3・6③ 缶コーヒーの熱

 吉田沙保里が金メダルを獲得したその日から、夏は俺を避けるようになった。


 家に行っても俺を見るなり部屋に逃げてしまうし、部屋に行っても鍵をかけてしまい絶対に入れてくれない。電話もメールも全て無視される。部屋のカーテンは昼夜問わず閉められていて、情報の一切を遮断する強い意志が窺えた。


 あまりに露骨な夏の態度に、おじさんは「夫婦喧嘩でもしたか?」なんて冗談めかして言ってきたけど、正直笑い事ではない。


 原因は分かっているし、100パーセント俺のせいだし、夏が怒るのは当然のことだ。だからこそ反省してるし謝りたいが、夏はその機会すら与えてくれない。このままでは一生口をきいてもらえないかもしれない。


 ただでさえ勇人に無視されているのに、夏にまで避けられては耐えられそうにない。なんとかしなくては。





「……と。おい、早人! 聞いてんのか!」

「えっ」


 冷房の効いた休憩室。目の前では、テツさんが缶コーヒーを飲みながら俺を心配そうに見つめていた。汗のせいか、テツさんの髪全体がぺしゃんこだった。


「何か考え事でもしてたのか?」

「あ、いえ……なにも」


 慌ただしい昼のピークが過ぎ去った後のコーヒータイム。テツさんはいつもこの時間はパートさんにフロアを任せ、缶コーヒーを奢ってくれる。

 世間話から厄介な客の話までテツさんとはなんでも話しているが、この時間のおかげで親密になれた気がする。


「相変わらずボケッとしてんなぁ。大丈夫か? 受験勉強で疲れてんのか?」

「あ……大丈夫です。平気です」

「そうか。でももしキツかったらシフト減らしていいからな? 人生かかってるんだからさ、バイトもほどほどに勉強に集中しろよ」

「ありがとうございます」

「それにお前また花火大会の日シフト入れてただろ? ったく、懲りねえやつだな」


 そうか。もう花火の時期か。特に意識せずにシフトを組んでしまった。またあの地獄を味わうことになるのか。今度こそいつでも気を失えるように圧力鍋をスタンバイしておかなければ。


「お前、国立大目指すんだっけ?」

「え、あ、はい。一応その予定でした」


 反射的に答えたせいか過去形になってしまった。


「国立大のどこだ?」

「えっと、理系の国立大をとにかく狙おうかと思ってました」


 またもや過去形。


「理系の国立を片っ端から受けるのか? お前日本に国立大がどんだけあると思ってんだよ」

「いや、多少は絞りますけど……複数は受けるんじゃないですか、ね」


 自分の話なのに、なぜか他人事のように語っている。受験生という自分の状況をイマイチ受け入れられていないのか、緊張感がないのか、実感がないのか。中身も芯も何もない、空っぽな状態だからなのか。


「そんなんでいいのか?」

「え?」

「志望校ってそんな曖昧でいいのか? もっと明確に定めたほうがいいんじゃねえのか?」


 いつになく真剣に語るテツさんの姿。動揺からか、口呼吸した時にひゅっと音が鳴った。テツさんは汗で湿った頭を何度か掻くと、うんざりしたような声で呟いた。


「大学は中学高校と違って嫌なほど金がかかる。お前も分かってると思うけど」


 もちろん分かっている。何度パンフレット片手に電卓を打ったことか。もう少し安く済むのではないかといろんなやり方で何度も計算し直すほど、目の前の金額に絶望していた。


「だからさ、どうせ大金払うなら本気で行きたいとこにしろよ。受かったとこならどこでもいいじゃなくてさ。そりゃ家庭の事情ってもんがあるだろうから、希望する大学や学部に入れなくて最終的に受かったとこに行くしかないってことはあると思う。でも最初からどこでもいいっていうのは違うんじゃないか? 適当な気持ちで行くほど大学は安くねぇぞ。親御さんはお前のために必死こいて働いてくれてるんだろ? だったら真剣に選べよ。胸張って行けるような、金払っても惜しくないと思えるような大学に行けよ。じゃないと後悔するぞ」


 テツさんのかつてないほど熱い眼差しに、俺は咄嗟に俯いていた。大人であり、社会人であり、父親でもあるテツさんの言葉のすべてが正論で、自分の不甲斐無さと幼さを直視されて痛かったのだ。

 人生は選択で成り立っていて、その選択には責任が伴う。無責任な選択は後悔と苦労を生む。当たり前のことなのに、何も見えていなかった。


「……人には人の事情があるだろうから、俺がとやかく言えるようなもんじゃねぇけどさ。まだ時間はあるんだから少しは考えろよ。本気で悩んで、本気で選んだんならどんな道でもいいんだ」


