3・5③ 蘇るあの夏
結果だけを言うと、濡れた。想像の100倍くらいは。ずぶ濡れといったほうが正しいかもしれない。
ケチって合羽を買わなかったわけではなく、ちゃんと着ていた。それなのに降りしきる水を防ぎきれなかったのだ。
運悪くシャチが俺たちの目の前で飛び出し、大きな水飛沫を上げた時。土砂降りのような飛沫が俺たちの頭上に降り、あまりの勢いに大量の水が合羽の隙間から侵入してきたのだ。合羽の効果は「ないよりはマシ」程度で、ほとんど機能していなかった。
どれぐらい濡れたかというと、余裕で服が変色するくらい。特に上半身。せっかくセットした髪もぺしゃんこだ。こんなの聞いてない。
イルカショーが終わって、俺たちは濡れた服のまま水族館を出た。途端に自然の驚異が肌を襲ってきた。眩しくてうまく目が開けられない。じりじりとした太陽で、皮膚が焼けるようだった。
炎天下の中このまま突っ立っているわけにもいかず、俺たちは駅に向かって歩き出した。
「勇人、ごめんね。結構濡れたね……」
「いいよ。今日暑いし、すぐ乾くだろ」
「……そうだね」
凪咲の表情が暗い。申し訳ないと思っているのだろうか。
「ちょうどいいよ。これで暑さ凌げるじゃん。無料で涼めて逆にラッキーだわ」
「……なにそれ」
大袈裟に大きな声を出したからか、凪咲が控えめに笑った。
ホームで数分待つと、すぐに電車はやってきた。電車に乗ると、冷房の気持ちのいい冷気が歓迎してくれた。ただ、服に染みた水が冷えてちょっと寒い。
凪咲はずっと暗い表情だった。そんなに申し訳ないと思っているのだろうか。
確かにびっくりしたけど、いざ濡れてみると人生のうちの一つの経験として楽しめた。だからそんなに気にしなくていいんだけど、凪咲は優しすぎて深刻に考えすぎるのかもしれない。
「……勇人」
「ん?」
「勇人の文化祭っていつ?」
「10月の4と5」
「発表はいつ? 軽音部の」
「4日」
「じゃあ、4日に行ってもいい?」
「……なんで聞くの。普通に来てよ。むしろ来てほしい。時間空けとくから一緒に回れるところ回ろう」
「うん。楽しみにしておくね」
凪咲がようやく明るく微笑んでくれた。俺も笑って、凪咲の手を握った。手の熱が伝わる。凪咲の匂いが髪から冷気に乗って届く。女の子らしい、甘くてほんのり鼻の奥に残る匂いだ。
♢
凪咲の家に着くと、電気が点いていなかった。ご両親は今日も仕事でいないらしい。
イルカショーで濡れた体を洗うため、シャワーを浴びることになった。
あまり凪咲を待たせたくなくて、シャワーを5分で終わらせ、すぐに髪を乾かした。リビングに行くと凪咲は髪を櫛で梳いていたところだった。
「え、もう終わったの? 早くない?」
「……男は早いんだよ」
「そういうもんなのかなあ」
「そういうもんだよ」
「……じゃあ、私も軽く入るから勇人は先に部屋に行ってて」
「分かった」
二階にある凪咲の部屋に行くと、綺麗に整頓された勉強机が目に入った。教科書や辞書が教科ごとに丁寧に並べられている。
荒れまくっている俺とは大違いだ。そもそも俺の机には勉強関連の本なんてほとんどない。単語帳も、パラパラ漫画を描いて終わったし。
机の上に広げられている教科書や問題集。じっくりと見なくても分かるほど、カス高とは全く違う。
凪咲は偏差値の高い私立の高校に通っている。一貫校で、エスカレーター式でそのまま大学進学できるらしい。凪咲は恐らくそのまま内部進学するんだろう。
高校入学後、凪咲の学校のテスト内容をこっそり盗み見たことが何回かある。テスト勉強を一緒にこの部屋でしたこともあった。
その中で、俺がいかに頭が悪いのか、カス高がいかにカスなのか嫌でも自覚させられた。バカな俺でも分かるくらい明確な差だった。凪咲のノートを見ても教科書を見ても、全然分からない。
俺がバカなせいもあるけど、これが進学校と平凡校の違いなんだと思い知らされた。同い年なのに全く別の世界を見ているようだった。
適当に就職しようとか、どこでもいいから大学入ろうという考え方の人間が集まるカス高とは何もかも違うのだ。
上にいる人間はどんどん先へ行くからこそ、大きな差が生まれていくのだろう。
早人だってこの世界を見られたはずだ。
いや、早人ならもっと違う世界にいただろう。カス高みたいなどこにでもある高校じゃなくて、もっとレベルの高いやつらと肩を並べて、精鋭の教師陣の下で質の良い教育を受けられたはずだ。
やっぱり早人は進学校に行くべきだったと思う。今更そんなことを言っても意味ないけど。
「お待たせ」
凪咲が部屋着姿で立っていた。ガラス製の小さなコップをお盆にのせて持っている。
凪咲は机にお茶を置くと、ベッドに座った。俺もコップの中のお茶を一気飲みすると、凪咲の隣に座った。部屋から、ベッドから、髪から、凪咲の匂いがする。
