3・6② 12年ぶりの
約1時間、ずっとSMAPのライブDVDを見続けている。
当然夏が静かに鑑賞しているわけもなく、SMAPについてDVDと関係ないことまで延々と語り続けていた。
俺はただただ「へー」「そうなんだ」「知らなかった」「意外だなぁ」の4パターンの相槌を繰り返しただけだったが、反応されるだけで満足したのか、夏は随分と楽しそうに話し続けていた。
SMAPをひたすら語られるのは疲れるけど、夏の満面の笑みを見てしまうと、なんだか疲れなんてどうでも良くなってきた。はしゃいでいる夏をずっと見ていられるなら、好きなだけ語ってくれと思ってしまったのだ。
「SMAPに何回救われたかわかんないなぁ」
言いたいことをある程度吐き出しきった夏が唐突に、そんなことを言いだした。
「え? そんなに救われてんの?」
何気なく反応したが、夏は前のめりになって俺を睨んだ。
「当たり前でしょ? 辛いことがあっても、SMAPがいたから頑張れたんだよ?」
「は、はぁ……」
「勉強とか部活がきつくても、来週新曲が出るんだ、来月からドラマ始まるんだって思えば、それまで頑張ろうって思えるじゃん。それに毎日曲聞いてるだけで元気が出るし、写真を見るだけで癒される。SMAPは希望をずっと与えてくれる元気の源だよ。ある意味生きる理由だね」
生きる理由。突然壮大な話になって苦笑してしまったが、その反面、夏の言葉に概ね賛同できてしまっていた。
「確かにそうかもな……」
小学生の時、勇人と一緒によく遊戯王やポケモンのアニメを見ていたけど、毎週それが楽しみで放送日には必ず早く家に帰っていた。ハリーポッターの映画の公開が決まった時は、その日が待ち遠しくて仕方なかった。勇人も毎週週刊少年ジャンプを買うのが日々の楽しみだと言っていた。
きっと、アイドルはその強化版なんだろう。
夏の机の上が視界に入る。
プロフ帳や『恋空』、『君に届け』などが散乱している机。棚はSMAPのCDで埋め尽くされていて、香取慎吾の生写真やポストカード、キーホルダーなどが飾られている。
代わり映えのしない平凡な日常に彩をもたらす存在。何であれ、その人にとってはかけがえのない大切なものなのだ。夏はSMAPに救われ、支えられながら辛く厳しい日々を耐え抜いているのかもしれない。
壁に貼られた香取慎吾の顔をじっと眺めていると、それまで騒がしく流れていた音楽が、急に静かになった。
DVDプレーヤーに目を移すと、画面に映ったライブ会場は暗くなり、しっとりとした空気感になっていた。バラードでも始まるのだろうか。そう思っていると、すぐに聞き覚えのある曲が流れてきた。
「あ、この曲……」
「私が世界で一番好きな曲」
「……知ってるよ」
何十回も何百回も夏に聞かされて、素晴らしさを何度も語られたせいで嫌というほど知っている。歌詞だって、当然全部覚えている。
夏がこの世で一番好きな曲。何回聞いたんだろう。何回夏がこの曲を歌っているのを見たんだろう。
SMAPの曲をずっと聞かされるのは大変だったけど、夏が歌っているのを見るのは好きだった。必死に歌っている夏がどこか可愛くて、ずっと見ていられた。歌っているだけではなく、その曲に合わせて感情を込めて一生懸命に歌う。そんな夏を見るのが楽しかった。
初めてこの曲を聞いた時の、夏の顔は今でも忘れられない。今から8年くらい前だ。まだ小学生だったし、愛だの恋だの何も知らない子供だった。
それなのに夏は聞いた瞬間、涙を流しながら「私、この曲が世界で一番好き」と言ったのだ。
「……夏はさ、好きな人とかいないの?」
脈略もなく尋ねたせいか、夏は目を大きくして俺の方を向いた。
「え? なに急に」
「なんとなく」
