3・6① 拳による強行

――2008年8月――


 北京オリンピックが始まって8日。


 夏休み前からも日本は相当盛り上がっていて、スーパーに行けばオリンピックコラボ標品が大量に陳列されており、CMもオリンピック関連ばかり、テレビを点ければ連日オリンピック情報が常に流れていた。


 今日はなんとレスリングの試合がある。日本中の関心は二連覇がかかっている吉田沙保里に集中していた。


 おじさんはレスリングの決勝が始まるまで落ち着かないようで、テレビの前でずっとウロウロしていた。俺も中継をソファで眺めながら、吉田沙保里の試合を待ち構えていた。


「それでね、聞いてよ! そこで香取くんがつよぽんとさあ……ってあれ? ねえ! お兄ちゃん! 聞いてるの?」


 テレビを眺めていたはずなのに、視界が一気に夏で埋め尽くされた。……苦しい。息ができない。喉に餅を詰まらせたように、呼吸がうまくいかない。


 俺の首から夏の手が生えている。いや、違う。夏が俺の首を掴んでいる。

 夏は俺の首を持って、強制的にテレビから顔を逸らさせ、自分の方に向けたのだ。なんという力技。今すぐIOCに直談判してレスリングの試合に飛び入り参加させた方がいいかもしれない。


「ちゃんと話を聞け!」

「な、つ、くるしい……」


 ギブアップだ、というように夏の手を叩くと、やっとその手を放してくれた。途端に酸素が体内に渡る。


「話聞いてた?」

「えっと、なんだっけ。『ぷっ』すまだっけ?」

「はあ!? 違うよ! 全然話聞いてないの!? 最低!」


 夏の剛腕が俺の腹部に集中攻撃する。筋肉に直接痛みが響き、思わず悶えてしまう。


「あがっ! 夏! 痛いって! やめろよ! 話聞くから!」

「うるさい! 聞き流してたくせに! 謝ったって許さないから!」


 かれこれ1時間くらいSMAPの話を一方的にされているのに、少しでも気を抜いたらこれだ。すぐに殴る夏の癖は昔から一切直らない。SMAPの話を延々としてくるところも変わっていない。


 拳だけでは飽き足らず、夏はソファにあったクッションで殴り始めた。何発目かに脳天にそれが直撃し、バランスを崩した俺はソファから転落してしまっていた。弾みで机に肩が直撃し、派手な音が鳴った。


「てめえらさっきからうるせえんだよ! オリンピック見る気がないなら上行け! 試合中べちゃくちゃ喋ったらただじゃおかねえからな!」


 床に転落した俺を睨みながらおじさんは叫んだ。どうして俺が怒られるんだ。


 夏に殴られる、俺が叫ぶ、おじさんの怒号が飛ぶ。もう何十回繰り返したか分からないやりとり。もう殴られるのもおじさんに怒鳴られるのも慣れてしまったけど、やっぱりいい気分にはならない。


「もういい! 部屋行こうお兄ちゃん」


 夏が俺の腕を力強く掴む。なんと夏は部屋でSMAP語りを続行するつもりらしい。


 正気か? オリンピックだぞ? これから吉田沙保里の試合だぞ? 金メダルとるかもしれないのに、歴史的瞬間を見届けなくていいのか?


「俺、吉田沙保里見たいんだけど」

「は? 文句あるわけ?」


 夏が握っているところから、激しい痛みが走った。テニス部で鍛えられた握力は伊達じゃない。痛すぎて折れてしまいそうだ。SMAPを語られるのも嫌だけど、こんなことで腕を犠牲にする方がもっと嫌だ。


「いいえ、何でもありません」


 俺に選択権はない。夏に従うしかないのだ。

 抵抗しようとする足を何とか動かし、ドアへと向かう。夏がウキウキしているのが逆に見ていて辛い。


「お前、よくこいつの話に付き合ってられるな」


 リビングを出ようとしたところで、おじさんが呆れた様子で呟いた。


「……俺に拒否権はないんで」


 気力なく答えると、夏の瞳が鋭く睨んだ。やばい。本当に腕を折られる前に早く行かなければ。

 足を動かそうとした俺を引き止めるかのように、おじさんが続けた。


「じゃあ、いっそこいつを嫁にもらってくれないか?」


 出た。おじさんの常套句。これまで何回おじさんに夏との結婚を勧められただろう。もう数えきれない。忘れた頃に言ってくる。


「はあ!? ジジイまたお兄ちゃんにそんな話するの!? ほんとにやめて!」

「なっ、ジジイとはなんだ!」

「事実でしょ!」


 このやりとりを諫めるのももう疲れた。おじさんも何回も言わなくてもいいし、夏も毎回そんなに怒らなくてもいいのに。


「はいはい、夏落ち着いて。早く行こう」


 この場を逃れたい。夏の腕を掴み、廊下へ促した。夏は怒りつつも一応俺に従ってくれ、力強い足取りで階段を上って行った。本当、世話が焼ける親子だ。



 部屋に入ると、床に雑誌や服が散乱していた。


 夏は掃除や片付けができない。出したものは出しっ放し、元あった場所に戻さない。いつも部屋が散らかっている。たまにおばさんが掃除をして綺麗にしているが、綺麗な状態はもって三日だ。すぐに汚くなる。


