2・3① 臨時アドバイザー

――2007年8月――


 天気予報によると、週末は晴天らしい。


 花火大会は雨天中止であり延期もないため、この時期は天気予報に皆注目する。もし予報が雨だったら夏が大暴れするだろうから晴れで良かった。



 安心したせいか、小腹が空いてしまった。俺は冷蔵庫にあった煮物の入ったタッパーを電子レンジに入れ、スイッチを押した。


 おばさんは時々作りすぎたおかずをこうして分けてくれるが、おばさんの料理はどれも美味しくて、俺も早人もお裾分けを日々楽しみにしている。


 レンジで温まったタッパーから、いい出汁の匂いが香ってきた。



 俺は美味しいものは箸が止まらなくなるタチで、大根や椎茸、ふきが入った煮物を3分もしないうちに完食してしまった。今回の煮物も出汁が良く染みていて、美味しかった。




 もうすぐ5時になる。


 この時間ならおばさんは家にいるはずだ。もしおばさんがいなくても最悪夏がいる。俺は適当にタッパーを洗い、それを返すために夏の家に向かうことにした。


 どうでもいい適当なサンダルを履き、外へ出る。夏の家に着くと、庭でおばさんが雑草の手入れをしていた。おばさんはすぐに俺に気付き、痛そうな腰を上げた。


「あれ? 勇ちゃんどうしたの?」

「前借りたタッパーを返そうと思って」

「あ、そうなの。わざわざありがとう。キッチンに適当に置いといていいから」

「分かった」


 俺はそのままウッドデッキからリビングに入ると、エアコンの涼しい風がふわっと漏れ出てきた。


 てっきり誰もいないと思っていたリビングには夏と早人がいた。早人はソファに座っていて、夏はテレビ前にあったテーブルをどかしたのか、ど真ん中で突っ立っていた。夏は部屋着なのになぜか編み込みにかんざしをしている。


 俺に気付いた夏の足元には、ピンク色の布や髪飾りのようなものが広がっていた。それもただの布ではなく、ピンク色の生地に赤い花が描かれているかわいい浴衣だ。


「……何してんの?」


 俺が足元を凝視していることに気付いたのか、夏は「ああ」と笑った。


「もうすぐ花火大会だから」

「は?」

「当日ぶっつけ本番は怖いから、着付けとか髪型とかメイクとか事前準備って感じ。何が似合うか検討中」


 マジか。女子ってすごいな。男子なら花火大会ごときに絶対こんなに準備しない。気合の入り方が段違いだ。


「早人は? そこで何してたの?」


 俺の言葉に、ただソファで眠たそうに座っていた早人がピクリと反応した。また寝癖で髪がボサボサだ。いい加減ちゃんと鏡を見て髪をセットするようになってほしい。


「俺? 俺はアドバイザー」

「は?」

「いや、急に連行されたんだよ。髪型とかアクセサリーとかいろいろ選びたいから付き合えって強制的に。もう拉致だよ、拉致」

「はぁ……大変だな」


 早人は強く断れないタイプだから、きっと強引な夏にまた押し通されたんだろう。なんか危険な匂いがする。早く退散したい。


 俺はキッチンにタッパーを置き、そそくさと家を出ようとした。すると夏が強い力で俺の腕を掴み、それを阻止した。


「え? な、なに?」

「あんたも見て」

「は?」

「意見ちょうだい」

「なんの?」

「浴衣に似合う帯の色とか、髪飾りとか、髪型とか。意見ちょうだいよ」

「え? 早人で十分でしょ」

「せっかくだから二人の意見聞きたい。意見は多ければ多いほどいいでしょ」

「えぇ? 俺これから宿題したいんだけど」

「今日じゃなくてもいいでしょ! ほら、座って見てて」


 そうして俺は早人の隣に座らせられ、夏の浴衣コーデの審査をする羽目になった。早人はもう一時間は付き合っているらしく、眠そうにしていた。


「ずっと見てんの?」

「そうだよ。こっちの髪飾りはどうか? こっちの髪型はどうか? こっちの色はどう思うか? ってずーっと聞かれてさ……参ったよ。髪のセットにあまりにも時間かかるからうっかり寝てたらさ、頭を簪で殴られたんだよ? 痛かったぁ……」


 かわいそうに。夏にうっかり捕まってしまったばっかりに。それだけ夏は今年の花火大会を楽しみにしているということなのかもしれないが、周囲を自分中心にどんどん巻き込んでいくところ、さすがは夏だ。


「なんで今年はそんなに熱入ってんの? 去年はそこまで気にしてなかっただろ」


 そう尋ねると、ヘアピンを咥えたまま髪をかしていた夏が振り返った。ヘアピンを素早く髪に刺し、夏はケータイを取り出した。


「これ見てよ!」


 夏に見せつけられたのは、mixiのコミュニティ画面だった。見慣れない画面いっぱいに並んでいるギラギラした文字に目がチカチカしてしまう。よく見ると、コミュニティ名が『香取くんの嫁♡』となっていた。


 なーにが嫁だ。まだ高校生のくせに。


 なによりも驚きなのは、そのコミュニティに1000人以上もいたということだ。全国に香取慎吾の嫁が1000人もいるのか? 一夫多妻どころの騒ぎではない。


「……これがどうかしたの?」


 早人もコミュニティ名に気付いたのか、呆れたような目で夏を見ていた。気持ちは分かる。


「こいつ! こいつ見てよ!」

「……は?」


 夏が指さすユーザー、『あぃな©☆』。この人がどうかしたのだろうか。よく見ると、浴衣姿の女性の写真があった。



『今日わ表参道でスタバ! フラペチーノまぢ美味しかったけど太っちゃうなぁ(+o+)~

ところで! ついこの前、花火大会に行ったんだけど、な、なんと!

