2・8 本当にバカ。

――2007年8月――


 全然分からない。浴衣を着ている人がすべて同じ顔に見える。俺の進む方とは逆方向に人が流れていく。

 何人も何十人も何百人も浴衣を着ている人を見た。ただどうしても夏が見つからない。


「はっ……はあっ……」


 立ち止まり首の汗を拭くと、びっしょりと手の平が濡れた。地面には俺の汗が雫になって垂れている。



 こうなるんだったら、俺が夏を花火に誘っておけばよかった。今年もどうせ友達と行くんだろうなと思ってたけど、俺がずっと前から誘えばよかったんだ。


 俺が消極的すぎるせいだ。人混みが嫌いとか言い訳言ってないで、夏と見る花火は好きだと素直に言ってしまえばよかったんだ。



 ついに屋台の端まで来てしまった。もう歩行者天国も終わって、人がぐっと少なくなる。

 結局、夏は見つからなかった。もしかしたら家に帰ったのかもしれない。




 ボロボロの体は、自然と屋台横にある杉の木の下に座り込んでいた。これ以上は立っていられない。体力の限界だ。


 心臓が爆発寸前くらいの勢いで激しく動いている。体から飛び出してくるんじゃないかと思うほど動きが早い。血流がうんと早くなっているのが伝わってくる。胃の中が逆流しそうなほど気持ち悪い。


 喉の奥から血に近い変な味がする。走りすぎたせいで、喉が酷く乾いて痛い。肩が激しく上下するほど呼吸が乱れていた。


 服で顔の汗を拭いても、またすぐに額から新たな汗が滴り落ちる。それを拭うと、首筋を這う汗がまた皮膚を濡らす。



 目の前のお好み焼き屋。店員がキャベツを袋から取り出している。ソースの匂いがこっちまで漂う。喉の渇きを促進させるようで苦しい。


 そのお好み焼き屋の奥に、仮設休憩所があった。花火直前ということで今はガラガラだが、何組か座って焼きそばを食べていたりお茶を飲んでいる。


 そんな人と机が並ぶその場所に、桃色の浴衣を着た人が奥の席で一人、座っている気がした。



「……夏?」



 勘違いかもしれない。ただ直感で、そう思った。


 鉛のように重い脚を何とか動かし、その浴衣を着た人の方に向かう。急に立ったせいで視界がぐらつく。全てのピントが合わない。千鳥足で休憩所へ歩いた。


 やっぱりいる。桃色の浴衣を着た髪の短い人が一人、座っている。頭が回らず、人目も憚らず叫んでいた。



「夏……! 夏! 夏果!」



 なんとか声を絞り出したが、想像以上に枯れた声だった。酒ヤケのように干からびている。


 俺の声にその場にいた全員がこちらを向いた。皆、怪訝な目で見ている。大汗かいた男が急に枯れた声で叫んできたのだから当然か。


 桃色の浴衣を着たその人ももちろん、俺を見ていた。



 呼吸で精一杯で前がよく見えない。夏に似ている気がするし、夏じゃないかもしれない。


 確認したいのに、急に大声を出したせいで咳が止まらない。汗を大量にかいたせいか、ずっと走っていたせいか、立っていられない。


 眩暈に耐え切れず、そのままその場に膝から崩れ落ちてしまった。地面に手をついて、ひたすら咳き込んだ。このまま吐くんじゃないかと思うくらい、咳が止まらなかった。少し咳が落ち着いたその時、下駄を履いた足が目の前に現れた。



「お兄ちゃん?」



 何回も何百回も聞いたことのある声。間違いない。


 顔を上げると、耳に桜のイヤリングをした人が心配そうに俺の顔を覗いていた。その目、その鼻、その口、すべて見覚えがある。


「……来てくれたんだ」


 夏だ。

 分かった途端、安心感からか疲労がどっと押し寄せてきた。


「おっ、お前さ……で、電話出ろよ……。なっ、なんで出ないんだよ……」


 息がうまくできないせいで、ちゃんと言えない。それに咳のせいで喉がガラガラだ。


「ごめん。電源切れちゃってて」


 なんだ、そういうことだったのか。本気で怒って電話を無視されているのかと思った。


 とにかく見つかってよかった。本当に良かった。間に合った。


「お兄ちゃん、怪我したの?」

「え?」


 夏が俺の左肘を凝視していた。左肘から血が線のように垂れている。すっ転んだあの時だろう。それに左手で握っていたケータイにも所々血が付いていた。今まで全然気が付かなかった。


