2・2③ 君なりの答え

「起きろ!」


 怒号と同時に、体に稲妻のような激痛が走る。飛び起きると、夏が俺の足を踏むように座っていた。

 せっかく自然に起きる優雅な起床を期待していたのに、強制的に覚醒させられてしまった。朝っぱらから何の用だろう。


「な、なに」

「起きて」

「……起きたよ。起きたから返事してるんだよ」

「目が寝てる」


 意地で目を見開く。瞼と連動するように眉毛が上がる。眠いのに無理やり目を開くのは辛かったが、夏が笑っているのがぼんやりと見えた。


「よろしい」


 その声を聞いて、俺は目を無理やり開くのはやめた。


「勇人は?」


 ベッドの脇から下段のベッドを覗き込んだが、あるのは枕とシーツだけで主がいなかった。


「あー、なんかPSP持ってどっか行った。どうせまた友達と遊びに行ったんでしょ」

「あ、そう」

「てかお兄ちゃん、また髭伸びてるよ。夏休みだからってサボらずちゃんと剃りなよ」

「……はい」

「まったく、剃るの下手くそなんだから。また口切らないようにちゃんと鏡見るんだよ? いつも鏡も見ずに剃るから剃り残しあるし、ほんとマヌケ」

「また夏が剃ってくれればいいよ」

「バカ。私はお兄ちゃんの奥さんじゃないんだからね。そんな毎回頼まれても困るよ」


 バカと言いつつ俺が起きたことに満足したのか、夏はいそいそと梯子を下りていく。そのまま俺の勉強机をじっと観察し始めた。


 俺も夏を追いかけるように梯子を下り、夏の隣に立った。


「これ全部洋楽?」

「ん?」


 夏が指さすのは、机の棚に並べてあったMDたちだ。アーティストごとに色別に並べている。


「いや、大塚愛とかYUIとか……宇多田ヒカルもあるよ」

「え、宇多田ヒカルって、あの花男の主題歌もある?」


 『Flavor Of Life』のことだろうか。


「んー、多分あるよ」

「え、ほんと!? 今度貸してよ」

「いいよ」

「ありがと! でも意外だな。お兄ちゃんもそういうの聴くんだ?」

「そういうのって?」

「日本の音楽」

「んーたまに」

「へー意外。洋楽にしか興味ないかと思ってた」


 洋楽が好きなのは事実だけど、邦楽に全く興味がないわけではない。気が向いた時にたまに聴く。別に洋楽しか聴かないとルールを設けているわけでもないし。


「洋楽って、何言ってるか分かるの? 英語ばっかで歌詞聞き取れなくない?」

「え? 普通に分かるよ」

「え!? 歌詞の意味分かるの!? 聞き取れるの!?」


 夏が目を見開いて椅子とともに迫ってきた。何がそんなに驚くことなのだろう。


「え、うん……。時々聞き取れないこともあるけど、そんなの少し歌詞調べればわかるし……MDに入ってる曲なら大体全部歌詞分かるよ」

「うわぁ。さすが断固として吹き替えで映画を見ないだけあるね。英語にとり憑かれてるんじゃないの?」

「……褒めてないだろ」

「うん」


 とり憑かれてる、か……。


 机の棚に綺麗に並べられたMDたち。夏はカラフルなそれをつまらなそうに見つめていた。


「いつか、お兄ちゃん海外に行っちゃいそう」

「え?」

「昔言ってたじゃん。いつかアメリカ行きたいって。『フォレスト・ガンプ』の聖地巡りしたいんでしょ? なんか将来、お兄ちゃんほんとに行っちゃいそうな気がする」


 夏の焦げ茶色の瞳。それはどこか不安気で、俺の言葉を聞きたくなさそうにしていた。


「……そんなの分かんないよ。金ないし」

「お金があれば行くの?」

「さぁ」


 一応ぼかして答えたが、内心はイエスだった。なんとなく肯定してしまうと夏が暴れ出しそうな気がしたから曖昧にしただけだ。


 でも、誰だって金さえあれば海外に行ってみたいものなんじゃないか。俺だけじゃなくみんなそんなもんだろう。


「じゃあ、もし行くなら私も連れてってね」

「え?」

「アメリカ。私も行きたい。抜け駆けしないでよ」

「抜け駆けって……だから行く機会も金も予定もないって」

「もし行くことになったらでいいから」


 確かに、いつかはフォレストが駆けたその土地に足を踏み入れてみたい。