会場に向かう途中、ロケ中だった香取ㇰンに遭遇しちゃったんですぅ( *´艸`)♡♡♡まぢ( ゚Д゚)ビックリッ!

話しかけに行ったら、サインをもらえちゃいました~♡♡(#^^#)

嬉しくて興奮してたら・・・「浴衣キレイですね」って言われちゃったのぉ!Σ(゚∀゚ノ)ノキャー

心臓止まるッッ!! 幸せすぎる!! もう私は一生香取ㇰンの嫁です♡

香取ㇰン、愛してますぅ♡』



 ……読むだけでキツい文章だったが、それよりもケータイを持つ夏の手が震えているのが何よりも恐ろしかった。このままケータイを逆パカするんじゃないだろうか。


「読んだ!?」


 夏の声が怒号に変わる。早人が小さく「ひっ」と鳴いた。


「よ、読んだ」


 そう答えると、夏は勢いよくケータイを閉じた。


「ほんと信じらんないこの女! 三十過ぎたババアのくせに! 香取くんに遭遇!? そんでもってサイン!? そんで『キレイですね』だって! ありえない!」


 夏の言葉に、ふと今香取慎吾が何歳だったか考えてしまった。


「なにがありえないんだよ。ファンサービス旺盛でいいじゃん」


 早人がそう言った瞬間、夏は早人の襟を思いきり掴んだ。あまりのスピードに、早人は今度はでかい声で「ひぃ!」と叫んだ。


「ありえないでしょ! 香取くんが三十過ぎた絵文字ぎゃんぎゃんオバサンに『キレイですね』だよ!? 私は香取くんに全然会えないのに、なんでこの女が楽々と会えてるわけ!? ライブも全然当たんなくて困ってるのに、なんでよりによってこんなオバサンがサインももらっちゃってんの!? ありえないでしょ!」


 ……なんとなく理解した。要は嫉妬に狂っているのだ。


 なかなか東京にも行けない田舎住みで、香取慎吾にもコンサートでもない限り会う機会はない。ましてやチケットも大人気アイドルということもあって全然当たらないのに、他のファンが香取慎吾に遭遇し、サインももらったからそれで気が狂ったんだろう。


 最近なんて、夏は5000組しか当たらないSMAPのイベントのために某清涼飲料水を箱買いしている。3本で一口応募できるらしく、今断水が起きても飲み物には困らないと確信できるほど買い貯めしている。それだけ夏はSMAP命なのだ。


「それで今年は気合入ってるのか?」

「だって悔しいんだもん! こんな若作りした変な文章書くような、気持ち悪いオバサンが……。そもそも無理やり若い文章書こうとしてるのがサムイし余計腹立つんだよね! 何このキモい文章! 社会人の書く文じゃないでしょ!」


 それは同意する。


「それにこいつ、めちゃくちゃライブ行ってるんだよ!? 毎回ライブ行ってるし、それに遠征もしてるんだよ!? なんでそんな当たるわけ!? 何人家族!? どんだけ入会してんの!? 私は全然チケット当たんなくて、お父さんにもお母さんにもファンクラ入ってもらってるのに、全然ライブ行けなくて苦労してんのに!」


 それは不憫だけど、仕方ないことだ。

 全国民が知っている大人気グループなんだからチケット争奪戦は凄まじいのだろうが、運の問題なんだからどうしようもない。


「それにこいつ、前から香取くんの嫁ぶって妄想ばっかして勘違い発言多くてムカつくやつだったの!」


 『嫁ぶって』?


 これは香取慎吾の嫁のコミュニティじゃなかったのか? なのに嫁ぶるのはダメなのか?

 アイドルファンの心理はこれだからさっぱり分からない。


「でもそれでなんでお前が浴衣に本気出すんだ? この人と関係あんの?」


 俺がそう言うと、夏はゆっくりと早人の首から手を離した。早人は安心した様子で「ふーっ」と息を吐いていた。夏は俯きながらも、静かに答えた。


「もしかしたら香取くんが地方ロケとかで来るかもしれないし? たまたま浴衣姿で遭遇することだって考えられるし? だからいつ香取くんに遭遇しても恥ずかしくない格好でいたいの! それに絶対このババアよりかわいくならないとなんか負けた気がして嫌! だから選ぶの付き合ってってば!」


 バカか。


 こんな何もない田舎にダーツの旅でもない限りタレントが来るわけがない。それもジャニーズの大人気タレントがピンポイントで花火大会の日に来るわけがない。


 というかそんな東京の三十過ぎた香取ファンに張り合うために付き合えと言われても……。


 そもそも鏡すら見ないほどファッションセンスもなければ興味もない早人と、中坊の俺では全く参考になる意見は言えないと思うが、夏はそれでいいのだろうか。


「わ、分かったからさっさとやれよ。似合う似合わないくらいは言うから、早く」


 早人が首を背もたれに乗せ、天井を仰ぎながらそう言った。長時間付き合わされてぐったりしているようで、目を閉じてしまっていた。


「そうだね。でもちゃんと思ったこと言ってよ?」

「分かったよ」


 早人はひたすら天井を向いて目を閉じている。このまま寝てしまいそうだ。


 夏は大量に並べられている口紅を吟味し始めた。「こっちとこっち、どっちがいい?」と聞いてくるが、さっぱり色の違いが分からない。


 俺もいっそ、天井を見ようかな……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る