「だっ大丈夫だから。ほん、と。……そ、それよりもさ、夏」

「ん?」

「ごめんな、遅くなって」


 ようやく呼吸が整い始めて、夏の顔を直視できた。さっきまで嬉しそうにしていたのに、何だか夏は泣きそうな顔になっている。

 せっかく来たのに、なんでそんな顔をするんだろう。「もっと早く来いよ」と怒っているのかもしれない。


「バカ」

「え?」

「バカ。本当にバカ」

「えええ? せっかく来たのになんだよそれ」

「バカだよ、ほんとに」


 その瞬間、夏の目からぽろぽろと涙が零れ落ちていった。数年ぶりに夏が泣いているのを見た。


「え、泣くなよ! な、なんだよ、どうしたんだよ」

「お兄ちゃんなんか嫌い。大嫌い!」

「えええ!? なんで!?」


 俺の動揺を無視するかのように、夏の目からは涙が次々と流れ落ちていて、全く止まる気配がない。俺は血が付いていない、右手で夏の顔をそっと拭いた。


「泣くなよ……もう泣くな。ごめんな。俺が悪かったよ」


 夏は首を横に振った。いつも怪獣みたいだけど、しくしく泣く姿はどこか子どもみたいで可愛らしかった。


 落ち着かせようと、とりあえず椅子に座らせた。

 夏はまだ泣いていた。出始めた涙は簡単には止められないようで、ずっと俯いている。


 涙を拭こうとしたその時、遠くで大砲に似た音が地響きのように一帯に鳴り響いた。それから間もなくして、暗かった空が赤色に光った。休憩所からは木が邪魔してうまく見えないが、どうやら花火が始まったみたいだ。


「花火始まったな」


 俺が話しかけてもまだ夏の目が潤んでいる。ウサギみたいに目が真っ赤だ。せっかく花火が始まったのに、どうしたらいいんだろう。このままでは花火が終わるまで動かない気がする。


「夏、歩ける? 花火が見える場所に行こう。な?」


 夏は静かに頷いた。でもまだ落ち着かないのか、なかなか立とうとしない。


 なんで立たないんだろう? 疲れてそんな元気がないのか? 脚が痛いのか?


 なんとなく夏の足を見ると、下駄の紐に触れている部分が赤く皮が剥けていた。ある程度予想していたが、慣れない下駄を履いて靴擦れしていたようだ。


 下駄でどれくらい歩いたのだろう。俺に電話をかけながら、一人でここまでどれだけ歩いてきたんだろう。ずっと不安だったろうな。痛々しいほど靴擦れしている。


「……ほら」


 そう言って夏の足の前に白いスニーカーを置いた。夏は驚いた顔をしてそれを見ていた。


 昼間、バイトに行く前に夏の家に寄ってリュックの中に夏のスニーカーを入れておいたのだ。夜、迎えに行くときに履かせようと思ってたのに、もう使うことになるとは思わなかった。


