2・3② かわいいよ
夏がウキウキと床に並んでいる髪飾りやアクセサリーを吟味している。そんな姿が奥の真っ黒なテレビ画面に反射していた。
テレビ横の窓の奥には、庭いじりをしているおばさん。エアコンの出す風の音が微かに聞こえる。早人は天井向いたまま目を閉じている。
「夏」
「なにー?」
「友達とは現地集合なのか?」
「あー、舞? 駅で待ち合わせ」
「何時くらい?」
「3時」
「え、早くね? 花火7時からだろ?」
「だって場所取りしないと。早めに行っていい感じの場所をキープしたいの。去年ギリギリに行ってちゃんと花火見られなかったから、今年は早めに集合することにした」
「なるほどね」
「勇人は? 何時に行くの?」
「決めてない」
「え、大丈夫なの? 絶対混むよ? 早めに出たほうがいいんじゃないの?」
「まぁそうかもだけど……俺はちょっと見られればいいから、そんなに早くは行かないかも。別に見る場所にはこだわらないし」
「ふーん」
夏は軽くピンク色の浴衣を服の上から羽織った。あくまで試し、といったところだろうか。適当に朱色の帯を結び、形を少し整える。その夏の手が、床に転がっていた桜のイヤリングに伸びた。
夏なのに、桜?
そう思ったのも束の間、イヤリングを持った手が耳に移った。桜で華やかに咲いた。
「ねえ、これどう思う?」
夏が桜を揺らしながらこちらを向く。その笑顔が目に入った刹那、何も見えなくなった。
視界が真白に染まり、先ほどまでそこにあったはずの黒いテレビ画面も、窓の景色も、エアコンの音すら何も俺には届かなかった。
見えたのは、ただ夏だけ。
夏の耳で桜の花がゆらゆらと揺れる。夏が耳にかかった髪をかき上げた時に顔を見せた首筋のほくろ。
そのすべてがスローモーションとなって飛び込んできた。
「え……」
思わず漏れた声。
いつの間にか真白な世界は元に戻り、テレビも窓も目の前のそこにあった。聞こえなかったはずの風の音も、しっかりと頭上で鳴っていた。
やばい。疲れているのかもしれない。もしくは暑さで頭がいかれたのか。
なんとか気を確かにしようと瞬きを激しくすると、夏が顔の前まで迫っていた。
「どうって聞いてるでしょ」
そんなこと聞かれても、顔が近くて頭が働かない。このまま口を開いたら、ポロっと言葉が零れてしまう。必死にせき止めていたものが飛び出してしまう。絶対にそんなことはできない。言えない。
別の、何かちょうどいい言葉が出てくればいいのに心臓が騒がしいせいで頭が回らない。言えない言葉がずっと喉元で留まってしまっている。
ずっと黙っているせいか、夏の眉間に皺が寄っていく。もういいや。何発か殴ってもらったほうが頭が冴えるかもしれない……。
「かわいいよ」
答えたのは、俺ではなかった。
夏が目を大きくして俺の横を凝視している。そこには天井を仰いでいたはずの早人が、真っ直ぐ夏を見つめて笑っていた。
「……え?」
意外な言葉に、夏は激しく動揺しているようだった。険しかったその目つきが泳ぎ始めている。
『目は口ほどに物を言う』という言葉が、唐突に蘇る。夏へと向けられたその目は、確実に何かを帯びていた。
「似合ってるよ。いいと思う」
じっと目を見つめ続ける早人の視線に耐えられなかったのか、夏は目を逸らし恥ずかしそうに後ろに下がった。
「なに急に。お兄ちゃん、私のことバカにしてる?」
「してないよ。どうって聞くから答えただけじゃん」
「……変なの」
夏の表情が困惑に変わる。恥ずかしそうにテレビ前に戻り、桜のイヤリングを取り外した。頬が桜色に染まっている。
その様子がおかしいのか、早人は微笑んでいた。激しい鼓動が、痛みへと変わっていく。
「……あ、分かった。適当に答えて早く終わらせようとしてるんでしょ?」
夏が早人を睨む。早人は心外だったようで、「へっ」と目を見開いた。
「サイテー。こっちは真剣に悩んでるのに、テキトーに済まそうとしやがって」
「ち、違うって」
「うそ。お兄ちゃんがそんなこと言うわけないもん。からかってるか、テキトーに言ってるかのどっちかだもん」
