4・4① 後遺症

――2008年8月――


 朝から病院へ行った。つい先日鼻に詰められていたガーゼを取ったばかりなのに。

 正直母さんの職場で何度も診察を受けるのはいい気分はしないが、文句も言ってられない。この不格好な状態からも、むず痒さからも解放されるなら従う外ないのだ。


 心を無にして受診すると、意外にも鼻を覆っていたギプスを外してらえることになった。癒合がうまくいっていたらしい。


 久々に自由になった鼻は、開放感とともに違和感があった。急に外されたせいか逆に物足りなさを覚える。


 傷も綺麗に消えていて、ぱっと見では鼻が折れていたとは分からないほどだった。人間の治癒力に感動したと同時に、体が過去をなかったことにしているようで妙な感覚に陥った。


 ずっと覚えていたいわけではない。むしろ忘れたいくらいだ。でも忘れてしまっていいのかは分からない。

 それに傷が消えたとしても、胸の陰りが変わるわけじゃない。いつまでも引き摺っているものが綺麗さっぱり無くなるわけじゃない。


 頭の中で再生される鮮明な光景と感触。あの時抱いた感情を思い出しては唇を強く噛む。感情のままに荒れた自分の幼さに目を強く瞑っては、息を長く太く吐く。胸に碇のようなものが引っ掛かり続け、身動きが取れない。



「じゃあ次の診察は一週間後だからね。鼻、あんまりいじっちゃダメだよ? 鼻をかむのも控えてね」


 診察室を出た後、母さんに何度も釘を刺された。言われて意識が向いたせいか、鼻の奥に痒みが生まれたような気がした。


 病院を出ると、強い日差しが全身を照らした。あまりの眩しさに目が自然と細まる。駐車場を歩きながら母さんの車を探す。母さんはキーを探しているらしく、カバンの中を漁っていた。

 母さんがキーを見つけるよりも先に車の前に辿り着いた時、「祥子さん!」という低い声が後ろから飛んできた。


 振り向くと、知っている顔が白衣のままこちらへ駆け寄っていた。爽やかな笑顔を見た途端、鼻ではないどこかが騒がしく疼いた。


「藤堂さん?」


 母さんがその人をまじまじと見ていた。驚きと焦りと微笑みを混ぜたような顔。

 胃を強く突き上げられたような不快感が喉まで昇ってくる。そうこうしているうちに藤堂さんが母さんの目の前で立ち止まった。


「忘れてますよ。保険証」

「あ……ありがとう。ごめんね」

「いいんですよ。あと明日の夜勤代わりますよ。祥子さんは休んでください」

「え? 前も代わってもらったのに? 申し訳ないよ」

「いえいえ。祥子さんはしばらく日勤だけにしてください。俺は大丈夫ですから」


 母さんに向けられていた笑顔が、ようやく俺を捉えた。病み上がりの俺を気遣ってか、控えめな微笑みを見せた。


「早人くん、お大事にね。ゆっくり休んで安静にするんだよ」


 筋肉質な逞しい腕が、俺の肩をポンと叩く。そこがピリッと痺れる。厚い掌が離れても、いつまでも撫でられているような感触が皮膚に残った。


「藤堂さん、今回は本当にありがとう。早人を病院に連れて来た時も対応してくれて助かった。休憩中だったんでしょ?」

「そんな申し訳なさそうにしないでくださいよ。水臭い」

「でも……」

「あー、じゃあ今度昼飯でも奢ってください。それでチャラってことで」


 眩しいほどの笑顔に、母さんの頬が解れていくのが分かった。


 温いものが胃から迫ってくる。喉から出てしまいそうになるのを抑え込もうと息を止めた。苦しくて、少し呼吸を許した瞬間、駆けだすように溢れた。


 胃液とともに吐き出される、酸っぱい匂い。床に散らばるそれが嫌な音を立てて、一層不快になる。膝に手をつき激流を抑えようとしても、手が、胃が、喉が痙攣して止まってくれない。


 すぐに母さんが駆け寄り、俺の背中を擦った。藤堂さんが人を呼びに病院内へ戻って行く。


 母さんの叫びにも近い声が耳元でうるさいほど反響する。息を吸いたいのにうまくできず、涙が滲む。鋭い日光などお構いなしに身体が震える。腕には鳥肌が立っていた。


 もう出てくるものは無いのに喉はしつこく痙攣し続け、まともな呼吸を許してくれない。

 騒々しい鳥のような醜い嗚咽が口からとめどなく漏れる。言葉にならない悪寒が走る。正体の見えない黒い霧が執念深く背筋に這いつくばる。

 重い。暗い。逃げ出したい。毛穴という毛穴からべっとりとした汗が漏れてくる。


 母さんが、今にも泣きだしそうな顔をして何かを言っている。聞こえてはいるけど聞き取れない。俺に向けた言葉がただの音になって響く。脳内で文字化されてこない。


 藤堂さんが、誰かを連れてこちらに走ってきていた。


 その逞しい腕が、もう一度肩に触れる瞬間を想像し、震えた。その低い声が、もう一度母さんの名前を呼ぶのを想像し、えずいた。誰かの腕が、目の前で大きく振り上げられるのを思い出し、凍った。でも、どれもすべて架空だった。


 きっと俺が幼すぎるせいだ。尾を引くものに足を取られて、いつまでも抜け出せないでいるせいだ。


 何が恐ろしいのだろう。何を拒絶しているのだろう。分からないのは俺がバカだからなのか、子どもだからなのか。大人になれば、全てを理解し許容できる広さを持てるようになるだろうか。


 だったらいっそ、いつまでも子どもでいたいと願ってしまった。







 薬を飲んで落ち着いてからも、母さんは目を潤ませていた。俺の手を握ったまま、鼻をすすっている。


「ちょっと疲れてただけだよ。気にしないで」


 声が廊下に響かないよう、囁くように伝えた。それでも母さんは苦悶に満ちたままで、静かに涙を零した。


 慌てて止めようとしたものの、俺の言動全てが涙の引き金になるのか、母さんはティッシュ一箱使い切りそうな勢いで泣き始めてしまった。

 嗚咽が響き、待合室にいる人たちの視線が集まる。耐えられなくて、母さんを連れて無理やり車に戻った。


 


 家へと向かう帰り道は、胃がズキズキと痛んだ。母さんが必要以上に遠回りして運転してくれないかと考えた。


 帰るということは、みんなと鉢合わせるということ。見たくない顔を目に焼き付けなきゃいけないということ。


 みんな何事もなかったかのように過ごしている。俺に悪意も嫌悪も向けない。だからこそ会いたくない。


 無理して忘れようと努めているところも、何も覚えていないととぼけているようなところも、あの日の出来事があったからこそ二人から積極的に話しかけられるようになったという事実も、全て副作用となって体に蓄積していく。


 勇人に会うたび、ぐっと喉を絞められたような息苦しさを感じる。夏を想うたび、彼女の目に映してしまった光景がこめかみを圧迫する。


 何かが背中に刺さっては、なかなか抜けてくれない。引っこ抜こうとするたび傷が広がって、血が滲んでいく。傷が治ることはなく増えていくだけ。


 やっぱりあの夜、海の中に消えてしまったほうがよかったのかもしれない。


 悲観的な自分が、人知れず呟いた。

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