 テツさんの優しい言葉が逆に体を突き刺すものを持っていた。鋭利なそれで刺され、じんわりと痛みが全身に広がっていく。


「まあ俺は人に口出せるような人間じゃないけどな」

「……そうですか?」

「そうだよ。俺が18、19くらいの時はバカばっかりやってた。親に迷惑しかかけてなかったし、特に目標もなくダラダラ過ごしてたよ」


 テツさんの若い頃。はっきり想像できたわけではないけど、俺とは真逆な路線を走っていそうな気はする。


「10代のテツさんは、どんな人だったんですか?」


 特攻服を着ていたとか言われたらどうしよう。自分で聞いたくせに、知りたくない気持ちも芽生えてきた。

 俺の不安をよそに、テツさんは必死に思い出そうと頭を捻っていた。


「んーあの頃は、周りに反抗してばっかだったなあ。反抗することがカッコいいとか考えてたんだろうな。思い出すだけで気持ち悪くなってくる」

「そんなに荒れてたんですか?」

「まあな。あ、あと尾崎に憧れてたな。あのカリスマ性は凄まじかった。俺の周りもみんな尾崎尾崎言ってたし、俺自身も尾崎みたいになりたくてバイクの免許取ったな」


 テツさんがツーリングの趣味があったのを思い出す。休暇を利用しては、全国各地を仲間と巡り、お土産を持ってきてくれていた。最近は名古屋まで行っていた気がする。

 テツさんのバイク人生は尾崎豊で始まったわけか。夏を見ていても思うけど、アーティストの影響はバカにならない。


「それでさ、若気の至りってやつで、真夜中に先輩のバイクに乗せてもらって海に向かって走ったことがあるんだよ。寒い夜だった。年末だったかなぁ……」


 バイクで走り出す……。そんな歌詞が尾崎にあったような。何の曲だっけ。


「え、まさか盗んだバイクじゃないですよね?」

「バカ。当たり前だろ。ちゃんと先輩のバイクを借りたよ」


 よかった。安心した。さすがにそこまで尾崎に忠実ではなかったようだ。


「でもめちゃくちゃ若いですね。衝動的っていうか。なんで急にそんなことしたんですか?」

「あれだよ、ちょっとした抵抗ってやつだよ」


 テツさんは恥ずかしそうに笑った。


「あの時は高校卒業して適当に働いてたけど、やりたくもない仕事で上司に怒鳴られてクタクタになってさ、自然と何のために働いてるのか分からなくなった。でも自分でも何がしたいのか、何をしたらいいのか分からなくて、どうしようもなく情けなくなってさ。そんな時尾崎の『15の夜』を聴いたんだよ」


 テツさんが少しだけ遠い目をした。

 そうか。『15の夜』か。ちゃんと聴いたことはなかったけど、サビだけ知っていた。


「それを聴いてたらなんか涙が出てきてさ。なんで泣いてんのか分からなかったけど、でもどうにか感情を爆発させたくなって。そんで、高校で世話になってた先輩に夜な夜な電話したら、深夜なのに先輩が『海行こう』って言ってきてさ。びっくりしたけど、追い詰められてたせいか俺はすぐに先輩と海に向かってバイクで走った。どこの海なのか、海に行って何をするのかなんにも決めてなかったのに、ただ暗い夜道を先輩と走り続けてたんだよ。でもその時だけは、自由になれた気がした。いろーんなしがらみから、解放されたような。でもさ、そんなもんは自由じゃないんだよな。ただの現実逃避なだけでさ」


 マンガのようなエピソード。テツさんらしい衝撃的な行動に、思わず笑ってしまった。

 それに『15の夜』の世界観を描いたような行動をテツさんは見事に達成していたのだ。立派なファンだ。


「で、どうでした? 海は綺麗でしたか?」

「いや、結局海は行かなかった」

「え?」

「途中で断念したんだよ。寒すぎて無理だった」


 恥ずかしそうに顎を擦るテツさんは、どこか少年のようだった。


「それで結局、深夜のサービスエリアで先輩と二人で缶コーヒー飲んで夜を明かすことになった。俺は海に行く程度の簡単なことすらできなかったのが悔しくなって、また泣いたんだよ。今考えると情緒不安定すぎだよな。でも先輩はそんな俺を見て、『これも一興だよな』なんて言うからさ、なんかもう笑っちまって」


 テツさんの握る缶コーヒーが目に入る。テツさんにしっかり握られているそれが、なんだかとっても小さく見えた。


「でもこの夜があったから、なんとかここまで生きてこれたんだろうな。もしあの時先輩から『海に行こう』って言われなかったら、今の仕事も結婚もしてなかった気がする。ずーっと自分の環境に文句ばっかり言って卑屈になって終わってた気がする。根拠もないし、うまく説明もできないけど、こういう意味のない行動がガス抜きになったりするんだろうな」

「そうなんですね……」


 冬の夜のちょっとした逃避行。ほんの数時間の出来事が人生を変えてしまう強烈なインパクトがあったわけか。平坦な日常しか過ごしていない俺からすると、ちょっと羨ましい。


 照れ隠しからか、テツさんは缶コーヒーをぐびぐびと飲んでいた。

 俺もテツさんに奢ってもらった缶コーヒーを飲んだ。「微糖」と書かれている通り、ほぼブラックに近い苦みの強いものだった。苦みの奥に、ほんのり砂糖の甘みも感じられた気がしたが、そんなものは舌に残らないまま一瞬で喉の奥へ消えていった。


「お前も尾崎になりたかったらいつでも言えよ」

「え?」


 訳の分からない言葉に、テツさんを二度見してしまった。テツさんは俺の反応が可笑しかったのか、歯を見せて微笑んでいた。


「いつでも連れ出してやるよ。海でも山でも。バイクの後ろに乗せて」

「そんな、いいですよ。バイク怖いですもん」

「つまんねえやつだなあ」


 テツさんは笑いながら空になった缶コーヒーをくしゃりと握り潰した。


「休憩終わるぞ。行こう」

「は、はい」


 急いで缶に残っていたコーヒーを飲み干す。飲み終えてもしばらく、その苦みだけが舌に残っていた。

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