3・8① 雨の訪問者
――2008年8月――
イヤホンから流れ出る、QUEENの『Bohemian Rhapsody』。
人を殺めてしまった男の絶望と悲哀と、救いを求める悲痛な訴え。この男の嘆願が自己の奥底を直接的に刺激してくるようで、泣きたくなってくる。それはやり場も出口もない人生をどこかで悲観していているせいかもしれない。
iPodを止めイヤホンを外すと、鮮明に雨の轟音が耳に届いた。
ケータイを取り出し、開く。待ち受け画面を何度確認しても、着信やメールは一件も届いていない。俺の指は発信履歴を辿り、すぐに発信ボタンを押していた。
耳にケータイを押し当てると、発信音が聞こえてきた。小窓から見える向こう側。あの日からずっと閉め切られているカーテン。何かを期待しているのか意味もなく見つめてしまう。
予想通り、一瞬で切られた。着信拒否されているわけではないようだが、俺からの電話だと分かると迷わず通話終了ボタンを押しているのだろう。
正直ここまでの事態になるとは思わなかった。謝罪の機会すら与えてくれないとも思わなかった。
どうにかして関係の修復をしたいのに、いくら頭を抱えても解決策は何も降ってこない。
♢
雨のせいか、花火大会が中止になったせいか、店は空いていた。
でもその余裕が俺にとってはむしろ不都合だった。バカみたいに混んでいれば業務に忙殺され、余計な考え事をしなくて済んだのに。
キャベツを切っている間も、皿を洗っている間も、頭に浮かんでくるのはずっと夏のことだ。
俺とアイスを頬張る夏。俺の隣で寝息を立てる夏。俺の横で映画を見て涙を流す夏。俺にSMAPのライブ映像を見せては、その愛を熱く語る夏。俺を容赦なく殴る夏。俺にキスをされ、困惑と憤りに震えていた夏。
想像以上に、夏の存在が大きかったのだと自覚させられる。俺の日常は、夏が大半を占めていたのだ。
見境も遠慮もなく、対人距離など微塵も考えない夏の進撃に戸惑ってばかりだったけど、かえってそれが俺にとっては意味のあるものだった。夏と出会って毎日のように振り回されることで、俺は自身の感情を豊かなものにすることができていた。
バイトへ行く前、喪服を着たおじさんとおばさんが車に乗るところに遭遇した。
「あれ? 早人は今日もバイトか?」
「はい。おじさんたちは? どこに行くんですか?」
「ちょっと知り合いの葬儀にな。夜には帰ると思うが、万が一今日中に帰れそうになければ夏をそっちに泊めてやってくれないか? やっぱり一人にさせるのは心配だし、何をしでかすか分からないからな。お前が監視しとけ。それに花火が中止になって拗ねてるんだよ。屋台はやってるらしいから、お前さえよければバイト帰りに焼きそばでも買ってやってくれ」
「……はい」
おじさんは何も知らない。何も知らないからこそ俺にそんなことを頼めたのだ。いっそおじさんに事情を話して、一発殴ってもらった方が良かったかもしれない。
夏はどう思っているのだろう。いつまでこの冷戦状態を続けるつもりなのだろう。いつになったら、前のようにSMAP鑑賞に俺を巻き込んでくれるのだろう。
「はぁ……」
自然と出た溜息。溜息を吐くと幸せが逃げていくよ、と誰かに言われたけど、俺にはもうこれ以上逃げていく幸はないだろう。あるとするならば、ゼロがマイナスになるくらいだ。
「おい、早人」
「はい?」
茶碗を濯いでいたところで、テツさんに話しかけられた。手には食器洗剤の泡が纏わりついたままだ。
「え、どうしました?」
「……お前、いつまで皿洗ってんだ?」
「へ?」
思いがけないその言葉に、筋肉が硬直した。久々にこんなことを言われた。茶碗を持つ手がかすかに震えた。
あまりにも皿洗いが遅すぎてテツさんが怒ってしまったのか。今何時だ。いつから洗っていたっけ。あぁこんな自分が嫌になる。俺はいつになったら「ノロマ」から脱却できるのだろう。これ以上人に迷惑かけたくはないのに。
「す、すみま……」
「もうお前上がりだろ。もう6時半だぞ。いつまで働いてるんだ」
