3・7② 空の悪戯
明日で北京オリンピックが終わる。
毎回オリンピックでは何かしらドラマが起きるが、今回も大いに盛り上がっていた。北島康介は100メートル、200メートルともに金メダルを獲得。レスリングでは吉田沙保里が連覇を達成しただけでなく、伊調馨も金に輝いた。
一昨日行われたソフトボールだけ、なぜか由利の家で集まって観戦したが、優勝が決まった瞬間は全員で菓子をひっくり返すくらい大喜びした。
オリンピック情報は基本ニュースでチェックしていたけど、リアルタイムで真剣に見ていればよかったかなと少し後悔した。観戦がこんなに楽しいものだと知っていたら、もっといろんな競技を見ていたのに。
でも、それほど日本を沸かせたオリンピックも明日で終わる。瞬きする間に「北京オリンピック」が過去のものになる。2008年のイベントがまた一つ、幕を閉じてしまうのだ。
「もしもし? 今日どうする? めっちゃ雨降ってるけど」
激しい雨が窓に打ち付けていた。雨で窓の向こう側がうまく見えない。家と外界とを隔離するようだった。
冷蔵庫から麦茶を取る。用意してあったコップに注ぐと、それを持ってリビングのドアへ向かった。
『まさか雨が降るなんてね……。中止かぁ。見たかったなぁ花火』
残念そうな、暗い低い声がコムの向こうから聞こえてくる。凪咲がどんな表情なのか容易に想像できてしまう。きっと唇を尖らせて不貞腐れているに違いない。
「仕方ないよ。天気は誰にも操れないし」
『分かってるけどさぁ。なんでよりによって今日降るのかなぁ』
今日は、年に一度の花火大会の日だった。当然ながらこの雨によって中止になってしまった。今頃、花火を楽しみにしていた子どもたちが泣き喚いているかもしれない。
「で、どうする? 屋台は少しやってるみたいだけど……行ってみる?」
『そうだねぇ……ちょっと買って、持ち込みOKのカラオケとか行く? 確か駅前で持ち込みできるとこあったよね?』
「あるある。じゃあそうする? 家まで迎えに行くよ」
『うん、分かった。準備できたら連絡するね。また後で』
「分かった」
コムを切ると、それまで全く気にならなかった雨の音が覚醒したかのように鼓膜を刺激し始めた。廊下でも分かるくらい外がうるさい。
嵐のように激しいわけではないが、決して少なくはない量の雨。傘が要らないくらいの小雨ならギリギリ花火を打ち上げられただろうが、みんなの願いは天に届かなかったようだ。
もし俺が小学生だったら、この日のためにてるてる坊主を作っていたかもしれない。でもティッシュで作った謎の人形を吊るしたところで、天は動いてくれないのが現実だ。今じゃ心の中で天気を祈ることはあっても、わざわざてるてる坊主を作るようなことはしない。必死にティッシュを丸めていた頃の純粋な俺はもう存在しない。
階段を上り、部屋のドアを開けると、早人がイヤホンを付けて音楽を聴いていた。相変わらず寝癖がついたままで、辛気臭い顔をしている。早人は俺を一瞥すると、何も言わないまますぐ俯いてしまった。
最近、早人は分かりやすいほど元気がない。確かレスリングの試合があった日からだ。吉田沙保里の活躍に日本中が大歓喜していたのに、唯一早人だけが死んだような顔をしていた。
それに夏の様子もおかしい。今まで目障りなくらい早人にくっついていたくせに急に静かになり、異様に早人を避けている。こんなことは初めてだ。
別に何があったのか聞こうとは思わないが、さっさと収拾がついてほしい。死にかけの早人と一緒の部屋にいると俺まで気分が沈みそうで、なるべく同じ空間にいたくないのだ。
箪笥から適当な服を出し、部屋着を脱ぐ。雨だしいつもより寒いから、上着を着たほうがいいかもしれない。丁度いいものがあったかどうか確認しようとクローゼットを開ける。
「なあ勇人」
「は?」
突然すぎるその呼びかけに、咄嗟に返事をしてしまった。普段なら絶対に無視していたのに。仕方なく振り向くと、早人は暗い顔ながらもなんとか表情を和らげていた。
「……なんだよ」
「お前、どこか出かけるのか?」
「そうだけど」
「雨なのに? 花火中止だぞ?」
「知ってるよ。彼女と会うだけだよ」
「そっか……」
