3・4① たった一人の兄弟
――2008年7月――
羅列した0にこれほどまで絶望したことはないかもしれない。入学金と年間授業料。卒業までにかかる費用がこれほどまでとは。
上京するとなると、生活費や毎月の家賃もかかる。ただでさえ関東の家賃は世間知らずな田舎者を絶望させるほど高いのに、更に敷金や礼金なども必要になる。
引っ越し費用だって、ここから東京までの距離なら安くはないだろう。それから家具家電も買わなければならない。奨学金を借りるにしても一体いくら借りればいいのだろう。
そもそも受験するだけでも受験料、交通費、ホテル代も必要だ。出願する大学が多ければ多いほどその費用は膨らむ。それに勇人も進学するなら……。
もう電卓を打つことができなかった。計算しなくても分かるほど気が遠くなる数字だ。
俺がいくらキャベツを切ったって皿を洗ったってそんなのは雀の涙なわけで、まともな金額を用意できるわけがない。
分かってはいたけど、実際の数字を見てしまうと胃に経験したことのない痛みが走った。
汗が滲む手で資料を本棚にしまい、進路指導室を出ると夏の暑さが肌を覆った。
廊下はエアコンがないからダイレクトに熱が襲ってくる。今日も嫌になるくらい暑い。バス通学にしたらよかった。こんな天気で自転車を漕いだら死んでしまう。
窓から見えるカンカン照りの日差しを見るだけで首筋が濡れる。こんな時間に外に出るなんて自殺行為だ。
夕方になるまで図書館で自習しよう。そう思い立ち、総合校舎に向かうことにした。
総合校舎には、音楽室や家庭科室、美術室などがある。図書館はその校舎の一階。
静かでなんぼの図書館と、吹奏楽部や軽音楽部がぎゃんぎゃんに騒いでいる音楽室を同じ校舎にするなんて何を考えているんだと文句を言いたくなるが、大人の事情があるんだろう。それにカス高には、真面目に図書館で勉強するやつなんてごくわずかだ。
総合校舎に入ってすぐの踊り場で、上から楽器を持った男が降りてきた。
ワックスやスプレーで頭を固めた男がギターを持っている。軽音楽部だ。吹奏楽にこんなカチコチ頭はいない。上履きの色は黄色。ということは1年か。
思わず踊り場で立ち止まってしまった。男は俺に戸惑いながらも、そのまま普通科校舎に向かって歩いていった。
すると上の階から、数人、男を追いかけるように降りてきた。髪が少し明るい背の高い男と、校則違反レベルの長髪男、そして勇人だった。
勇人の動きがピタッと止まった。目が合ったのはほんの一秒くらいかもしれない。だけど確実に俺を見ていた。表情は特に変わらなかったけど、少しだけその大きな瞳が揺れた気がした。
「勇人どうした? 早く行こうぜ」
「……あ、ああ」
勇人はすぐに目を逸らすと、階段を早足で降りた。機材を持った勇人が、俯きながらも着実に俺に近付いてきている。
それなのに一歩も動けなかった。勇人が横を通った瞬間、草のような、強い香水の匂いがした。
どうして何も言えないんだろう。あの時もそうだった。なぜか勇人と会うと、言葉が出なくなる。
勇人が俺や夏を意識的に避けていることを知っているからこそ、どうしたらいいか分からなくなるのかもしれない。情けない話だ。
♢
「違うよ! ここでこっちに移動して、足は右だよ!……違う! 全然ダメ! もう1回!」
少し動いただけなのに、すぐにダメ出しをされた。木田は呆れ顔で俺を見据えていた。
「少しは休ませてくれよ……」
「ダメだ! 絶対優勝するんだからもっと練習しないと!」
「ふざけんなよ……」
ダンスなんてまともにやったことがなかったから、飲み込みがどうしても悪い。それなのに木田はスパルタ指導だ。しんどい。
羞恥心の振り付けはEXILEのような激しいダンスというわけではなく、誰でも簡単にコピーできるものだった。でも俺は運動偏差値が群を抜いて低い。センスもないし体力もない。そのせいで羞恥心のような振り付けを覚えるのも人の何倍もの時間がかかる。
やっぱり承諾するんじゃなかった。夏休みになるギリギリまで悩んだものの、木田の説得で渋々『羞恥心』の練習をすることにした。でも貴重な高校3年の夏を『羞恥心』で終わらせるなんて冷静に考えれば間違っている。
夏休みにこんな宴会会場レベルに広い和室で踊り狂っている受験生なんて、全国探しても俺だけだろう。
寺の真横にある家というせいなのか分からないが、木田の家は不思議とひんやりした空気が漂っている。エアコンが必要ないレベルだ。それでも踊り続けているせいで、自然と体が湿ってくるけど。
「お前、勉強はできるくせに運動センスゼロだな。足の向きずっと左右逆だし、移動のタイミングは覚えないし」
「だから嫌だって言ったんだよ。俺は断った。お前が無理やり巻き込んだせいだ」
とびきり睨んでやると、木田は分かりやすくバツの悪い顔をした。
「それに関してはごめん。責任もってちゃんと俺が指導するから」
「指導しなくていい。解放してほしい」
「ごめんって。でもさ、もう決まっちゃったんだからやるしかないだろ」
「お前のせいでな」
「ごめんごめん。とびきりのやつ仕入れたからそれで我慢してくれよ」
「……とびきりのやつ? どういうこと?」
「ちょっと待ってな」
木田は押し入れを開けると、座布団が入った上の段の中に入っていった。こいつはドラえもんか?