「違うって!」
あらぬ疑いをかけられ早人は必死に弁解をしようとしているが、夏には何も届かないようだ。
「もう知らない! 帰って! 私が自分で決めるからいい! 二人してバカにしてるんでしょ!」
夏が手元にあったものをこちらに向かって投げてきた。なんで俺まで……。
すぐに顔に何かが正面衝突し、「うわっふ!」と変な声を出してしまった。硬いそれは、簪だった。なんてやつだ。人に向かってこんなものを投げるなんて。
「帰って! バカ兄弟!」
夏に髪を引っ張られ殴られ、俺たちは追い出される形で家を後にした。
家に着いても体が痛いのか、早人は「いたた……」と背中をさすりながらトボトボと階段を上り始めた。確か早人は背中を肘打ちされていたような。
俺も部屋に行こうと思っていたのに、階段の前で足が止まった。
「……あれ? 勇人は部屋行かないの?」
「あ……録画してたエンタ見たいから」
「ふーん」
早人はそのまま階段を上り、部屋に入っていった。
どうしてそんなことを咄嗟に言ったのだろう。どうして逃げるようにリビングへ向かっているのだろう。
でも今、どうしても早人の顔が見たくない。一緒の空間にいたくない。早人の顔をまともに見たら、何かが壊れそうな気がする。
デッキにビデオを入れる。再生すると、エンタが始まった。
にしおかすみこ、桜塚やっくん、パペットマペット、小梅太夫、陣内智則……。
画面から流れてくるしょうもない、それでも緻密に練り上げられているネタ。いつもなら笑えていたはずのそれが、見ていてイライラする。ニヤリとも笑えない。
早人の目が頭から離れない。俺が口が裂けても言えなかった一言を、あんなに簡単に言えてしまうその瞳に恐怖すら感じてしまった。
俺には言えない言葉も、俺にはできない行動もあいつは必ず先にやってのけてしまう。
でもそれは、あいつができてしまうことを俺が何一つできていないということだ。くだらないプライドで固められたこの性根が何もかも阻害している。それがどうしようもなく情けなく、憎たらしいんだと思う。
♢
「俺、もう行くわ!」
早人が黒いリュックを必死に背負い、寝癖だらけの髪を振り乱しながら玄関へ走って行く。
昼間からバタバタとうるさいやつだ。一応、見送ろうか。
リビングから顔を出し、玄関にいる早人の背中を覗いた。
「バイト頑張れー」
「ありがと。帰り夏の迎え頼まれてるから遅くなるかも。あ、でも勇人はあまり遅くなるなよ? まだ中学生なんだから早く帰らないと補導されるぞ?」
「あーもー分かってるよ。バイト遅れるぞ? さっさと行けよ」
「うん。行ってきます」
早人はこちらを一瞬だけ振り返ると、すぐに外へ消えていった。
眩しい太陽が瞳孔を刺激する。ほんのわずかなドアの隙間からの光でもその暑さがひしひしと伝わってくる。
こんな暑い昼間に、チャリを爆走してバイトに行くなんて凄いやつだ。
リビングに顔を戻すと、ばあちゃんが
『今日も暑いですねえ』
『そうですね。お出かけ日和ですが、皆さん水分はこまめにとりましょう。熱中症対策はくれぐれもお忘れなく』
天気を伝えるリポーターの声。
「今日も暑そうだねぇ」
「……そうだね」
「こんな日は花火がよく見えるだろうねぇ。楽しんで来るんだよ?」
8月25日。今日は一年ぶりに、この町の空に花火が咲く日だ。年に一度のこのイベントに、皆が心躍っているのを感じる。夏も今きっと浮かれながら髪のセットでもしているんだろう。
もし俺が夏を誘っていたら、何か変わっていただろうか。夏はどう反応しただろう。今更考えてもどうしようもないけど。
「いってきまーす!」
声が聞こえたのは昼過ぎ。窓の外を見ると、ピンク色の浴衣を着た夏がバス停へ向かっていた。慣れない下駄のせいか、ちょこまか歩いている。
風が吹いたその時、夏の耳元で桜がふわっと揺れた。
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