夏がゆっくりと画面の方に顔を動かす。マイクを握り懸命に歌うSMAPを、儚げに見つめる。
「……いないよ。恋とかよく分かんないし、興味ない。香取くんさえいれば充分」
さらっと吐き出された言葉は、恥じらいも誤魔化しも微塵も含まれていない、ただの真実だった。
夏らしいなと思う反面、いつかこの幼い信念が覆る日が来るのかと思うと、つい憂いてしまう。
「でももし結婚するなら、旦那さんになる人にはこの曲を歌ってもらいたいな」
部屋に響き渡るSMAPの歌声。音の波に乗るように、夏の声が耳に入った。
「……え? なんで?」
「だって聞くだけで泣きそうになるくらい好きな曲だし、とにかく歌詞がすごく素敵だもん。好きな人にこんなこと言われたら幸せだなあっていうのが詰まってるじゃん」
想像した。
夏の結婚式。夏と、夏の隣に立つ夫。それに参列している自分。何年後の話だって思うけど、それでもきっと、訪れる未来だ。
その頃俺は何をしているだろう。どんな生活をしているだろう。何者になっているのだろう。
でも今いくらそれを考えたって、それはただの想像でしかない。無理やり思考を停止させると、ちょうど曲が終わり、次の曲のイントロが始まった。
「そろそろ行こう。決勝始まっちゃうから」
「えー、もうちょっとSMAP見たい」
「じゃあ俺は先行ってるから、夏は後で降りて来いよ」
立ち上がり、散らかっている夏の私物を避けるように歩く。ドアの目の前に立った時、夏が叫んだ。
「え、待ってよ! 先行かないでよ!」
夏が弾丸のように俺を追いかけ、走って来た。こんな散らかってる部屋で走るなんて危ないのに。
案の定、夏が何かチラシのようなものを踏んだ。拍子で夏の足はバナナを踏んだかのように綺麗に滑り、身体がぐらんと不安定な弧を描いた。夏が倒れていくのがスローモーションのように映った。俺は自然と駆け出し、その身体に腕を伸ばしていた。
「きゃあああ!」
「うっ……」
悲鳴と呻き声がほぼ同時に響く。背中と腰に固いものが当たったような痛みとともに、内臓に重みが一気に押しかかる。背中と頭が痛い。お腹も苦しい。吐きそうだ。
状況が理解できたのは、目を開けてからだった。ほぼ無意識にこの状態になっていた。
俺は夏の背中に手を伸ばし、自分の方に引き寄せた。夏を抱いたまま、背中から倒れた。夏は腕の中にすっぽり収まっていて、俺の体の上にいる。夏の頭が俺の右肩に乗っていた。
「夏、大丈夫?」
呼びかけて、夏もようやく目を開けた。俺の顔を凝視している。
「お兄ちゃんも大丈夫?」
夏はすぐに体を動かし、起き上がろうとした。それを見て、咄嗟に夏の背中に回していた右腕に力が入った。左手で夏の頭を押さえた。
「え、お兄ちゃん!? なに? どうしたの?」
夏の鼓動が伝わってくる。俺の心臓の動きと同じように響いていて、一定のリズムを刻んでいる。夏の重みと、背中の痛みで体中が痺れる。
「離してよ。どうしたの? なんなの?」
夏が暴れるたび、腕に力を込めていた。本気で抱きしめないと夏には負けてしまうだろうと思っていたけど、案外夏は俺の腕から逃れることはなく、情けなくジタバタ動くだけだった。自分の腕力に自信がなかったけれど、凶暴な夏を抱きしめることくらいはできるようで、少し安心した。最低限の筋力はあるみたいだ。
「ちょっと、なんか言ってよ」
相当動揺しているようで、夏の鼓動が俺の体まで強く響いた。速く、強く動いている。
髪を撫でると、夏が怯えたように体を震わせた。指の間を夏の髪がさらりとすり抜けていく。
「夏」
「な、なに……? お兄ちゃんどうしたの? 重いでしょ? 早く離してよ……」
「昔ここでしたこと覚えてる?」
「え?」