いちいちそんなこと聞くなよ。俺が何したってお前には関係ないだろ。なんで知りたがるんだよ。ほっとけよ。
喉まで上がってきていた言葉たちが口から洩れないよう、ゆっくりと飲み込む。なぜか今日は、早人の存在がやたら癪に障る。
低気圧のせいなのか、わざとらしいほど早人が沈んでいるからなのか、早人たちの変化を敏感に感じ取っている自分自身への苛立ちなのか……。
財布をポケットに突っ込む。棚に置いておいた香水を手首に付ける。香りが纏った手首を首に回す。
「お前、『15の夜』歌うの?」
ワックスへ伸びていた俺の手が止まった。
なんで知ってるんだ。聞きたかったけど、それでは肯定することになってしまう。
「……なんで?」
「あ、いや……机に譜面あったの見えてさ」
机に視線を落とす。『15の夜』の譜面がこれでもかというほど堂々と広がっている。森崎から言われたことを書き取ったメモまであった。
うっかりしていた。この部屋は俺の部屋でもあり、早人の部屋でもある。机の上なんて見ようと思えばいつでも見ることができる。安易に机に放置するんじゃなかった。
「お前、テツさん知ってるだろ? つい最近テツさんと尾崎豊の話してたんだよ。テツさんも若い頃聴いてたらしくてさ。こんな偶然ってあるんだな。びっくりした」
無理して明るく振舞っている。俺に気を遣った控えめな声。駄々をこねている子どもをあやす様なトーン。近いようで遠い距離感。
早人の全てに苛々した。
「文化祭の公演、見に行くよ。勇人が尾崎歌うの楽しみにしてる」
曲目は当日まで秘密厳守とはいえ、家族に知られないようにするなんて無茶だ。家で練習したり楽譜を広げていれば簡単に分かってしまう。
それに学校でガンガン練習していれば部活で学校に来ているやつらには大体バレる。曲を完璧に隠すのは無理な話だ。
でも、そうだとしても早人にはなぜか知られたくなかった。
「……勝手に人の机見るんじゃねえよ」
わざと乱暴に言った。舌打ちもした。
「あ……ごめん」
俺の声色に何かを察したのか、早人は分かりやすく傷ついた顔をした。その顔に無性に腹が立った。
これ以上こいつの顔を見たくない。
ワックスもつけないまま荷物を持ち、部屋を出た。苛立った足取りは大きな音を立て、階段を降りるたびにドスンドスンと響く。これじゃまるで夏じゃないか……。
廊下に立った瞬間、玄関が開いた。ガタイのいい人影が入ってきた。
「お、勇人か」
黒いスーツ姿のおじさんだった。手には大量の煮物が入ったタッパー。またおばさんの作った料理のおすそ分けか。
「これ、冷蔵庫に入れとけ」
「……分かった」
タッパーを受け取ると、作ってから時間が経っていないのか底から温もりが伝わってきた。
さっさとリビングに入り、冷蔵庫へタッパーを無理やり押し込む。煮物の出汁の匂いが鼻についた。
玄関に戻ると、まだおじさんが立っていた。なんでまだいるんだろう。用が済んだなら帰ればいいのに。不思議に思いながらも靴を履き、右足の靴ひもを結ぶ。
「こんな雨なのに出かけるのか」
「……うん」
「部活か?」
「……違う」
「そうか。危ないから早く帰って来いよ。あんまり遅くなるとみんなが心配するぞ」
こんな会話をするためにわざわざ待っていたのだろうか。俺にこんなことを言って何の意味があるのだろう。
「……よ」
「は?」
「ほっとけよ。父親でもないくせにいちいちうるせえよ」
空気が凍り付いたのが分かった。口から出た言葉に、自分で動揺した。怖くておじさんの顔が見れない。
左足の靴ひもを結ばないまま傘を握り、玄関を飛び出した。おじさんの声がしたような気がしたけれど、振り返る勇気はなかった。数歩歩いたところで傘を開くと、すでに濡れていた頬から雫が垂れた。
どうして我慢できなかったのだろう。黙って出て行けばよかったのに。これじゃただの反抗期の子どもだ。
口から出た言葉は二度と戻すことも消すこともできない。だからこそ慎重になるべきだったのに。
俺は何に苛ついているのだろう。何が気に食わないのだろう。
「……クソ」
一番苛ついているのは、こんな自分自身に対してかもしれない。
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