2・9 無理だ

――2007年8月――


 そういうことだったのか。


 石階段でぽかんと俺たちを見上げている顔を見て、自然と納得できてしまった。


 俺よりもずっと前に、俺が必死に広場や屋台を走っている間に、こいつが夏をとっくに見つけていたんだ。


 俺よりも足が遅いくせに。俺の方が夏の近くにいたはずなのに。こいつが先に夏を探し出した。夏が泣いたのもきっとこいつのせいだ。こいつの顔を見て泣いたんだ。寂しくて泣いたんじゃない。安心して泣いたんだ。


「なんだよ……バカみてぇ」


 いつも俺の先だ。いつも追い付けない。どうしていつもこうなんだ。


 俺より鈍感なくせに、一人じゃまともに買い物もできないほどマヌケなくせに、俺にできないことを、俺のやれないことを何でもやってのける。俺のやろうとしたことを俺より先にやり遂げる。


 俺が一番理解していて、一番理解不能な存在。この世に一人しかいない、血の繋がった俺の兄。


「……俺、行くわ」

「え、勇人?」


 握っていた夏の手を放し、立ち上がる。手汗をかいていたのか、夏の体温のせいなのか、手が離れたその瞬間手に冷たい風が触れた気がした。


 尻の砂を払っていると、やつが俺の目の前まで来ていた。


「お前、どうしたんだ? 友達といたんじゃなかったのかよ。どうしてここにいるんだ?」


 ビニールからソースのような脂っこい匂いがする。屋台を走り回った時に散々嗅いだものだ。


「お前こそバイトじゃなかったのかよ」

「あ、そうなんだけど……夏から電話があってさ」

「電話?」


 そうか。


 俺はケータイを持ってないから、こいつに電話かけたのか。


 理屈で考えればそりゃそうなんだけど、でも夏は俺よりも先にこいつに頼ったのか。探せば見つかるかもしれない距離にいた俺じゃなく、こいつを選んだのか。


 夏の脳裏に過ったのは、俺じゃなくこいつなのだ。


「参ったよ。バイト先から必死に走ってさ……吐きそうだった。俺も運動すればよかったよ」

「走ったのか? バイト先からここまで? お前が?」


 信じられない。女子よりも体力がないくせに、バイト後で疲れていたはずなのに、ここまで走ってきたのか。

 俺よりも遠くにいて、俺よりも足が遅いこいつが、俺よりも早く夏を見つけてしまったのか。



 無理だ。



「邪魔したな」

「は?」

「え?」


 二人の顔が困惑に染まる。


「二人で楽しめよ。俺はもう行くから」

「え、勇人? どうしたの?」

「勇人?」


 俺は背中から聞こえる声を無視して、一度も振り返らずに階段を下りていた。荒い小石がいちいち、足に食い込んでくる。



 あいつは悪くない。分かってる。自業自得。


 自分の心にもっと素直になっていれば、もっと早く決断していれば、早人より先に夏を見つけられたかもしれない。俺が迷っている間に、早人は走っていたのだ。


 そもそも俺が初めから夏を誘っていればよかったんだ。くだらない羞恥心と足りない勇気のせいでいつもこうなる。


 届きそうで届かないのは、愚かな自分のせいだ。




 階段を下りて屋台が広がる通りに着くと、まだ人がごった返していて、うるさいくらい賑わっていた。普段ではありえないくらい騒がしい音楽が流れている。それが痛いほど響く。


 体の奥が熱い。


 あの時と似ている。11年前、二人がキスしていたのを見たあの時。今にも爆発しそうな、気持ち悪い嫌な感覚。


 引き戻される。11年前のあの日に、連れ戻される。








 広場に着くと、さっきよりも何倍も混雑していた。


 人々はみんな揃って空を見上げて笑っている。俺には誰も気が付いていないくらい、みんながみんな、空に広がる花火に夢中になっている。


 俺は迷わず最前列の方にあるレジャーシートに向かって走った。人の肩に何度もぶつかりながら、真っ直ぐ向かった。


 人混みの中で見えにくかったが、やっぱりそこにいた。


「笹井!」


 可愛らしく編み込まれた髪がピクっと揺れた。俺の声に笹井だけが振り向いた。花火の光がその可愛らしい顔を照らす。見間違いかもしれないが、目が潤んでいるように見えた。


 笹井の座っているそのシートの目の前に着くと、木田が隣に座っているのに気が付いた。頭にタオルを巻いていて、テキ屋のおっさんみたいだった。


「おまっ、どこ行ってたんだよ!」

「笹井、ちょっと来て」


 俺は木田を無視して、笹井の腕を掴んでいた。……細い。笹井は目を見開いたまま、俺に引き摺られるように黙って付いてきた。


 広場を出たところで、笹井の顔がようやくちゃんと見えた。勘違いじゃなかった。笹井の目が赤く腫れている。それに頬に涙の跡がある。


「お前泣いたのか?」


 その問いに、震えながら笹井は首を横に振った。それなのに、突然笹井の目から涙が零れ落ちた。


「あ……これは違っ……」


 笹井は必死にその涙を拭いていた。必死にその雫を無かったことにしようと、俺に見せまいと瞼を擦っている。


 申し訳ないことをしたと思う。


 せっかく花火に誘ってくれたのに、急にいなくなって。好きでもないやつと花火見させられて。理由も言わずに消えて、本当に俺が戻ってくるのか、そもそもなんでいなくなったのか分からず不安だったはずだ。


「笹井、ごめん。ほんとにごめん」

「ううん、大丈夫。杉山くんこそ平気? あんなに焦って走って行ったってことは、何かあったんでしょ? いいの? もう大丈夫なの?」


 傷ついただろうに、ムカついただろうに、取り残されて惨めだっただろうに、俺に文句ひとつ言わない。それどころか、俺の心配もしてくれている。

 こんなに笹井は優しかったのに、俺はどうしてちゃんと見なかったんだろう。どうしてこんな、酷いことができたんだろう。


「笹井」

「うん?」

「俺、まだあの人が好きだ」


 人が、花火が、雑音となって耳の奥で騒がしく鳴り響く。

 笹井はうまく聞こえなかったのか、聞こえたけど理解できないのか、潤んだ目で俺を見ているだけだった。


「でも、それでも笹井のこと真剣に考えようと思う。少しずつでも、笹井のこと好きになろうと思う。俺、あの人のこと好きになるのもうやめるから」

「え……」

「付き合おう。俺たち」


 空に大きな花火が上がった。ピンク色のそれは空に広がって、俺たちの方にまで落ちて来そうなくらい眩しかった。

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