3・8② 君だけは

「……誰」


 俺の言葉に、男は目を見開いた。しかし俺の挙動不審な反応が愉快だったようで、口が中途半端に生えた髭に隠されていても分かるくらいの笑みを浮かべた。


「酷いなぁ、忘れたのか? でも仕方ないか。もうずっと会ってなかったもんな」


 いや、本当は分かっている。この男が誰なのか、俺はちゃんと知っている。忘れるはずがない。目、鼻、口、輪郭、その造形すべてが俺と同じ曲線を描いているのだから。


 男は俺に向かって溢れんばかりの笑みと歓喜の表情で立ち上がり、俺へ向かって一歩、歩み寄った。


「会いたかったよ早人。ずっとお前が心配だったんだ。嬉しいなぁ、俺そっくりだ」


 黒い爪が生えた汚いその手が、俺へと伸びる。首筋に舌を這われたような強烈な嫌悪感が全身を震わせた。


「触るな!」


 勢いで手を払うと、男の顔から笑みが消えた。


「酷いなぁ。感動の再会なのにそれはないだろう。喜んでくれないのか? 久々にお父さんに会えたってのに」


 二度と会いたくなかった。顔も、声も、存在すら認識したくなかった。思い出したくなかった。ようやく忘れることができそうだったのに、叩き起こされてしまった。


「なにが父親よ」


 押し殺すように零れ出た声は、母さんのものだった。


「一度も養育費なんか払ってなかったくせに、今更何? 自分が作った借金を抱えきれなくなったからって、こうしてたかりに来るなんて頭おかしいんじゃないの!?」


 母さんの大きな瞳から大粒の涙が溢れた。頬を伝うそれは、細い軌跡を描いて落ちていった。


「集るって……そんな人聞きの悪い。なぁ早人、聞いてくれよ。こいつら酷いんだよ。人が困ってるっていうのに、助けるどころか帰れって言うんだ。家族によくそんな冷たいことできるよな」

「バカ言うな!」


 ばあちゃんだった。


「なにが家族だ。父親らしいことなんて一つもしていなかったじゃないか。働きもせず散々飲み歩いて女遊びもして、挙句祥子に手を上げたくせに。……帰れ! あんたにやる金なんか一銭もない!」


 憤怒に満ちたばあちゃんに一瞬男が怯んだように見えたが、すぐに厭らしい笑みに変わった。


「そんなこと言わずにさぁ、頼みますよお義母さん。昔はよくしてくれたじゃないですか。一回だけ、本当に今回だけ、お願いしますよ」

「うるさい! もうわたしたちは家族でもなんでもない赤の他人なんだよ!」


 息ができない。呼吸をしたいのに、ひっひっと空気を取り込むばかりでうまく吐き出せない。手の震えが止まらない。


 冷静になろうと思えば思うほど12年前の景色が広がってくる。過去に侵食されていく。雪崩に巻き込まれるように、波に飲まれるように、抵抗の余地すらなく、呆気なく。


「ったく、聞き分けの悪い女どもだな」


 男は舌打ちすると、俺の横を通りすぎリビングを出ていった。男が向かったその先は、リビングの真正面にある和室だった。くたびれた背中が真っ直ぐじいちゃんの仏壇へと進んでいく。

 追いかけるように俺もリビングを飛び出し和室に入ると、男は仏壇を漁り始めていた。


「やめろ!」


 泥と雨に濡れた男の袖を掴む。じいちゃんの写真に伸びた男の手を、なんとか阻むことができた。しかしすぐに払われ、俺はその場に倒れた。腕が畳に勢いよく擦れ、皮が剥けた。


「邪魔すんじゃねぇよ!」


 吠える男はもはや人間ではなかった。金に目が眩んだただの乞食だ。


 畳に擦れた腕が痛む。心臓の動悸がタガが外れたように激しく、全身に熱を巡らせ続けていた。


 12年前もこうだった。

 金をよこせと怒号を飛ばし、母さんを殴り、家具を破壊し、勇人が泣き叫び、幼い叫びを止めようと腕を振り上げ、それを阻止した母さんを再び殴ったあの時と全く変わらない。俺はまだ小さかった勇人に抱きついて静かに泣くことしかできなかった。何もできなかった。