 何をどうしたらそんなに散乱するんだと問いただしたくなるくらい酷い。でも夏は忘れ物をしたり物を無くすことはない。それが不思議なところだ。夏曰く「必ず部屋のどこかにあるのは分かっているから根性で見つけ出せる」らしい。


「夏、もう少し片づけたら? 香取くんが泣いてるぞ」


 四方八方香取慎吾やSMAPのポスターが貼られている。もうなんというか、香取慎吾に監視されているみたいで落ち着かない。ファンだったら普通なのかもしれないが、俺のようなファンでも何でもないやつにとっては恐怖でしかない。


「お兄ちゃんには関係ないでしょ」

「そうだな……」


 とりあえず荷物が散乱していないベッドに腰掛けると、夏もすぐに横に座ってきた。


「あーコンサート行きたいなあ! 今年はコンサートやらないのかなぁ……次こそはチケット取りたいのに……」


 夏の顔が歪む。それもそうだろう。何回チャレンジしてもチケットがなかなか取れないのだから。


 ジャニーズというのは、ファンクラブ会員でもなかなかチケットが取れないものらしい。

 夏がファンクラブに入ったのは中学生になってからだが、驚くほどチケットが取れないせいで大暴れしていた。その結果、おじさんたちもいつの間にか会員になっていた。

 夏の根性にドン引きしてしまったが、家族に頼んで会員になってもらうのは割とジャニーズあるあるだというから尚更驚きだ。こんな風に音楽業界の経済は回っているのだろう。


「あ! お兄ちゃんもファンクラブ入ればいいんだ!」

「は、はあ!?」

「お兄ちゃんもファンクラブ入ればチケットその分申し込めるからさ! ね? お兄ちゃんも会員になろうよ!」

「え、えええ? 無理だよ!」

「なんでよ! お金はこっちが負担するから! ね? お願い!」

「バカ! そんなことに金を使うな! もう3人分の年会費払ってるんだろ!? もったいないだろ! てか金払ってんのおじさんだろ! おじさんが汗水垂らして稼いだ金をこれ以上消費するなよ!」

「そんなことって何よ!」


 夏のグーパンチが胸板にヒットした。相変わらず手加減無しの本気の拳で、耐え切れずベッドに倒れてしまった。夏はすぐそこにあった枕を掴み、思いきり振り上げた。


「私がこんなに行きたいって言ってるのに! 協力してくれたっていいじゃん! お兄ちゃんのバカ! 酷い!」


 ボフボフと枕で俺をひたすら殴る夏。枕だからか拳に比べてしまえば大して痛くないが、威力は十分だった。


「な、夏! ちょ、やめろよ!」

「やだ! ファンクラブ入るって言うまで止めない!」


 暴力で強制加入させようとするなんてマルチ勧誘よりタチが悪い。こんな感じで暴れておじさんたちも入会したんだろうな……。


「あーもー! 分かった! チケット取るの協力する! 電話かけるの手伝ってやるから! 今度もしライブがあったら俺も電話するの協力してやるから! な!」

「……ほんとに?」

「ほんとに。学校とか授業とか休んでまでも協力する。クラスのやつらにも頼むから。もしファンクラブ落ちても、一般で取れるように助けるから、な、いいだろ?」

「……分かった」


 納得したのか、ようやく収まった。本当に疲れた。夏はSMAPのことになると理性が無くなるから困る。


 夏の暴挙が終わり安堵したのも束の間、夏が満面の笑みで振り向いた。


「じゃあ、ライブDVD、一緒に見よう」

「え?」

「SMAPのライブ映像、一緒に見ようよ。決勝までまだちょっと時間あるでしょ?」

「なんでそうなる!?」


 夏の視線が勉強机に向いている。その先にはポータブルDVDプレーヤー。次第に鳥肌が立っていく。ダメだ。全身が拒否している。


「遠慮する」

「なんでよ」

「俺はいい。夏だけで楽みな」

「はあ!? つまんない人。少しは見てみなさいよ! いかにカッコいいか分かるはずだって!」

「レスリング始まっちゃう」

「まだ決勝は始まらないでしょ! ね? いいでしょ?」


 夏が懇願の目で俺を見つめる。


 どうしよう。でももしイエスと言ってしまったら、SMAPの曲を聞かされるだけではなく、もれなく夏の狂気じみた実況解説が始まってしまう。聞いてもいないことを一方的に熱く語られてしまう。

 無視してもノーリアクションでもダメで、必ず相槌を打たなければならない。ただの拷問だ。


「いや、でもさ……」


 否定しようとした瞬間、夏の目が蛇のように吊り上がった。その手が、ほんの少し動いたのが見えた。やばい。二本しかない腕が、一本犠牲になってしまう。


「……分かった! 見よう。見るから、頼むからもう動くな」

「素直でよろしい」


 蛇の目が、薄っすらと笑みを帯びた。

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