! 助けて……助けて勇人!』


 血の気が引いて、さーっと熱が抜ける。


 状況が全く飲み込めない。何が起きているのかさっぱり分からない。でも異常事態ということは確か。


「ま、待ってろ。すぐ行くから」


 迷いはなかった。俺の足はもうすでに動き出していた。


「勇人!?」


 進行方向に背を向け走り出す。俺の唐突な行動に、凪咲は叫んでいた。


「どうしたの!?」

「ごめん凪咲、俺行かなきゃ」


 傘が手から滑り落ちる。泥に汚れ、すぐに突風に飛ばされてしまった。

 俺は追わなかった。この際傘などどうでもよかった。わざと力強く足を踏みしめ、駆ける。泥が跳ね返り、ジーンズの裾を汚す。雨が体を濡らし、肌着まで湿っていく。


「わ、私も行く!」


 凪咲が俺を追いかけていた。傘が風に煽られよろめきながらも、必死に俺の後ろを走っていた。凪咲の白い靴が、白い靴紐が、泥を吸い込み土色に染まる。


「来るな!」


 俺の怒号に、凪咲の足が止まる。


 情報量が少なすぎて何が起きたのかは分からない。でもあの夏の取り乱し様から何か恐ろしい事態が起きているのは確かだろう。もしかしたら不審者や強盗かもしれない。凪咲を連れて行くわけにはいかない。


 凪咲の瞳が震えたように見えたが、震えていたのは俺自身だったのかもしれない。

 もう振り返らなかった。俺は来た道を全力で走っていた。






 ♢


 玄関を開けた瞬間に聞こえてきたのは、女の悲鳴。胸が張り裂けそうなほどの甲高い声。


 廊下には床に倒れ込むようにへたり込む母さんと、それを支えるばあちゃん、隣で涙を流しながら座り込む夏がいた。


 全員の視線は和室に向けられていた。和室は真っ暗だったが、それでも人影が動いたのは分かった。

 そこに、早人がいるのか。靴を脱ぐことも忘れ、俺は和室に飛び込んだ。

 

 目の前に広がる予想外の光景に、足がすくんだ。


 一度も人に手を上げたことのなかった早人が、俺と夏に散々叩かれてもたったの一度も人に暴力を働いたことのなかった早人が、馬乗りになって誰かを殴っている。掌を赤く染めながら、何度も何度も。


 その目は見たことのない怒りに満ちたものだった。本当に早人なのか疑うほど殺意を帯びた目。

 恐怖で背筋が凍った。


「はっ、早人! やめろ!」


 震える足を奮い立たせ、なんとか早人の肩を掴み引っ張ると、その細い体は倒れるように畳へ沈んだ。顔は赤く腫れ、口からも鼻からも血を流している。


 どういうことだ。早人が襲われていたんじゃなかったのか。どうして早人が男を殴っているんだ。そもそも、この男は誰だ……。


「早人!」


 母さんが早人を抱き起こす。早人は焦点が定まらないのか、目がゆらゆらと揺れ、母さんをぼんやりと眺めていた。


 男が口から血を吐き出しながら体を起こし、こちらを見上げた。目が合った。


 中年くらい。乱れた髪は雑草のようで、無精髭のせいかホームレスにも見えるほど汚い風貌。口を赤くしたその男はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。


「お前、勇人か?」


 声帯を握り締めたような、干からびた濁声。


「残念だな。お前も俺に似ると思ってたのに。祥子に似たんだな」

「……誰だお前」


 男の顔が固まった。それでもすぐに口角を上げて見せた。


「まぁ覚えてなくても仕方ないな。お前は小さかったもんな」

「誰だって聞いてんだろ!?」


 胸倉を掴むと、男の口から垂れた血が俺の拳を汚した。プルプルと、男を掴む手が震える。男にはそれが分かったようで、にんまりと気味の悪い笑みを浮かべた。


「見りゃ分かんだろ」

「は?」

「親父だよ。分かる? 父親。お父様って呼んでくれたっていいんだぜ?」


 声が出なかった。むしろ言葉が引っ込んでしまった。きつく掴んでいたはずの手の力が、すっと抜けた。


「父親……?」


 そうだ。誰だって父親がいる。この体は、母親と父親の両方が複雑に組み込まれてできているのだ。


 脳裏に映し出される微かな映像。


 顔が見えない男と、それと口論する母さん。泣き出す俺。そんな俺を、部屋の隅でぎゅっと抱きしめてくれていた早人……。


 なんでこいつが来たんだ。今更何の用だ。混乱で眩暈がする。倒れてしまいそうなほど視界がぐらつく。


「ほら、早人なんか俺にそっくりだろ?」


 その一言で、抑えていた何かが溢れた。


「ふざけんな」


 ……ふざけんな。


「早人は、お前なんかにちっとも似てねえよ」


 一瞬だった。

 

 男を押し倒し、拳を振り上げる。当然のように、それが正解のように動いていた。

 どうして早人がこの男を狂ったように殴ったのか理解できる。


 力任せに拳を振り下ろそうとした時、突風ようなものに力強く引っ張られた。抵抗の隙すらなく、呆気なく俺は尻もちをつくように倒れた。


 立っていたのは、クマのようにガタイの良い男。黒いスーツを着たその人は、真顔で男を見下ろしていた。


「お、おじさ……」

「あんたねぇ。悪いけど、こいつらは俺の息子なんだわ」


 おじさんは男を見下ろしたまま言い放った。


「こいつらを旅行に連れてったのも、祥子さんが仕事で家にいない時に預かって飯食わせたのも、こいつらがバカやった時叱ったのも、こいつらに髭の剃り方を教えたのも、全部俺だ。こいつらは俺の息子だ」


 祥子さん! 早くこっちに!


