3・4③ 遅すぎたからこそ

 耳を疑った。聞き直そうかと思った。だって、今なんて……?


 ばあちゃんは俯きながらも、小さく微笑んだ。長い年月を生き抜いたことを象徴している口角の皺が、ゆっくりと動く。そして何かを決意したかのように俺を見据えた。


「もともと、わたしは他に好きな人がいたの。酒屋の人でね、大人びてて優しくて、本気で結婚したいと思ってた。でもその人が親の紹介で見合いした人と結婚することになった。わたしは一日中泣いたよ。苦しくて苦しくて、もう何もかもどうでもよくなった。それからわたしも見合いをすることになったんだけど、もう誰でもよくなってしまって……親の言う通りに結婚した。その時の相手がじいちゃんなの」


 声が出ない。一ミリも動けない。何も言えないまま、ただ呼吸をしていることしかできなかった。


「わたしはあの人を愛していなかったけど、あの人も同じだった。結婚したいと思っていた女がいたの。駆け落ちしようとしたところを親に止められて、無理やりわたしと結婚させられたらしいの。だからわたしのことが嫌いだったのよ。あの人は真面目に仕事していたけれど、毎日飲み歩いてばかりで月に2回帰ってくればいいほどだった。家に最低限の金しか入れてくれなくて、ギリギリの毎日だった。わたしに金をやるのがそんなに嫌なのかって、あの人を心底憎んだよ。このままじゃ祥子の学費もまともに払えないと思って、わたしは工場で働くようになった」

「……な、なんで別れなかったの?」


 ようやく口にできたのは、それだけだった。回らない呂律と、明らかな語尾の震えが情けなかった。


「昔は子持ちの女がまともに稼げる時代でもなくてね。それにわたしは高校も行かせてもらえなかったから……あの人の家と、あの人がくれるお金も手放したらとても生活できなかった。祥子のことを考えたら、別れたくても別れられなかったのよ」


 にわかには信じられなかった。ばあちゃんの口から出たのは、想像の真逆の姿。寄り添い支え合い穏やかに過ごしていたとばかり思っていた。

 初めて知る話ばかりで戸惑いが隠せない。


「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあなんでずっと律義に墓参りして、ちゃんと手入れして、じいちゃんのこと気にかけているんだよ? 本当に嫌いならそんなこと普通はしないんじゃないの? どうして大嫌いな人の墓なんか掃除するんだよ? なんで仏壇の前で写真なんか眺めたりしてんの? 何のため?」


 ばあちゃんは今でも時々部屋でじいちゃんの写真を一人で眺めている。その場に遭遇したことが何度もあるけど、あの時の目は絶対に恨みや憎しみを帯びていなかった。むしろ慈しんでいるようだった。とても恨みを抱えている目には見えなかった。


 だからこそ俺は、ばあちゃんたちが仲睦まじい夫婦だと思ったんだ。


「……祥子が高校生になった時、あの人が急に倒れたの。末期の胃がんだった。即入院することになって、それでわたしが何年もかけて貯めた金が消えてしまったの。本当に悔しかったよ。何のために貯めたと思っているんだと、あの人を更に憎んだ。祥子のための金があの人のせいで消えてしまうなんて、悔しくて悔しくて毎日泣いてしまった。だから見舞いなんかしてやらなかった。金だけ払って、弱っていくあの人を放って、仕事をした。月に数回しか病院には寄らなかった。それにあの人が一日中、狭い病室で誰も見舞いに来てもらえないまま寂しく過ごしてるのかと思ったら、少し気が楽になったの」


 ばあちゃんがふふ、と微笑む。それは感情の行方が分からず、意味もなく笑っているようだった。


「そうして一年が経って、気が付いたらあの人の体重が半分になっていた。医者から『気持ちの整理を』だなんて言われた。なのにわたしは『やっと死んでくれるのか』なんて思ってしまったの。ちっとも悲しくなんかなかった。むしろ安らかに死んでほしくなかったから、死ぬ前に恨み言でも言ってやろうと思って病室に向かったの。今までの恨みをありったけぶつけて、あの世で後悔し続ければいいと思って。それなのに久々にあの人の顔を見に行ったら、チューブだらけで骨と皮だけの酷い有様で寝ていたの。あまりの痛々しい姿に、何も言えなくなっちゃってね……」