そのまま木田は段ボールを取り出してきた。俺は駆け寄り、その中を確認しようと覗く。そんな俺を木田は制止し、一つずつDVDを取り出して商品紹介を始めた。
「ほら、ミニスカポリスに美人OL、金髪白人美女に年上上司モノもあるぞ」
火照った顔で腰をうねらせた女性たちのパッケージ。涙目のものもあれば、わざとらしく上目遣いでこちらを見つめるものもある。豊満な胸が並ぶそれは、どれも雄が喜ぶほどの肉の厚みを持っていた。
これが「とびきりのやつ」とやらなのか。こんなんで『羞恥心』の負担が相殺できると思っていたのか。相変わらず短絡的なやつだ。そりゃあ何も褒美がないよりはいいけど……。
「……よく集めたなこんなに」
「頑張ったんだよ。クラス中の輩から引っかき集めてやった」
どれが誰の持ち物なのか、ちょっと察してしまった自分が恐ろしい。でも、クラスメイトが使ったDVDを渡されてもそんなに嬉しくない。あいつはこれで処理したのか……なんて想像できてしまうじゃないか。
「これだけじゃねえぞ。人妻モノや3Pモノ」
「お、おお……」
「あとこれはエロすぎる女子大生隣人!」
「おー」
「それにほら、どエロ美人ナースもあるぞ!」
鼓動が停止した。沸騰しかけていた血が、一気に冷めていく。
「あれ? どうした?」
「……やめろ」
「え?」
「ナースだけはやめろ。萎える」
「なんで?……あ! そっか! なるほど、すまん!」
木田は『夜の回診で乱れる美人看護師!』『ナースさん! そこは触診でお願いします!』などと書かれたそれをさっと隠した。でももうバッチリ見てしまった。今更遅い。
「やっぱやめようかな。羞恥心」
「は!? そんなこと言うなよ!」
「もともとお前が坊主になる前の餞別と思ってやることにしたけど……なんか協力した自分がバカみたいに思えてきた」
「だから悪かったって!」
木田が土下座する勢いで頭を下げた。
「……じゃあせめて、もう少しソフト指導にしてくれる? 頼むからスパルタにしないでほしい」
「わ、分かった! そうする!」
安心したのか、木田の黒い顔が徐々に明るくなっていく。
「でも俺、お前がここまで踊れないとは思わなかった」
「体育の授業の姿である程度察してほしかったな」
「……ごめん」
俺の体育の成績は、5段階評価で基本2、運が良ければ3だ。体育だけがどうしても悪い。周りの男子が運動できるやつらばかりというわけでもないのにこの成績だ。体育の成績が悪いのは昔からだから、これに関しては諦めてしまっている。
「これくらい、お前の弟くんなら簡単にできるんだろうなあ」
「……勇人のこと?」
「そうそう。そういえばお前の弟くん、結構有名だぞ」
「なんで?」
「なんでってそりゃあ、イケメンだし、歌もうまいし、おまけに高身長。さらに運動神経抜群ときた。女子からモテないわけないだろ。マンガの主人公みたいなやつじゃん」
マンガの主人公。
確かに勇人は主役になれるくらいのスペックはあるだろうな。勉強ができないところ以外欠点はないし。
俺の前では絶対に歌ってくれないけど、歌が上手いイケメンなんてモテないわけがない。彼女がいると知って落胆した女子は数知れないだろう。
俺も勇人に彼女ができたのを知った時はびっくりしたけど、冷静に考えれば勇人みたいな男に彼女がいないほうがおかしい。
「なんかお前ら顔も性格も全然似てないよな。片方は頭がよくて、片方は運動ができる。片方は明るくて友達も多いアウトドア系で、片方はバイトと勉強くらいしか放課後やることが無いインドア野郎。共通点を探すほうが難しそうだな」
確かに俺たちは似ていない。顔だけじゃなく中身も。
兄弟じゃなかったら、多分俺と勇人は一切交わることはなかったと思う。これだけ違う人種なわけだし。
兄弟だから一緒にいただけ。兄弟だから仲良くしていただけ。俺と勇人を繋いでいる物は、血縁だけ。
「そうかもな。俺はポケビ派だけどあいつはブラビ派だったし、俺は辻ちゃん派であいつは加護ちゃん派だった。それに下着は俺がボクサーであいつはトランクス。考えれば考えるほど似てないかも」
「そんな詳細な情報要らねえよ」
そうだろうな。
「桐生じゃなくてお前の弟誘えばよかったかな? 背も高いし」
「やめろよ。無理だよ」
「なんで?」
「絶賛反抗期中なんだよ。碌に口きいてくれないし、家にも全然帰ってこない。お前も勇人を見たことあるなら知ってるだろ? ピアスして学校サボって部活仲間とつるんで……なんか近寄りがたい感じ。そんな勇人が羞恥心なんか踊ってくれるわけないだろ」
「確かにキツイな。でも兄弟だろ? 必死に頼めばOKしてくれるんじゃね?」
「……嫌だ」
「なんで?」
「面倒ごとに巻き込みたくない。迷惑かけたくないし、振り回したくない」
「なんだそりゃ。なに? そんなに弟くんが大事?」
「そりゃあ大事だよ。この世に一人しかいない弟だし」
「保護者かお前は。キモ」
木田は呆れたようにそう呟くと、そそくさと和室から出て行ってしまった。
あいつも弟いるくせに共感してくれないのか。冷たいやつだ。
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