「勇人」
「ん?」
「今年も花火大会一緒に行こうね。今年は23日らしいよ」
自分の心臓が一回だけ、えぐられるような重みを伴って動いた。
花火大会。思い出したくない嫌な記憶。あの時の花火の音が、屋台の匂いが、あいつの顔が、今でも脳の奥にしっかりと残っている。
「……そうだな。一緒に行こう」
でも、過去の話だ。上書きすればいい。凪咲がいればきっと大丈夫。戻らなくて済むはずだ。凪咲さえいれば、俺はあそこに戻らない。
笑っていると、自然と顔が近づいた。そのまま唇が重なる。
キスの時、凪咲はいつも緊張したような顔をする。でも唇を離した時には、うっとりとした色気のある目に変わっている。その目を見ると、自分も雰囲気に酔ってしまいそうになる。
凪咲の背中に手を回すと、凪咲も同じように抱きしめてくれた。ゆっくりと重心がベッドに向かって落ちていく。俺は凪咲の背中を片手で支えながら、彼女をそっと押し倒した。二人の体重でベッドが軋む。
「今日、親は何時に帰ってくる?」
「……多分、8時くらいだと思う」
腕時計の針は、6時を指していた。
「じゃあ……いい?」
俺のその言葉に、凪咲は恥ずかしそうに、それでも色っぽく頷いた。
少しだけ乱暴にキスをする。舌をねじこむように入れると、凪咲は尻込みして体を捩った。俺は細い肩を支えて、彼女が逃げるのを防いだ。
服の下に手を入れると、凪咲の体から温もりが伝わってくる。凪咲は目をぎゅっと瞑り、俺の手を受け入れた。
背中に手を回し探ると、すぐにそれはあった。凪咲はちょっと体を浮かせて、俺のやりやすいようにしてくれた。そんな気遣いが愛おしかった。昔はよくこれに手こずっていたが、今回はすんなり外れた。
そこからはスムーズだった。俺たちはいつのまにか何も身に着けていない状態になってキスを続けていた。
何も着ていないからこそ、全身の肌から彼女の温度がダイレクトに感じられる。そっと白い肌を撫でると、鳥肌が立っているのが分かった。
「寒い?」
「……ううん、大丈夫」
鎖骨から胸に向かってなぞるように口付けると、凪咲が全身に力を入れた。恥ずかしそうに目を閉じていて、リンゴのように顔が赤い。
体の火照りが冷めないうちに、床に落ちていた長財布からゴムを探した。入れていた場所を覚えていたから、それはすぐ見つかるはずだ。
「財布に入れるのはやめてって前も言ったのに……」
「あ、ごめん」
財布を持った手が震えた。疲れていたのか何なのか、突然視界が歪んだ。長財布が手から零れ落ち、ガラスが飛び散るかのように、中身が派手に舞ってしまった。
「え!? 大丈夫?」
「……ごめん。今拾うから」
雰囲気が台無しだ。ムードもクソもない。
とりあえず枕元にゴムを置いて、落ちたものを拾う。
小銭が大して散乱しなかっただけマシかもしれないが、全裸のまま床に散らばっている野口や諭吉、レシートを拾うというなんともダサい状態になってしまった。
振り返らないまま散らばったものを拾い、財布にしまう。ある程度拾ったところで、一枚、ベッドの下の方に何かが落ちているのが見えた。白く細長い紙。レシートのような形。
手を伸ばして取ると、レシートとは思えないほどの厚みと固い感触。なんだろう。何かのチケットだろうか。白いそれを裏返し、確認する。
一瞬で、それが何なのか理解できた。
今一番見たくないもの。すっかり存在を忘れていたのにどうして今になって出てくるんだろう。
これだけで、あの埃臭い匂いが蘇ってくる。筋肉の痛みを思い出してしまう。全力で、無邪気で、何もかもが楽しかったあの頃が押し寄せてきてしまう。
離れたいのに、忘れたいのに、どうして俺はこんなにはっきりと覚えているんだろう。どうして思い出したりなんかするんだろう。
目が開いていない俺と、早人。一人だけ完璧な決め顔をしている夏。汚い字で書かれた、『マヌケ』『ヘンタイ』の文字。
三人で、ただただ夢中になって遊んだ去年の夏休み。
小さなスペースで撮ったプリクラ。和室で並んで雑魚寝した畳の匂い。夏と手を繋いでいた早人。
「勇人? どうしたの?」
「……なんでもない」
おもむろにそれを財布にしまうと、俺は凪咲に向き合った。
捨てよう。早く捨ててしまおう。帰ったら必ず捨てる。大丈夫。俺はもう、大丈夫……。
「あれ……なんで……」
ぶら下がっているそれが、すっかり萎えてしまっている。動揺で額に汗が滲む。
焦れば焦るほど、あの光景が、あの日の記憶が、長い年月が反芻してしまう。
何とかしなきゃいけない。何とかしなきゃいけなかった。なのに、それはくたびれたままピクリとも機能してくれなかった。
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