 でもせっかく靴を出したのに、夏はなぜか茫然として全然動かない。靴を履く元気もないのだろうか。


 仕方なく、俺は夏の足首を持ち、下駄を脱がせた。夏はそんな俺をぼーっと見つめている。


「なんで私の靴持ってるの?」

「え? だって夏が『浴衣だからよろしく』って言ったじゃん。あれって靴持って来いってことだよな? 去年手ぶらで迎えに行ったら散々殴ってきただろ。忘れたのかよ」

「だからって、ずっと持ってたの? 靴入ったリュックしょって探してたの?」

「そうだよ。誰のせいだと思ってんだよ。バイト先からずっと走ってもうヘロヘロだよ」

「……自転車は?」

「え?」

「自転車で行ってたじゃん。乗ってきたのかと思ったのに、違うの? まさか走ってきたの?」


 あ。忘れていた。うっかりしていた。


 自転車で来ていればもっと早く見つけられたのに。焦りすぎて自転車の存在を忘れて、バカ真面目に走ってきてしまっていた。


 マヌケだ。とんでもないボンクラだ。


「やっぱりマヌケだね」

「……俺もそう思う」

「でも、走ってくれたんだ。体力ないくせに」

「そうだよ。だから大嫌いとかバカとか言わずにさぁ、もう少し俺を敬えよ」


 下駄を両足から脱がせ、いざ用意したスニーカーを履かせようとした時、夏が「靴下は?」と小さな声で聞いてきた。


「え?」

「ないの? まさか裸足で履けっての?」

「あ、ごめん。忘れた」

「……バカ。ほんと相変わらずだね。マヌケ」


 バカという割には、夏の顔は嬉しそうだった。いつもならビンタくらいするのに何もしてこない。機嫌が良いってことだ。

 両足にスニーカーを履かせると、夏は静かに立ち上がった。


「あそこに行こっか」

「あそこ?」


 夏は黙って屋台の奥を指さした。指の先には、石階段。なんだか見覚えがある。


 そうだ。昔、あの石階段で花火を見た。石階段の先は神社になっていて、一番上の段に座ると綺麗に花火が見える穴場スポットだ。





 花火の音を聞きながら石階段を上る。その間にも、頭上には次々と花火が咲き、その爆音が地域一帯に響いていた。


 見上げると、花火自体は見えなくとも暗かった夜空が赤や緑などに輝いていた。夏は浴衣で階段を上るのが難しいのか少し手間取っていた。


 やっと一番上の段に行くと、綺麗に花火が見えた。真っ黒の空にさまざまな色の花火が一気に開き、そしてすぐにその火花が散っていく。


 俺と夏はそこに座り、静かにその一瞬の芸術を見た。一発の花火は10秒も経たずに消えていく。これだけでひと夏の終わりを感じられた。


 去年は花火を見なかったけど、やっぱり綺麗だ。雷みたいな爆音と、破裂したように広がって消えるその一連が無性に愛おしい。小学生の頃ほぼ毎年見ていたはずなのに、なぜか花火の感動を忘れていた。


「水飲む?」


 夏が巾着の中から小さいペットボトルを出していた。バイトから一回も水分補給していないのを思い出したのと同時に、忘れていた喉の渇きが急に顔を出した。


「全部飲んでいい?」

「え、全部?」


 夏の許可をもらう前に、俺は夏の持っていた水を奪い取り全て飲み干していた。水を飲み込むたび、体が蘇るような、一気に若返ったような感覚が走った。


「全部飲みやがったな」

「ごめん。屋台でジュースでもなんでも買ってやるからいいだろ」


 口笛のような甲高い音の直後、次々に花火が上がる。消えていく花火が雨のように落ちてきて、幻想的だった。


 花火を初めて見た時、こっちにまで落ちてくるんじゃないかと怖かった。それに爆弾みたいに大きい音がどこか怖くて、心臓が割れそうな気がして苦手だった。


 今ではどうしてそんなに怖かったんだろうと思うほど、花火が綺麗に見える。数秒間しか咲かない花火は幻想的で儚くて妙に魅力的だ。


 人混みは嫌いだし、花火大会のためにわざわざ人混みにのまれて疲れに行くのは嫌だった。毎年やっている花火大会で内容もほとんど変わらないのになんでみんな飽きないんだろうと思っていた。


 でも改めてちゃんと見ると感動的だし、こんなに綺麗ならそりゃあ毎年大勢来るよな、と納得できた。


「そういえば、なんか食べたのか?」

「ん?」

「焼きそばとか、チョコバナナとか、なんか食べた?」

「いや……全然」


 だよな。たった一人で屋台に並んで、食べるわけないよな。


「何が食べたい?」

「え?」

「買ってきてやるから、そこで待ってて」

「え、いいよ」

「遠慮すんなよ。俺も腹減ったし、買ってくるよ。焼きそばは必須だろ? あとは何食べたい?」

「……じゃがバター」

「あとは?」

「からあげ」

「それだけでいいの?」

「じゃあ、カステラ」

「分かったよ。買ってくるから、そこで待ってて」


 リュックから財布を持って立ち上がると、夏が俺の服の裾をつまんできた。


「え、なに? まだ食べたいのあった?」

「……ありがとう」


 驚いた。めったにこんなに素直に感謝なんて言わないのに。自分でも感謝を言うのに抵抗があったのか、夏はとても恥ずかしそうだった。


「すぐ戻るから待ってろよ」


 俺の言葉に、素直に頷く夏。そんな姿が愛おしくて、思わず頭を撫でてしまいたくなった。でも本当にそんなことをしたら、多分指をへし折られる。


 石階段を降りようとしたその時、とりわけ大きな爆発音が鳴った。急いで空を見上げると、特大の花火がいっぱいに広がっていた。


 空を支配してしまいそうなほど、その火花はどこまでもどこまでも伸びていく。


「すごい……」


 呟く夏の目は、花火色に染まり綺麗に輝いていた。

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