3・4② 想像のその先

「しゅーちしーん……」


 自室で一人、腕を回し呪文のように『羞恥心』を歌う。……いや、歌ってない。ほぼ朗読のようにブツブツ言ってるだけだ。やる気のなさが声量に表れている。


 木田の家から帰宅してからも一応個人練習をしているが、義務感だけが心を繋ぎ止めている。あと、全校生徒の前で恥をかきたくないという危機感もあるか。


 約3分間の曲だが、フルの振り付けどころかサビだけでも覚えられない。自分のセンスのなさに改めて絶望する。


 そもそも高3にもなって何をしているんだろう。冷静に考えれば考えるほど、部屋に鳴り響く『羞恥心』が胸を苦しめる。


 昔だったら勇人に助けてもらえたかもしれない。あいつはいつも俺が困っていると何かと手を貸してくれたから。

 二重跳びの練習とか、クロールの仕方とかも全て勇人から教わった。勇人は面倒くさがることなく、俺ができるようになるまでずっと付き合ってくれたのだ。


 一番強烈だったのは俺が中3だった時。三送会で披露するダンスの練習をこの部屋で行った。あの日も勇人の熱血指導を受けた。





――2005年3月――


「早人! 違う! また間違えただろ! やり直し! 『愛愛愛愛』のとこからもう一回!」

「ゆ、勇人、休ませて。もう無理……」

「ダメだ! そんな暇ない! このままじゃ本番に間に合わないぞ!」

「無理だよ! そもそもなんで見送られる側の3年が『ペコリナイト』なんてハードな曲踊るんだ!? 頭おかしいようちの学校!」

「ホームルームで決まったことなんだろ? 仕方ないだろ。練習するしかない」

「そんなこと言われたって……なんで勇人はそんなにすぐ踊れるんだ?」

「俺は飲み込みが早いからな。とにかく、本番悪目立ちしたくなかったら練習しろ。サビまで覚えられるまで今日は寝かせないからな」

「……鬼! 鬼だ! 鬼畜! 鬼教官! 鬼指導!」

「文句言う元気あるなら踊ろう。はい、立て。早く立てって!」

「い、いやだあああ!」






 中学生でゴリエを踊るなんて今思い出してもイカれた学校だったなと思う。それでも勇人は俺以上に必死になって指導してくれた。わざわざ俺のためにダンスを覚えて、一つ一つ教えてくれたのだ。


 あれからもう3年。


 あの頃はずっと仲良し兄弟であり続けると思ってた。でも今は思い描いていた未来とずっと遠いところにいる。まともに会話していないどころか、目も合わせてくれないのだ。


 思い通りにいかないのが普通で、予想外の展開が起こるのが人生の醍醐味なのだとしたら、これから先何が起こるんだろう。もうこれ以上過酷な状況にはなってしくない。


「しゅーちしん……」


 惰性で腕を上げた瞬間、ドアが開く音と共に男が部屋に入ってきた。男といっても、そんなのは一人しかいない。


「お、お帰り」

「……ただいま」


 部活帰りなのだろう、制服姿だった。勇人はドアの前で謎に腕を上げて突っ立っている俺に眉をひそめていた。それでも何かを察したのか、俺を避けて静かに席に座った。


 俺たちの沈黙を誤魔化すように、『羞恥心』が鳴り響く。


 やかましく『羞恥心』が流れ、部屋のど真ん中で俺が踊っているというのに、勇人は一ミリも気にしていないようだ。


「ご、ごめんな。うるさくて。ちょっと練習してるけど気にしないで」


 話しかけても、勇人は黙って机に楽譜を広げていた。恐らくバンドの曲なんだろう。俺は『羞恥心』、勇人はバンド。えらい違いだ。

 

 『羞恥心』がこだまする部屋で俺は一人、木田に教わった振り付けを覚えている限り再現していくことしかできなかった。じんわりと汗が背中に伝っていくのが分かるくらい、俺は壁に向かってダンスを披露する。虚しいし情けないし恥ずかしいが、心を無にして踊るしかない。


