3・3① 無意識な意識
――2008年7月――
空がオレンジ色になっていた。昼間のようなむさ苦しさはなくなったが、それでもまだ湿気を含んだ蒸し暑い感覚は残っている。
水色のカーテンが揺れたのとほぼ同時に、黒く艶のある長髪が風に揺られ、俺の頬に触れる。
耳の横で揺れている髪を触ると、
何回目のキスなのかもう分からないけど、凪咲はキスをすると肩がぴくっと動く。癖なんだろうけど、あまりにも毎回ファーストキスのような反応をするものだから笑ってしまいそうになる。
凪咲も俺の顔に手を伸ばし、頬を撫でた。細い指が右耳のピアスに当たる。
一度唇を離すと、凪咲はゆっくりと目を開けた。つぶらな瞳に、頬が緩む。
「……勇人? どうかした?」
「いや、なんでもない」
「嘘。絶対何か考えてたでしょ」
「なんでもないって」
「ほんとに?」
「ほんとだよ、ほんと」
はぐらかされたのが気に入らなかったのか、凪咲はムスッとしてしまった。そんな不機嫌な顔も可愛い。
もう一回キスをしてやろうと思った時、ケータイの着信音がズボンから鳴り響いた。取り出すと、画面には『早人』と表示されていた。
「出ないの?」
俺がいつまでも画面を見つめたまま動かないからか、凪咲が心配そうに俺の様子を窺っていた。
そのままケータイを閉じ、「大丈夫」とだけ答えた。緊急ならうざいくらい何回もかかってくるはず。一回で諦めてきたら大した用事じゃない。
多分「何時に帰るんだ?」とか「晩飯要らないのか?」のようなどうでもいいレベルだ。
「俺、そろそろ行くわ」
ベッドから立ち上がると、座っていたところがギシっと音を立てた。
「え、もう?」
「バイト間に合わなくなるから。それに親ももうすぐ帰ってくるだろ?」
「あ、そっか……。気を付けてね」
「うん。終わったらまた連絡するから」
「分かった」
バイト前に少し会えるだけで十分と言っていたくせに、いざ行こうとするとこの上なく悲しそうな顔をしている。
「……寂しい?」
意地悪な質問だとは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。凪咲は上目遣いで俺を睨み、「別に」とそっぽを向く。
いじけているのが無性に可愛くて、思わず抱きしめてしまった。凪咲は「もう、なに」と文句を言っていたが、素直に俺の背中に手を回して身を任せてきた。細い肩幅が壊れてしまわないようにそっと抱いた。
凪咲と付き合ってもうすぐで1年になる。
あの時の俺は投げやりで、中途半端で、心が地に着いていない不安定な状態だった。
だから「付き合おう」と言った時、てっきり断られると思っていた。むしろ断ってもらったほうがスッキリするんじゃないかとも考えていた。
断るなら断ってくれていい。他の女に未練があるやつなんか、さっさと捨ててしまえばいい。そっちの方がお互いのためだ。そう思っていたのに。
「付き合っていくうちに好きになってくれればいいから」
震える手で俺を抱きしめた凪咲の言葉で、目が覚めた。花火の轟音の中、俺は自分の腹黒さと醜さに泣き出しそうになった。
凪咲の優しさに逃げただけ言われてしまえばその通りかもしれない。それでも、たとえきっかけが不純だとしても、今ではちゃんと凪咲を大切に想っている。迷いなく言える。
「凪咲」
「ん?」
「好きだよ」
「……分かってるよ。いつもありがとう。でもそんな毎日のように言わなくてもいいのに」
「言いたいから言ってるだけ。嫌?」
「まあ……悪い気はしないけど」
折れてしまいそうなほど細い凪咲の肩を抱きしめる。凪咲の体温が肌に伝わる。逃がさないように、離さないようにその形を、その匂いを、その熱を覚える。こうしてようやく、安心できる気がする。
もう1年くらい、あいつらとろくに話していない。あいつらが何をしているのか、何を考えているのか、どんなやつとつるんでいるのかサッパリ知らない。
もう振り回されたくない。関わりたくはない。一生このままでもいい。とにかく、あいつらに振り回される情けない自分をさっさと消し去りたいのだ。
11年間同じことばかり考えてきたけど、その11年間で叶わない片思いほどしんどいものはないと思い知った。
あいつらが一緒にいるだけで胸が騒いで落ち着かないのも、あいつらが何をしたのか知ろうとするのもいちいち疲れた。
今でもどうして好きだったのか理解できない。心の中を乱されるほど好きだったのは確かだが、自分でも説明ができない感情だった。