 でもそれは旅行か何かで行ければいいかな、くらいにぼんやりと思っているだけで明確な計画も何もない。もし行くことになったらと言われたところで、何年先になることやら。


「そういえば見たよ、全部」


 夏が椅子でくるくると回る。


「何を?」

「『エターナル・サンシャイン』!」

「お! どうだった?」

「んー、面白かったけどあんまりドキドキしなかった」


 やっぱり夏は少女漫画や携帯小説のようなトキメキを求めていたのか。それに関しては申し訳ない。


「でもね、私だったら絶対消さないなって思った」

「え?」

「私だったら、好きだった人との記憶はどんなことでも消さない。どんなに辛くても消したくない」


 珍しく真剣な眼差しだった。囚われたように、それから視線を外すことができない。


「……なんで?」

「だって、その人のこと好きだった頃に自分が感じたことを忘れるのはもったいないじゃん。私は香取くんが好きだけど、香取くんのおかげで頑張れたことも乗り越えられたこともたくさんあるから。どんなに辛くてもその時の自分を忘れたくないし、自分がやってきたことを忘れたくない。どんな失敗も辛いことも、覚えておけば次そうならないように気を付けよう、次は頑張ろう、次は違うやり方にしようってできるじゃん。忘れちゃったらまた同じことしちゃう気がする。だから私だったら消したくないかな。そのせいでみんなが恋の記憶を消したがってるのがよく分かんなかった」

「……そっか」


 夏なりの考え。それでいい。夏は夏の好きに感じればいい。


 『エターナル・サンシャイン』含め、映画というものは一人一人解釈も感想も考察も異なる。それが映画の醍醐味だと思っている。


 多くの人から賞賛されるような作品も、別の誰かからしたらこき下ろすほどの駄作だったりする。


 もちろん作品をまともに見ずに批判している場合は許せないが、作品を真剣に鑑賞しその上で得た感想であるなら俺はそれで構わないと思っている。


 それにその感想は、別の誰かからの考察を聞いて変わってきたり、しばらく時が経ってからもう一度同じ作品を見て急に印象が変わってくるものだ。映画はそこが魅力的だし、面白いところでもある。


「じゃあ返しに行くよ。DVDは? 家?」

「うん。私の部屋にある。今から取りに行くよ」

「いや、いいよ。俺が行く」

「え、ダメ!」

「なんで?」

「今部屋汚いから!」

「見慣れてるから大丈夫だよ」

「はぁ?」

「あぁごめんごめん。なんでもない」


 夏の拳が俺に向かってこないかが心配だったが、運よく夏の両手は肩から垂れたまま動いていなかった。


「じゃあ一緒に返しに行こう! 帰りアイス奢って」

「分かったよ」

「よし、じゃあまず下に降りよう! 連れてって!」

「は?」


 夏は椅子に座ったまま腕を広げ、足をバタつかせていた。そして小さく、「ん!」と子どものように鳴いた。


 小学生の時の姿と重なる。


 夏が歩くのが疲れた時、地べたに座り込んでこうしておんぶをせがまれた。地面に足をバタバタさせて、俺が背中を差し出すまで決して立とうとしない。そんなわがまま娘だった。


 図体だけが大きくなり、精神はまだ90年代に取り残されているのかもしれない。


「早く」

「……分かったよ。ほら」


 潔く、俺は夏に背中を向けてしゃがんだ。

 すぐに夏の腕が俺の首に回り、背中に重みがかかる。夏を背負うのはいつぶりだろう。


 寝起きでちゃんと立てるか不安だったが、「ふんっ」と脚に渾身の力を込めると、なんとか立ち上がることができた。でも腰やら肩やらが苦しく、できるものなら今すぐ下ろしたい。

 

 こいつ、今何キロあるんだろう……。


 思わず自分と夏の手首の太さを見比べてしまった。


「よし、しゅっぱーつ!」


 人の苦しみも知らないで、夏は嬉しそうに俺の背中ではしゃいでいる。夏はいつになったら大人になるのだろう。ずっとこのままなのだろうか。

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