 風鈴が、そよ風を教えてくれた。その音はどこか泣いているようでいつまでも耳に残った。


「久々に女房が来たってのに、世話も何もしてやらなかったのに、あの人は何も文句を言わなかった。それどころか『今まですまなかった』って小さく言ってくれたんだよ。声を出すのも辛かっただろうに……。それから、『寝室の戸棚に通帳があるから、祥子に渡してほしい』とだけ言って、ぽっくり死んでしまった。急いで確認したら、祥子の学費に充てるには十分すぎる額のお金が入ってた。あの人はずっと祥子のために家にも帰らず仕事をして、静かに金を貯めてたんだよ。だから最低限の金しか渡してくれなかったの。バカよね。金を自由に使えなくて逆に苦労したってのに。あの人なりに家族のことを考えていたんだろうけど、むしろ腹が立ったよ。ちゃんと言ってくれればわたしだって金のやりくりを上手くしたのにって。貯金なんて二人で協力していればもっと楽にできたのにって。……でもあの人のおかげで、祥子は看護学校に行けた」


 ばあちゃんはしばらく何も言わなかった。


 俺は待った。ばあちゃんが発する言葉を、じっと待ち続けた。俯くばあちゃんが、ふと俺の顔を一瞥すると、か細い声でゆっくりと話し始めた。


「『男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く』って言うけどね、確かにあの人が死んでから楽になった。ゆっくり眠れるようになったし、自分にお金を使えるようになって。でもね、あの人は幸せだったのかなって考えるようになったの。それにわたし、あの人が何が好きだったのか、どんなことを考えていたのか全く知らないの。ただ一方的に憎んでいたけど、冷静に考えればあの人だってわたしと同じように苦しんでいたはずなんだよ。無理やり好きでもないわたしと結婚させられて。家に帰らずお金を稼いでいたことも、あの人なりの努力だったんだろうね」


 写真で見たじいちゃんの顔が蘇る。その写真を寂しそうに、悲しそうに見つめるばあちゃんの姿も。


「でもすべてすれ違ってた。あの人の努力はわたしには負担だった。わたしはもっと家族で過ごす時間が欲しかったの。家族三人で仲良く平凡に過ごせればそれで充分だった。でもわたしはそれを言わなかった。伝えようともしなかった。わたしも努力が足りなかったんだよ。生きているうちにもっと話をすればよかったの。お互いを憎んで避けるようになる前に、やれることはいくらでもあったはずなんだよ。正直に胸の内を曝け出していたら、もっと幸せになれたと思う。でもいくらそう思っても、あの人はもういない。あまりにも遅すぎた。いなくなってから気付いたんだよ」


 そうだ。ばあちゃんはいつも悲しそうに写真を見ていた。微笑みながらも、時々どこか申し訳なさそうに、贖罪のように祈っていたんだ。


「だから、せめて死んでからはできることは何でもするようにしているの。愛してはいなかったけど、最期までかわいそうな人だったから……。今まで何もしなかった分、なんでもやろうと思って。それで毎日話しかけてるの」


 冷たい風が頬になびく。血管の浮き出たばあちゃんの手が、ほんの少し震えている。


「なんで急に話してくれたの? ずっと黙ってたのに、どうして今になって教えてくれたの?」

「……知りたがっていたから。それにもう早人も大人だからね。早人ならちゃんと分かってくれると思って」


 「大人」。周りがそう言っても、実感がない。いつの間にか年をとっていただけで、大人になった実感はないし、数年前の自分と今の自分がどう違うのかも分からない。


 人はいつから、どのようなタイミングで、何を根拠に「大人」になったと認識するのだろう。ある年数を生きたら自然と「大人」になるんだろうか。では「子ども」との境界線はどこにあるのだろう。


 なんとなく、俺はまだ「大人」の定義に当てはまる人間になれていない気がする。


「あの人のこと、嫌いになった?」

「え、なんで?」

「こんな話したからね。墓参りが嫌になるんじゃないかと思って。もし嫌になったんなら、無理にしなくてもいい。仏壇の前に座らなくてもいい。早人に任せるよ」


 ずっと秘密にしていた理由。


 それはきっとじいちゃんのためだったんだろう。ばあちゃんは俺のためでも自分のためでもなく、じいちゃんのために言わなかったのだ。


「ばあちゃん」

「なに?」

「人生をやり直せるとしたら、じいちゃんと結婚する?」

「なんでそんなこと聞くの」

「なんとなく」


 ばあちゃんは一瞬考えた素振りを見せたが、はっきりと言い切った。


「そりゃするよ。だってあの人と結婚しなきゃ、祥子にも早人たちにも会えないじゃないの」


 喉が震える。黙っている俺に、ばあちゃんは優しく笑った。


「そろそろ帰ろうか」

「……うん」


 席を立つ。机に裏返しに置かれた黒い伝票。

 ざるそば850円、天ぷらそば1000円。計1850円。いつも通りの値段。


 おいしかった。また来よう。

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