3・2③ 消化できない何か
夜の病院はあまり得意じゃない。
病院独特のアルコールっぽい匂いというか、清潔すぎて異空間ぽい感じとか、白すぎる壁とか、非日常的な感じとか。それに暗い廊下は本怖のワンシーンのようで不気味だ。今にも髪の長い女が出てきそう。
怯えながら受付にいる女性に声をかけると、すぐに内線を繋いでくれた。椅子に座って待っていると、暗い廊下の奥から白衣を着た母さんが出てきた。
「早人ごめんね! わざわざ来てもらっちゃって」
「いや大丈夫だよ。母さんこそお疲れ様」
母さんの髪は若干乱れていて、産毛があちこちから飛び出ていた。疲労が溜まっているようで、化粧で隠せないほど目の下に大きなクマができている。看護師はやっぱり大変なようだ。
「母さん、これ」
俺は持ってきていた茶色い長財布を母さんに渡した。
「ありがとう。明日も学校なのにごめんね」
「ううん。これくらいいいよ」
俺が夜に母さんの職場に単身来たのは、財布を届けるためだ。
母さんは車で通勤していたのだが、出勤前あまりにも急いでいたせいで免許証が入った財布をごっそり忘れてしまったらしい。つまり母さんは通勤中、無免許運転をしていたことになる。
それに気づいた母さんから電話がかかり、俺は母さんに財布を届けるため、バスに乗って病院に来たわけだ。
「これから休憩だけど、早人はもう夜ご飯食べちゃった?」
「いや、まだだよ」
「じゃあ一緒に夜ご飯食べない? 気前のいい先生が多めに出前頼んでくれたの。早人も食べよう」
「あ、うん」
母さんに連れられて、俺は職員用の休憩室に行くことになった。清潔に掃除された長い廊下をひたすら歩く。
大学病院というだけあってか、イオンみたいに広い。どこに何科があるのか分からないほどだ。
母さんは救急科で、夜勤も日勤も両方こなしている。最近は日勤の方が多くなってきたようだが、それでも未だに生活リズムは不規則なままだ。
休憩室に着くと、二人の看護師さんが食事をしていた。20代くらいの女性と、母さんと同世代くらいの坂口憲二そっくりな男性だ。
「お疲れ様ー」
母さんがそう言って部屋に入ると、二人とも微笑みながら「お疲れ様です」と返事した。
「あれ? その子は?」
「もしかして息子さんですか!?」
二人はすぐに俺の存在に気付き、興味津々というような感じで身を乗り出してきた。
「あ……はじめまして。母がお世話になっております」
挨拶をすると「はじめまして、若林です!」と女性が、「はじめまして、藤堂です」と坂口憲二似の男性が挨拶してくれた。
「え、お兄さんの方? 弟くんの方? どっちですか?」
聞いてきたのは若林さんだった。
「あ、兄の方です。早人といいます」
「早人くんね! 優しそうな子ですね!」
なぜか若林さんは嬉しそうだ。
「早人くんって、あれですよね? 学年1位の子。いつも自慢されてた」
藤堂さんのその言葉に、母さんが俺のことを自慢していたことを初めて知った。めちゃくちゃ恥ずかしい。
「今日はどうしたんです? お子さんを連れてくるなんて
「祥子さん」。藤堂さんは母さんをそう呼んでいるのか。そっと視線を動かすと、藤堂さんは母さんを穏やかな眼差しで見つめていた。
「財布忘れちゃってさ、電話して届けてもらったの」
「優しい息子さんですね! 羨ましいなあ! 私も将来こんな優しい子どもがほしいです!」
「若林さんは相変わらずお世辞がお上手ね」
母さんに促され、若林さんの正面である手前の席に座った。母さんは藤堂さんの正面に腰掛けた。
弁当は中華丼と天丼、生姜焼き定食、からあげ弁当が用意されていた。母さんは迷わず中華丼を取り、「早人も食べな」と割り箸を渡してきた。俺も生姜焼き弁当を手に取り、いただくことにした。
割り箸を割り豚肉を口にした時、「早人くんは今何年生?」と藤堂さんが尋ねてきた。
「高3です」
「てことは、受験生?」
「まあ、一応そうですね」
「どこの大学に行くつもりなんだい?」
若林さんと藤堂さんの視線が俺に釘付けになっている。