高校生になったばかりの時、無理やり夏とメアドを交換させられた。夏が突然、おやじ狩りかのように俺のケータイを奪い取り、そのまま赤外線通信を始めたのだ。
連絡先を交換したばかりの春、夏はくだらないメールや電話をしょっちゅうしてきた。「はねトビ見た?」とか「ドラマ録画してくれる?」とか。俺が夏を無視するほど、エスカレートしていった。
イライラしたが、それは夏に対してではなく、夏から連絡が来るたび心臓が跳ねる自分に対してだった。凪咲が好きなのに、凪咲以外の女にいちいち反応する臓器が鬱陶しかった。
しびれを切らして、「連絡してくるのやめろよ!」と夏に怒鳴ってしまったのが5月ごろ。すると毎日のように来た電話やメールがピタリと止まった。安堵する反面、夏からの連絡がないことを気にし始めている自分に絶望した。
それなのに6月のある日、久々に夏からメールが来たのだ。何事かと思ったし、見てはいけないような気がして、メールを開くのに3日もかかってしまった。
そもそもメールを見る気はなかったのだが、もし深刻な内容だったら、重要なことだったらどうしよう。もしかしたら何か話でもあるんじゃないか。そんな心配が駆け巡り、眠れなくなったのだ。
意を決して、深夜にメールを開いた。
『こんにちは! これは「嵐の宿題くん」の検証メールです! 番組でメールがどれだけつながるかという検証をしています! そんなメールが、今あなたのところに回ってきたのです! このメールを、10人に送ってください。結果は秋に放送予定です。絶対に止めないでください!』
くそったれだ。よく見ると一斉送信になっていて、見知らぬメールアドレス先にも同様のメールが送られていた。
速攻メールを削除し、自分の愚かさに嘆き、一晩中枕に頭を打ち付けた。ベッドで暴れる俺に、早人が「大丈夫か?」と心配してきたのが尚更しんどかった。わざわざ避けていたのに、それでも翻弄されている自分が本当に惨めだった。
ずっと夏が全てだったせいだ。夏のことしか考えてなかった。夏が好きで仕方なくて、夏のことしか見えていなかった。その後遺症がまだ残っているのだ。
凪咲と付き合ってみて、夏以外の人を初めて好きになって、どうして夏にばかり固執していたのか分からなくなった。
どうして俺は、夏でないとダメだったんだろう。
あの11年間はやっぱり錯覚だったんだろうか。ようやく俺は錯覚から覚めたのかもしれない。そう思い始めている。
自転車に乗り、バイト先に向かう。田んぼ道を少し走ったところで、夏の家の前に通りかかった。一本道でこの道しか通るしかないから仕方ないのだが、できるものなら避けたい。誰か適当な道を別に作ってくれないだろうか。
ほんの数秒、窓の奥が見えた。
本当に一瞬だけだったのに、誰がいたのかすぐに分かった。見なきゃよかった。なんで夏の家の前を通ると分かっていたのに、バカ真面目に窓なんか見たんだろう。自分が嫌になる。
「……クソ」
脚に力を込め、全力で自転車を漕ぐ。一秒でも早く離れたかった。早く行かないと、またすぐに一年前に引き戻される気がして。
二人が、リビングでアイスを食べていた。
いつも通りの光景だ。アイスなんて一人で勝手に食ったらいいのに、家族でもないのにわざわざ二人で食っている。仲良くアイスを食う二人は、兄妹のようにも恋人同士にも見えた。
俺がいなくても二人の間にはちゃんと時が流れている。俺の時間は去年のあの夏休みで止まっているのに、二人は俺がいない時間を着実に進めている。俺がいなくてもあいつらは変わらない時間を過ごしている。
別に俺には関係ないことなのに、なぜか目についてしまう。勝手に視界に入ってきてしまう。本当気持ち悪いし煩わしい。
でも一番気に入らないのは、いちいちそんな二人を気にしている自分だ。ほっとけばいいのに、気にしなきゃいいのになぜか意識している。何年もずっと一緒にいたからか、なかなか俺の中からあいつらが消えてくれない。
忘れられるのならすべて無くしてしまいたい。俺の頭の中からあいつらだけをすっぽり取り出すことができるならどれだけいいだろう。
記憶を消す。そんなことが可能な世界だったら、今すぐにでもあいつらを消してもらうのに。
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