 はっきりと覚えている。あの悪夢を、12年経った今でも覚えているのだ。


「出せよ通帳! どこにあるんだよ! ジジイの金がまだあるんだろ!?」


 男は仏壇に置かれた菓子も、燭台も、香炉も、鈴もすべてなぎ払った。畳の上に線香の灰が打ち水のように広がる。じいちゃんの写真すらも床に叩き落された。本能のままに仏壇を荒らす男の姿は、無慈悲に街を破壊する獣のようだった。


「ふざけんなよ……」


 火が付いたように俺の体はすぐに動いた。皮が剥けた腕で男の首を掴み、その場に押し倒す。男に馬乗りになり、首を絞めた。手に力を込めると男の瞳は激しく揺れ、俺を凝視した。


「早人! やめて!」


 母さんの声が頭に響く。男は瞳で俺を捉えながらも、やがて自分の首を絞める手の存在など忘れたかのように、小馬鹿にするような奇怪な声で鳴いた。


「なんだよ父親に向かって。生意気だなあ」

「……お前は、父親なんかじゃない」

「バカ言うなよ。どっからどう見ても、お前は俺の息子だよ。お前には俺の血がちゃーんと流れてる」


 人形のように機械的で、下品で、不気味な男の笑い声。酒気を帯びた臭いが鼻を突く。


 どうしてだろう。どうして俺は、母さんじゃなく、こいつに似たんだろう。どうしてこんな男と同じように作られてしまったんだろう。


「違う……」


 違う。頼むから、誰か違うと言ってくれ。俺はこの悪魔の息子なんかじゃないと、ちっとも似ていないと、誰か言ってくれ。


「何も違わないよ。ほら、お前は俺にこんなによく似てる。嬉しいなぁ」


 男の瞳に、俺が映る。それは今まで俺が目を逸らし続けてきた現実だった。


 俺は忘れてなんかいなかった。俺の脳裏には常にこの男がいて、時間とともにこの男と同じように成長していく自分が恐ろしかった。年をとればとるほど、この男の色が強くなっていく自分に絶望していた。