 勇人にどう思われようが、勇人がどれほど俺に背を向けようが、やるしかないのだ。



 勇人は変わらず楽譜だけを見ていた。


 兄が狂ったように踊っているというのに、勇人はまるで俺が存在していないように眉一つ動かない。徹底的に俺を認識しないようにしているようだ。


 まるで、空気になった気分だ。







「これで全部だよね?」


 確認のために和室に行くと、ばあちゃんは長袖に長ズボン、つばの長い帽子を被っていた。農家のおばちゃんがよく使っているやつだ。


「あ、暑くないの……?」

「早人、ビールは持った?」

「あ、入れた入れた。おはぎも持ったし、線香もマッチもあるよ」

「スポンジは?」

「スポンジもタオルも洗剤も全部持ったよ」

「じゃあ大丈夫。行こうか」


 ばあちゃんは完全防備のまま、ワゴンアールの鍵を持って外へ出てしまった。よっぽど日焼けと蚊に刺されるのが嫌なのかもしれないが、俺には無理だ。見てるだけで暑い。



 助手席に乗ると、すぐに車は出発した。


 窓から田んぼ道が見えた。それがすぐに林に変わり、山に変わる。

 20分ほど車に乗っていると、霊園に到着した。車に積んでおいた荷物を持ち、墓地の中を歩く。


 山の中にあるせいで傾斜が多い。ばあちゃんは今こそ平気そうにすいすい歩いているけど、あと数年したら膝も悪くなって来れなくなるかもしれない。

 ばあちゃんがもし墓参りができなくなったら、俺がその分行かなきゃな。



 5分ほど歩くと墓前に着いた。前に供えた花はとっくに枯れていて、周りに雑草が生えている。少し来なかっただけでこうなるなんて、雑草の生命力には毎回うんざりさせられる。


「水汲んでくるよ」

「分かった。俺が掃除しておくから、ばあちゃんは戻ったら休んでね」

「ありがとう」


 軍手をはめて雑草を抜く。茎を握ってみると結構根が深いことが分かった。でもここで面倒くさがってはいけない。雑草除去において、根っこまでちゃんと抜くことが一番重要だ。葉っぱだけむしってもすぐ生えてくるから意味がない。


 名前も分からない雑草を力の限り抜くと、根っことともに土がひょっこりと顔を出した。


 あらかた雑草を抜き終え、ばあちゃんが汲んできた水を墓石にかける。墓は土や苔で汚れていた。このままではじいちゃんがかわいそうだ。


 持ってきた洗剤をかけ、スポンジで墓を磨く。スポンジで擦ると茶色い泡が地面に垂れていった。


「蚊が多いから気を付けてね」

「気を付けてって言われても……両手泡だらけなのにどうにもできないよ」

「線香点けちゃおうか」


 ばあちゃんは持ってきていた線香を取り出すと、それに火を点けた。細い煙が糸のように空に伸びていく。


 ばあちゃんはおもむろに、掃除をしている俺の周りで線香を振り回し始めた。蚊から俺を守ろうとしてくれているんだろうけど、これじゃまるでお清めをされているみたいだ。それに灰が散って降ってこないか怖い。


「ばあちゃん、やりにくいよ。それに危ない。いいから座ってな」

「蚊に刺されちゃうよ」

「虫よけスプレーしてきたから平気だよ」

「……なんでそれを早く言わないのさ」

「ごめん」


 掃除が終わり、水で洗い流すとすっかり墓石は綺麗になった。


「よかったねえ。孫に掃除してもらえて。じいちゃん喜んでるよ。きっと気持ちいい気持ちいいって言ってるよ」

「だといいね」


 じいちゃんは俺が生まれるとっくの昔に亡くなった。母さんがまだ高校生の時だったそうだ。


 写真と、ばあちゃんから聞いた話だけが俺の知るじいちゃんの全てだ。話といっても、「思い出すと悲しくなるから」という理由でばあちゃんはあまり教えてくれないのだけど。



 持ってきた缶ビールを開け、おはぎとともに墓前に供える。線香の煙が缶ビールを包むようにゆらりと揺れた。


 手を合わせ、祈る。


 祈る内容なんて特に考えてなかったけど、来られなかった母さんと勇人の分もしっかりじいちゃんに話しかけた。じいちゃんがもし今も生きていたら、俺のことをどう思っていただろう。俺とどんな話をしてくれたんだろう。想像しては消えていく。