「え」
厨房に張り付けられている時計を見ると、確かにもう6時半になっていた。シフトは6時までだったのに、いつの間にか30分もオーバーしていたようだった。
「お前、やっぱり疲れてんじゃねぇの? 来月はあんまり入るな。分かったな?」
「……はい」
更衣室は真っ暗だった。窓の奥から、風と雨の音が混ざった音が聞こえてきた。そっと電気を点けると、蛍光灯が消えかけになっていて、チカチカと光った。不安定な電気が視界を照らしたり暗がりに変えたりと忙しなかった。
屋台の一部はやっているとおじさんが言っていた。この時間なら、まだやっているだろうか。
焼きそばでも買って夏に謝ろうか。焼きそばくらいで許してもらえるとは思わないが、会う口実にはなるだろうか……。
雨の音はいつまでも続いていた。
♢
バス停に着いた時には、すっかり空が暗くなっていて、目を凝らさないと何もかも見失ってしまいそうだった。傘を差し、暗い歩道を焼きそばの入ったビニール袋を提げたまま歩いた。舗装されていない道は大量の水溜りができていて、慎重に歩かなければすぐに足をもっていかれてしまう。
道はタイヤの跡が付いていた。車が通ったのだろうが、酷くぬかるんでいて、一歩進むごとに靴からその滑りが伝わってくる。
雨がビニール傘を突き破る勢いで襲撃している。傘からは、絶え間なく大粒の雫が滴り落ち、視界を悪くする。
早く帰ろう。焼きそばが冷める。歩みを速めた。
「……え」
暗い道の中、かすかな明かりで見えたのは謎のミニバン。母さんの車の隣に、乱雑に停められている。タイヤが泥で汚れたそれに近付くと、多摩ナンバーであることが分かった。
東京の人が、こんな時間に何の用なのだろう。東京に知り合いなんていただろうか。こんな田舎にわざわざ来る人なんているのか。
急いで玄関に向かい、ドアノブを掴む。手が小刻みに震えていた。勢いに任せて扉を開けると、暗い廊下の中、リビングからの光だけが差していた。
「だからそんなお金はないって言ってるでしょう。何回言ったら分かるの」
母さんの声だった。消えてしまいそうな小さい声だったが、語気が強く、今にも叫び出しそうだった。
「お前も冷たいなぁ。助け合いってもんがあるだろう。そんなこと言わずにさぁ、頼むよ。少しくらいあるんだろ? な?」
男の声だった。潰れたような、掠れた声。でもどこか聞き覚えのあるような気がした。
急いで靴を脱ぎ、リビングへ飛び込んだ。
まず見えたのは、母さんとばあちゃん。テーブルの奥の席に、こちらを向いて座っている。母さんの顔は酷く紅潮していて、怒りが眉を這っていた。ばあちゃんは歯を噛み締め、目には火が宿っていた。
次に見えたのは、中年の男の背中。髪は散り散りに乱れ、薄汚い作業着のようなものを着ている。その男は母さんたちと向き合うように、こちらに背を向けて座っていた。それはちょうど、俺がいつも飯を食べる席だった。
「……ただいま」
俺のマヌケな言葉に、母さんとばあちゃんが一斉に顔を上げた。二人の顔から怒りが消え、すぐに焦燥へと変わった。いかにも、まずいところを見られたような様子だった。
男が、ゆっくりとこちらへ顔を動かす。ほんの一瞬のことだった。
でもその一瞬が俺にとってはスロー再生された映画のワンシーンのようで、輪郭から細部まで認識するまでに随分と時間を要したように感じた。
その鈍く進んだ時間のせいで、察してしまった。自然と理解してしまったのだ。男が誰なのか。
心臓が、身体が、喉が、すべてが痛い。熱く煮えたぎった血液が全身を巡る。熱に耐えられなくなった指は、握り締めていたものを緩やかに解放していた。
手放された焼きそばが床に落下し、派手に散った。ソースの香りが部屋に充満していく。興奮は震えに変わり、世界の時が止まる。
「久しぶりだな、早人。大きくなったなぁ」
気味の悪い笑みを浮かべたその男は、俺と同じ顔をしていた。
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