 鏡を見ては震え、恐怖し、母さんや勇人と自分を見比べ、やがて現実から目を逸らすようになっていた。


 そうだ。鏡を見られなかったのは、自分がこの男に似ているのを俺自身が自覚していたからだ。この男の顔を鮮明に覚えていたからだ。


 何もかも阻止するように、目の前の現実を消し去るように、現実を捻じ曲げるように。

 気付けば俺の右手は、男の顔を狂ったように殴打し続けていた。


 脳天を強く刺激する、母さんの悲鳴。拳が痺れるように痛い。手を止めると、男は赤い歯を見せひたすらに笑っていた。それが腹立たしく、俺の手は再び首を絞めた。


「なにが可笑しい」


 力を込めようとしたが、力任せに殴った右手は弱々しく震えているばかりで、情けなく掴むことしかできなかった。


「その顔、俺にそっくりだな」


 男の瞳の中にいる人物。夜叉の形相で首を絞める俺だった。母さんに手を上げていたあの時と男と、何も違わない。


 呪いだ。全身に課せられた一生抜け出せない呪い。こいつと同じ血が流れ、生き写しのようにかたどられたこの体が、細胞すべてが憎い。


 耐えられず再び右腕を振り上げた。


「お兄ちゃん」


 ずっと聞きたかった声。ずっと呼ばれたかった呼び名。会いたかった瞳が、廊下に立ち尽くして俺を見ていた。


「どうして……」


 行き場を無くし、空虚に停滞していた俺の右腕がゆっくりと下される。


 どうしてここにいるんだ。よりによって、こんな時に。


「……るな」


 頼むから。お前だけは。


「見るな!」


 感情任せに叫ぶと、夏は体を跳ね上がらせ、その目から涙を零した。どうして夏が泣くんだ。何のために泣くんだ。


 動揺からか、手の握力が緩んだ。瞬間、男が俺の手から逃れてしまった。

 気が付いた時にはもう遅く、逆に男に首を掴まれ、その場で張り倒された。


「かはっ……」


 弾みで線香の灰が塵のように舞う。気管に入り、俺は咳き込んだ。体内に侵入した異物を排除しようと狂ったように喉が痙攣する。喘息のように咳が止まらない。意識しなくとも咳が勝手に出る。


 突然、目の前で火花が炸裂した。強い痛みで、頬を殴られたのだと分かった。


 必死に俺の襟に伸びた男の腕を掴み、身を捩ったが、俺の抵抗はもはや意味を成していなかった。顔面に走る衝撃は留まることはなく、断続的に俺を襲った。徐々に口の中に鉄の味が広がっていく。


「きゃあああ!」


 薄れていく意識の中、響き渡る悲鳴。誰だろう。朦朧として判別ができない。


 頬を走る痛みが鈍くなってきた頃、ある男の歌声が脳裏に鳴り始めた。決して逃れることはできない現実への絶望と、犯した罪に対する男の叫び。


 脳内再生されたそのリズムに合わせるように男の腕が降ってくる。滑稽なその姿は喜劇のようだった。目の前の景色が現実であることを証明する頬の痛みすらも、喜劇の一部のように感じられた。


 

 どれくらい時間が経ったのだろう。気が遠くなるほどの現実は、数十秒にも何時間にも感じられた。


 抵抗を諦め力を抜く。瞼を閉じようとした時、身体にのしかかる重みから唐突に解放された。

 血交じりの唾を吐くと、涙が出ていた。なんとか焦点を合わせ、横目でそれを見た。


 男の腕を掴み、俺から引き離す母さん。それに抵抗する男。立ち竦んで、涙を流している夏。手には黄緑色の何かが握られていた。



 夏、ごめん。こんなものを見せて本当にごめん。驚いたよな。でも今一番謝りたいのはそれじゃない。いきなりあんなことしてごめん。嫌な思いをさせて本当にごめん。



 謝罪は口から発せられることはなかった。俺の口は、必死に酸素を取り入れることにだけに集中していて、声帯を震わせるほどの余力はなかった。


 曇った視界の中、見えたのは男の拳。振り上げられた汚い腕は、母さんに向けられていた。弾丸のように鋭く直線上に、迷いなく母さんの方角へと進行を始めた。


 痛む体。俺の意志ではもうどうすることもできないほど機能を停止していたその肉体。でも操り人形と同じで、細い糸さえあれば動かすことはできるのだ。


 俺は無我夢中で男の濡れた服を引っ張り、押し倒していた。

 

 涙が止まらなかった。俺の拳も止まることはなかった。


 覆い被さるように倒れたその顔を認識する前に、俺の拳は動いていた。俺の右手に付着した赤い温もりは、どちらのものかは分からなかった。拳に走る電気のような痛みも、頬に帯びた熱も、何も感じなくなっていた。


 呪いを消すように逃れるように、もしくは悪魔に取り憑かれたように、俺の右腕は本能のままに動いた。感情の伴わないその動きは、たとえ目の前の命を殺めたとしても構わないと語っているようだった。



「早人! やめろ!」


 俺を引き戻す低い声。強い力で肩と腕を掴まれた。


 ぐらりと沈む視界。鞭のように叩きつけられ、うねる体。背中に走る衝撃。舞い上がる灰。視界が灰色に染まり、全身の力が一気に抜けていく。


 仰向けに倒れる俺を見下ろしていたのは、俺とは全く違う男。悪魔とは似ても似つかない、美しい顔。耳に光るピアス。ほのかに感じる、香水の香り。


 怯えた目で俺を見下ろす、勇人の姿だった。

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