 それなりに言いたいことは言って、祈りたいことは祈ってから目を開いたのに、ばあちゃんはまだ目を閉じて何かを祈っていた。


 恒例の光景だ。ばあちゃんは誰よりもじっくり時間をかけて手を合わせる。墓参りの時はもちろん、家の仏壇に毎朝話しかけているし、じいちゃんの命日には一時間くらい仏壇の前から動かない。


 きっとすごく仲良しだったんだろうな。きっとすごい温かい夫婦だったんだろうな。亡くなってからもこんなに想われているじいちゃんに会ってみたかった。話をしてみたかった。


「そろそろ行こうか。暗くなるし」


 いつの間にかばあちゃんは目を開け、ビールとおはぎを片付けていた。さっとビールを墓前に撒くと、車へ向かって歩いて行ってしまった。俺も慌てて荷物を持って墓前を離れた。





 蕎麦屋に入ると、週末だからかいつもより混雑していた。それでもスムーズに席に案内してもらえて、一番奥のソファ席に座ることができた。


 俺たちはメニューを見ることなく、店員が水を持ってきたタイミングで注文した。ばあちゃんはざるそば、俺は天ぷらそば。いつも通りだ。


 墓参りの帰りは必ず同じ蕎麦屋に寄る。理由は分からないけれど、習慣になっているから今更変えようとは思わない。

 それに墓参りの時にしか来ないこの蕎麦屋の味が個人的に好きで、この蕎麦を食べないと落ち着かないのだ。この蕎麦屋の出汁を嗅いだ時に、やっと墓参りが終わったのだと認識できるような気がする。





 蕎麦を完食した頃には外はすっかり暗くなっていて、エアコンが要らないくらい、涼しい風が吹いていた。


「早人、今回もありがとう。毎回掃除してもらってごめんね。でもどうしてもお盆になる前にお墓を綺麗にしておきたかったから……」

「いいんだよ。ばあちゃんだけじゃ大変でしょ」


 水が少しだけ入ったガラスのコップから、結露が雫となって机に滴り落ちた。注ぎ足そうと、机上に置かれていた魔法瓶から水をコップに注ぐ。コップの底で居眠りしていた氷が水面に惹かれるように浮かんでいった。


「ばあちゃんって、全然じいちゃんの話をしないよね」

「……話すようなことが無いからね」


 ばあちゃんは水を一口飲むと、溜息を吐いた。

 本心なのか照れ隠しなのか、それとも悲しくなってくるから抑えているのか、ばあちゃんは真顔だった。このままでは話を逸らされそうな気がして、口が動いた。


「ばあちゃんたちって、どんだけ仲良かったの?」

「え?」


 意外にも、ばあちゃんの表情が困惑に変わった。てっきり恥ずかしそうにはぐらかされると思ったのに。


「あ、ほら、いつもじっくり手を合わせるし、墓参りだって欠かさないし、じいちゃんの命日には仏壇の前から動かないだろ。心底じいちゃんのこと愛してたんだなって思ってさ」


 弁解のように、ばあちゃんの困惑の表情を和らげるように、意識的に話していた。でもどうしてこんな気遣いをしなければならないのだろう。身内の話をしているだけなのに。


「そう見えたの?」


 ばあちゃんの表情はますます深刻なものへと変わった。戸惑いというよりかは、怯えているような顔色。どこかおかしい。


「え? うん。だからすごく羨ましかったよ? ばあちゃんがそれだけ愛したじいちゃんはどんな人なんだろう、会ってみたいなって何回も思ってたよ」


 店の扉が開き、若い夫婦が店に入ってくる。外の風に揺られて風鈴の音が店に響く。店員さんが隣のテーブルに鴨せいろそばを運ぶ。


 なんとなく、指でコップの中に浮かんでいた埃をとると、小さなコップの中で氷がカラカラと鳴った。


「そうかあ。早人にはそう見えたのね」

「俺だけじゃないよ。勇人も多分そう思ってるよ」

「そう……」


 沈黙に変わった。


 妙な空気感。おかしい。想像と違う。なんかまずいことを言ってしまったような、地雷を踏んだような感覚。 



「わたしはね、あの人が大嫌いだったんだよ」

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