夏のリズムが俺の胸部に響く。二つの鼓動が、共鳴したように重なる。徐々に早まっているそのリズムに合わせて、血が全身に巡っていく。顔が、体が熱い。全身が沸騰してしまいそうなほど、熱くてたまらない。
「……やっぱ、なんでもない」
すっと腕の硬直が緩む。夏は俺の拘束から逃れると、すぐに起き上がった。怒られるだろうな。何発かは殴られるだろうな。どんな言葉で罵られるんだろう。
ある程度の覚悟はしていたけど、杞憂だった。
「お兄ちゃんどうしたの? なんかあった? 悩みでもあるの?」
意外にも、夏は心配そうに俺を見ているだけで、拳を振るうことはしなかった。俺の突発的で訳の分からない行動への不安が勝っていたようだ。
「起きな」と言いながら、夏は俺の腕を掴み、強制的に上半身だけ起こさせた。倒れた時に頭も打ってしまったせいなのか、ボーっとする。
夏は膝をついて顔を目の前まで近づけ、真っ直ぐ俺の瞳を捉えた。
「疲れてるの? バイト休んだら? 勉強で忙しいんでしょ? 受験生なんだから無理したらダメだよ? ちゃんと寝てる?」
逸らせないほど強烈な視線。でもその目はどことなく不安気で、震えているようだった。鼻先が触れてしまいそうなほどの距離に夏がいる。
目を合わせているだけなのに、やけに心臓がうるさい。汗をかいていないはずなのに、身体が熱い。全身に帯びた熱のせいで、頭が働かない。
「お兄ちゃん聞いてる? ねえ、ほんとに大丈夫? 具合悪いの? さっき転んだ時に頭でも打ったの?」
俺の背中を、誰かがそっと押した気がした。
倒すように顔を前へ動かすと、簡単に触れることができた。全身に静電気のような刺激が走る。痺れた脳が鼓動を加速させる。次第に夏の熱がじんわりと伝わり、俺の体温と混ざっていく。
その感触に、猛烈に懐かしい古い記憶が蘇った。
涙が出そうなほど、たまらなく帰りたくなるほど輝いていたあの頃の記憶。眩しくて、身体が震えるほど求めている日々。懐かしく、どこか落ち着く空気を纏ったその日々が嵐のように駆け巡っていく。
12年前の自分も、今と同じことをした。何も考えず身体が勝手に動いていた。あの時の夏はただ茫然として俺を受け入れていたけれど、何を考えていたんだろう。12年前の俺も、何を思ってこんなことをしたんだろう。
そういえばあの時、勇人が部屋に来たんだっけ……。
「早人! 夏! 降りてこい! 吉田沙保里が勝ったぞ! これから決勝だ! 早くしろ! 金メダルがかかってるんだぞ!」
ドアのずっと奥。リビングから響く、聞き慣れた低音。家中を轟かせるほどの声で、急速に引き戻されてしまった。触れていた唇が離れた。
真っ暗だった視界に光が差し、夏の顔が見えた。酷く紅潮していて泣きそうな顔だった。
まずい。やらかした。
そう思ってもすでに遅く、夏は口を擦る仕草をしながら勢いよく立ち上がり、これ以上ないほどの鋭い瞳で俺を睨んだ。くるりと体を捻らせてたと思ったら、夏の脚が飛び出してきた。
「ぐえっ」
内臓に走る衝撃。一つくらい臓器が潰れてしまってもおかしくないほど、凄まじいものだった。
「何考えてんの!? 信じらんない!」
胃が、腹が、……とにかく内臓が痛い。強烈な吐き気に、俺はその場に再び倒れてしまった。夏はそんな俺を気にすることなく、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
夏の足音と連動するように、脇腹の痛みがじんじんと広がっていく。咳き込みながら脇腹をさすっていると、目から涙が出ているのに気が付いた。
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