 おばさんの声。外からだった。母さんが早人を抱いて立ち上がる。簡単に抱き上げられるほど細い早人の腕が、だらんと垂れた。

 やがて車のエンジン音が雨音とともに聞こえてきた。早人が倒れていた畳には、僅かながらも血が染みていた。


「だから何だよ。こいつらの父親は俺なんだよ! 部外者は黙ってろよ!」


 赤い唾を吐き散らしながら、男が喚く。虚勢を張る小動物のようだった。

 おじさんは銅像のように微動だにせず続けた。


「お前、養育費払ってないんだって?」


 その言葉に、分かりやすく男の顔色が変わった。


「……だったらなんだよ」

「お前知らないのか? 養育費が未払いの場合、強制執行で財産を差し押さえることができるんだよ」

「は?」

「俺は金なんか要らないからいつでも協力するって言ってたんだ。でも祥子さんは子どもらのことを考えて、お前と接触するのは控えてたんだ。下手にお前のことを思い出させたくないってさ。でもこうしてノコノコやってきたんじゃあ、祥子さんの気が変わるかもしれねぇなあ」

「さっきから何言ってんだよお前。何様だよ!?」


 男が敵意むき出しでおじさんを罵る。それでもおじさんは微塵も揺れなかった。体格だけではない芯から溢れ出る逞しさがあった。


「申し遅れましたね。わたくし弁護士をしております、高倉と申します。さっき葬式に行ってたんで今はバッジ付いてないんですけど、ほんとですよ? まあこんなレスラーみたいな見た目なんでね、あんまり弁護士には見られないですけどね。はっはっはっ」


 大袈裟に作り笑いを発するおじさんを前に、男の顔がみるみるうちに青くなっていく。


「今は債務整理を主にやっていますが、以前は離婚専門チームに所属していましてね。もう数えきれないほどの離婚裁判や養育費請求もこなしてたんですよぉ……。これ以上言わなくても、いくらバカでも意味わかんだろ? 分かったんならさっさと出てけ! これ以上この家に居座るなら今までの養育費一括でぶん取るぞ!」


 空気を殴りつけるような、凄まじい気迫。それに男は耐えられなかったようで、ふらつく足取りで、逃げるように家から出ていった。男の軌道を描くように灰が舞い上がる。


 嵐のように去って行った男の余韻が抜けず、俺は腰が砕けたままへたり込んでいた。ゆっくりと、大きな背中がこちらを向いた。


「大丈夫か、勇人」


 差し出される分厚い手。その先には、おじさんの優しい瞳。


 腕を伸ばそうとしたが、雨の中全力疾走したせいで手が濡れていた。慌てて袖で拭ったが、その服も濡れていた。おじさんは構わず俺の濡れた手を掴み、勢いのままに引っ張り上げた。


「こんなに濡れて、風邪ひくぞ。早く着替えろ」

「……おじさんごめん。ありがとう」


 昼間のことが蘇る。もっとちゃんと謝りたい。いろんなことを、面と向かって謝罪したかった。でも今は、この言葉で精一杯だった。


「何言ってんだよ。あ、養育費云々はあれだぞ。咄嗟の脅し文句だから真に受けるなよ。養育費の対応はいろいろと複雑で……」

「分かってるよ。それにあの男の金なんかいらないから、おじさんは何もしなくていい」


 おじさんが複雑に笑った。そしてその瞳が、廊下へと動いた。


 泣いている。廊下の隅で、口を手で覆い肩を震わせて泣いている。


「夏」


 呼ぶと、震える瞳が俺を見た。次から次へと大粒の涙が零れていく。とめどなく流れるそれは、涙腺が決壊したようだった。


 駆け寄ると、より鮮明に夏の顔が窺えた。睫毛がぐしょぐしょになっている。頬には涙の跡が残っていて、それを上書きするかのように新たな涙が伝っていた。


「夏」


 目の前でもう一度呼んだ。それでも夏の震えは止まらない。凍えているように、カタカタと動いている。


 震える体の横に転がっている黄緑色のコム。落としたのかカバーが外れ、電池パックの部分が剥き出しになっている。

 そこには見覚えのある顔が貼られていた。目を凝らして見えたのは、『マヌケ』『ヘンタイ』の文字……。


 自分がずぶ濡れであることも忘れて、夢中で夏を抱き締めた。凪咲のものとは全く違う肩幅。それが余計に胸を締め付けた。


 腕の中にすっぽり埋まる夏から懐かしい匂いがした。ずっと避けていた、忘れようと逃げ続けていた匂い。でも俺はこれを昔からよく知っている。


 思考が弾け飛ぶような、全身の力が抜けていくようなその匂いに涙が出そうになった。

 夏を抱く腕の力を強めると、夏の嗚咽がしっかりと聞こえてきた。


「ごめん……。ごめんな、夏」


 夏の腕が俺の腰に回される。俺と夏の輪郭が混ざっていくようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る