咀嚼していた豚肉を急いで飲み込むと、「まだ迷ってます」とだけ小さく答えた。生姜焼きは随分冷たくなっていて、味はどこにでもある変哲のないものだった。テツさんの方が何倍もおいしく生姜焼きを作るだろう。
「そっかあ。まあこれから絞っていけばいいんだよ。私なんて大学受験失敗して、ノリで出願した看護学校しか受からなかったから看護師になったし。人生どうなるか分からないよ」
「若林さんそうだったんですか? 意外ですね。でも早人くん優秀なんだから選び放題でしょう。きっと弁護士とか、研究職とか、国家公務員とか、そんな職に就くんじゃないですか?」
「確かに! それに医者もいいんじゃないですか? 学年トップになるくらい頭いいんだったらいい職に就かないともったいないよぉ」
二人の言葉ラッシュに、思わず苦笑してしまう。
「祥子さんはどうなんです? 早人くんになってもらいたいものとかあるんですか?」
藤堂さんの質問に、母さんは考える素振りを見せた。うずらの卵を一口で食べると、口手で覆いながら話し出した。
「まあ、本当になりたいものを見つけて、ちゃんとそれを真面目にやってくれれば十分かな」
母さんの目が微笑んでいた。「祥子さんらしいですね」と藤堂さんも優しく笑った。
喉の下あたりが疼く。違和感で豚肉がつっかえて動かない。
「まあこの子はいいのよ。問題は次男の方。あの子はしっかりしているけど、勉強ができなくてね。大学に行ってほしいけど、本人にその気があるのか……。高校生になって急に派手になってバンド始めるし、何考えてるのかさっぱり。どうしようバンドマンになりたいとか言い出したら」
「バンドマンかぁ。もし言われたらきついですね。趣味の範囲なら許せますかけどね」
そんなことを言っていた若林さんが、急に藤堂さんの方を向いた。
「そういえば弟さんのお名前ってなんでしたっけ?」
「確かユウトくんって名前じゃなかった? ですよね祥子さん」
「ああ、そうそう。藤堂さんよく覚えてるね」
「陸上部だった時肉離れしてここに来てたでしょう? あまりにも祥子さんそっくりだったから覚えてたんです」
若林さんはご飯を口に入れたまま驚いていた。
「え? そんなにそっくりなんですか?」
「そっくりそっくり。綺麗な祥子さんに似て、すっごくかっこいい子でしたよ。ジャニーズかと思っちゃいました」
「え!? そんなにイケメンなら見てみたいです! 杉山さん、今度勇人くんが来たら教えてくださいね!」
イケメンに食いつく若林さんに、母さんは困ったように笑った。
確かに勇人は母さんにそっくりだ。誰が見ても親子だと分かるくらい。二重で大きな目、高い鼻、くっきりとした顔立ち。
そんな二人に対して俺は、奥二重で小さい目、丸い鼻。母さんと並んでいても、一目で親子だとは分からないかもしれない。俺が母さんに似ているのは顔の輪郭とか痩せ型の体系とかそんなところだ。
「あ、私たちそろそろ休憩終わるので行きますね。親子水入らずで食事を楽しんでください」
突然若林さんが立ち上がった。
「もう行くの?」
「はい。早く行かないとまた迫水先生に怒られちゃうんで、行きますね」
藤堂さんも若林に続くように立ち上がった。その腕を「あ、藤堂さん」と母さんが掴んだ。藤堂さんは驚いていた。
「お昼はありがとね。後でお金返すから」
「あ、それくらいいいですよ。わざわざ返していただかなくても」
「そんな、悪いよ」
「いいんですよ。いつもお世話になってるんですから」
藤堂さんの柔らかい表情。母さんの腕がそっと離れていく。そのまま休憩室を出ていく藤堂さんを、母さんはじっと見つめていた。胸が摩擦を起こしたように痛んだ。
二人きりになって、急にシンとする室内。
母さんは黙々と中華丼を食べ続けていた。話に夢中で気にならなかったが、母さんはなんだか早食い気味で、落ち着きがないように見える。
「母さん、もっとゆっくり食べなよ。早食いは消化に悪いよ」
母さんの手が止まる。そして恥ずかしそうに、口内にあったものを喉へ通過させた。
「あ、ごめんね。いつもの癖で」
「癖?」
「休憩中に急患とか来るかもしれないから、食べられるうちに食べておきたくて。今日は平和だなぁって思った途端に忙しくなったりするからさ」
言われてみれば、机の上に食べかけの弁当がいくつか散乱している。どれも蓋も閉めないまま、いかにも食べかけといった様子で机に放置されている。
確かに急患が来たら、食事どころではないだろう。特に夜は職員が限られているから、休憩中だろうがすぐに駆けつけなければならないのかもしれない。
家では母さんとは挨拶するくらいしかまともに顔を合わせることが無かったが、こうして近くで見ると、母さんの顔の皺が昔よりも増えた気がした。手も消毒の関係なのか、荒れていて皮が剥けている。
母さんはいつも死んだように眠る。人命に関わる仕事だ。体力も精神力も必要になる。疲労感は相当なものなのだろう。
これも全て俺たちのためだ。俺たちを守るために、俺たち家族を支えるために必死に働いてくれているのだ。そんなことは前から分かってはいたけど、改めて母さんの姿を見ると感謝とはまた違う感情が湧いてきてしまう。
「早人」
「なに?」
「勇人って大学行く気あるのか知ってる? 最近全然話してくれないじゃない? 反抗期なのかもしれないけど、心配なのよ」
「……いや、知らない。俺ともあんまり話してくれないんだよ」
「そっか……」
ついこの間まで普通の中学生だった勇人が、突然ピアスを開け髪をガチガチに固め、夜遅くまで帰ってこなくなったのだから母さんが心配するのも当然だ。兄の俺でさえ心が落ち着かないのだから、母さんはもっと気にしているはずだ。
「早人は?」
「え?」
「進路、ちゃんと考えてるの? もう3年生なんだから決めないとでしょ? とりあえず国立ってことで進めているけど、それでいいの? 本当に行きたいとことかないの? それに予備校は? 通ったほうがいいんじゃない?」
「うん……でも予備校はいいかな。俺は俺のペースで勉強したいし」
「そう? でももし予備校行きたくなったらお母さんにはちゃんと話してよ? 早人のやりたいようにしていいんだからね。別に国立じゃなくったって、早人が本当に行きたいところがあるなら応援するよ? お母さん頑張るから」
母さんの充血した赤い目が、俺に問いかけている。俺の奥の本音を誘おうとしている。
あの時もそうだった。中学受験を担任に勧められた時。母さんは俺に何回も受験したいのかどうか確認してきた。もし嫌ならしなくてもいい、でももし本当に受験したいなら応援する、と。
あの時の俺は世間知らずで、あんまり受験のことを深く考えてなくて。進学塾代も、私立の学費も何も知らなくて。
母さんの寝室にあった塾の明細と私立中学のパンフレットを見るまで、何も分かっていなかったのだ。
母さんが夜勤を増やすようになったのは、俺のためだったのだと全然分かっていなかった。
「母さん、俺……」
『コードブルー コードブルー 三階B病棟』
全館に響き渡る館内放送。
コードブルー。俺はその言葉の意味を知っていた。母さんの中華丼を食べる手が止まる。荒れた指の握力が失われたように、箸が床に落下していく。
空間を打ち破るようにドアが豪快に開かれた。バンッという破裂音が鳴り響く。青ざめた藤堂さんが立っていた。
「祥子さん! 早く!」
母さんと目が合った。それでも次の瞬間には、母さんは何かに引っ張られたように勢いよく立ち上がって、ドアの方に向かって駆け出していた。
「か、母さん!?」
「早人! タクシー代財布から適当に取っていっていいから! 食べ終わったら帰りな!」
母さんが言い終える頃にはもうその体は部屋から消えていて、藤堂さんとともに走り去っていった。クーラーの風が響く空気に、一人取り残された。
机の上には、まだ半分以上残った母さんの中華丼。散乱している弁当の蓋。何本か床に落ちている割り箸たち。
箸で摘まんでいた美味しくもない生姜焼きを弁当に戻す。ちょうど、夜の9時になったところだった。
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