2・7 あなただから

――2007年8月――


 屋台は交差点から林の方まで長く続いていて、その先に神社がある。神社へ行くには、石階段を上る必要がある。それは何十段もあって、一番上まで行くときには息が上がるくらいだ。


 そんな眩暈がしそうなほどの石階段を急いで駆け上がる。頭上で咲く花火が余計に視界を目まぐるしくする。足元が暗くなったり明るくなったりで頼りない。一段一段石でできていて上りにくい上に、砂利が靴に入り込んで足が痛い。


 あと十数段、というところで確信した。


「夏!」


 階段の上で一人座って花火を眺めていた女が、びっくりした様子で俺を見た。花火に夢中で全く俺に気付いていなかった様子だ。耳元で、何かが煌めいている。


 ……桜のイヤリング。


 夏だ。やっぱり夏だった。石階段に人影が見えた時、まさかとは思った。でも本当にいた。夏だ。


「え……? 勇人?」


 夏は石階段にいた。


 小学生だったあの時と同じように、一番上に一人で座っていた。花火が始まってからどれくらい経ったのだろう。もっと早く見つけてやればよかった。ずっと一人でいたのだろうか。誰もいない石階段の上で花火を見ていたのか。


 一番上まで着くと、夏はひどく驚いて口をパクパクさせていた。空の色が変わるたび、夏の顔もカラフルに彩られていく。


「あ、あんた友達と見るんじゃなかったの? なんでここにいるの?」


 夏の左隣に座る。石階段のせいで石が尻に食い込んで痛い。こんな場所で夏が一人でいたなんて。


「いやだってさ……さっき……広場でお前の友達と会って……その……舞って人。それで、話聞いて……夏がまさか一人でいるんじゃないかと思って……」


 一息ついたせいか、呼吸が苦しくなってきた。息を整えるのが大変で途切れ途切れにしか話せない。

 部活を引退してからすっかり体力が落ちてしまった。汗が止まらない。汗で服が背中と胸にぴったりと張り付くほどだった。


「……わざわざ走って探してくれたの?」

「そうだよ。お前が……もしかしたら、一人かもしれないって思って……心配で来たんだよ」

「あんたの友達は大丈夫なの? 置いて来ていいの?」

「……わからん」

「なにそれ。平気なの?」

「いい」

「え?」

「お前が見つけられたから、もういい」


 首も、顔も熱い。俺だけ蒸されているみたいだ。


 どこから溢れ出ているのか、どっからそんな水分があったのか分からないくらい汗をかいている。多分服を脱いだら俺の背中はびっしょりと濡れているだろう。汗で服も体も濡れて気持ち悪い。今すぐ水浴びしたいくらいだ。


「……走ったの?」

「走ったよ。広場を一回りした後、屋台の端から端まで見た。どこ探してもお前いないからほんと、走りまくったよ」

「そんなに走らなくてもいいのに」

「だってお前一人ぼっちでいるかと思ったんだよ。花火始まる前に見つけてやりたかったし……」

「それで、こんな汗だくになるまで探してくれたんだ」

「そうだよ。お前、もっと見つけやすいとこにいろよ。なんでこんな端っこにいるんだよ」


 乱暴に言ったが、夏は怒らずに笑ってくれた。呆れ笑いに近いが、とにかく笑顔だった。


 辺りは暗いけれど、花火の明かりで照らされるたび夏の顔がはっきりと見える。昼間にチラッと見ただけだったが、改めて見ると、浴衣を着ている夏はどうしようもないくらい綺麗だ。

 そう思うのは俺くらいかもしれない。相変わらずブスだし、腰も太いし、もっと可愛い浴衣美人はくさるほどいるだろう。それでも、探し回って見てきた浴衣を着た人の中で、俺にとっては夏が一番綺麗だった。


 せっかく息を整えて鼓動を鎮めようと思っていたのに、夏のせいで一向に落ち着かない。花火のでかい音が聞こえるたび、夏が楽しそうに花火を見るたび、心臓が飛び出そうで体が緊張する。


 どこまでも届きそうなほどの爆発音。空には鮮やかな花火が一面に広がり、すぐに散り散りになって消えていった。空に散らばる火花は、星空のようにすら見えた。


「うわあ……。勇人、今の見た? 今の花火めちゃくちゃすごくなかった?」


 無邪気に笑う夏を見ると、どうしようもなく顔がにやけてしまう。花火どころではなくなる。思わず目線を下ろすと、夏の左手が、俺の尻のすぐ横にあるのに気が付いた。俺が夏の手を見つめている間にも、空は赤や黄色、緑に輝いている。

 俺は右手を、そっと動かした。


「えっ?」


 ずっと花火を見ていた夏が、ようやく俺の目を見た。急に手を触られて、ひどく動揺しているみたいだ。


「……嫌?」

「え……」


 夏が否定も肯定もしない間に、俺は覆い被さっていただけの手を動かし、夏の手を深く握った。さっき握った笹井の手とは比べ物にならないくらい、太い指。肉付きがよくて、赤ん坊みたいに柔らかい。


 走った時よりも、心臓の動きが重く体中を響いている。体が熱い。夏も俺ほどではないが緊張しているようで、目が泳いでいた。


「あんたの手、熱いね」

「そりゃ走ったから……」

「そっか」


 やっぱり好きだ。夏が好きだ。


 今なら素直に言えそうな気がする。流れに任せて言ってしまえそうな気がする。困惑させるかもしれない。もしかしたら今までの関係が壊れるかもしれない。それでも、今なら言えそうな気がした。


「夏」

「なに?」

「……なんで俺が走ったと思う?」

「え?」

「なんで、俺がこんなに必死になって走ったと思う?」


 夏は困ったように俺を見た。瞳が揺れている。


「お前だからだよ。お前だから、こんなに走って探した」


 花火が上がるたび、手の体温も上がっていくような、夏の手に触れている部分だけ熱を帯びていくような、そんな気がした。


「……あれ?」


 夏の目から頬にかけて何かの跡がある。それに暗くて気が付かなかったが、目が充血している。


「お前、泣いたのか?」


 尋ねると、夏は分かりやすく焦った顔をして、目を逸らした。何も言わない。否定も肯定もしない。


 いつ泣いたんだろう。一人で花火を見て、寂しくなって泣いたのか? 家族連れやカップルたちが賑わっている中、一人で花火を見ているうちに悲しくなったのか?


 夏ってそんなに涙もろかっただろうか。よっぽど悲しかったのかもしれない。夏は強がりで暴力的だけど、寂しがり屋だから。


 もっと早く見つけてやりたかった。花火が始まる前に捕まえて、一緒にいられたらよかった。


 いや、そもそも俺が夏を花火に誘っていればよかったんだ。映画館で花火の話をされたあの時に、夏を強引にでも。俺は夏と花火が見たい。そう言えばよかった。



 夏の手を強く握ってしまっていた。夏が戸惑っていたけど、俺は夏の顔が直視できなかった。嫌そうな顔をされるのが怖かったのと、もし今夏の顔をまともに見たら抱きしめてしまいそうだったからだった。


 花火の音が頭上で大きく鳴り響いている。大きな特大花火が夜空に光ると、枝垂桜しだれざくらのように咲き、時間をかけてゆっくりと消えていった。





 もうどのくらい経っただろう。


 夏と手を繋いだまま、空に広がる花火をじっと眺めていた。このまま時間を止めてしまいたかった。ずっと夏とこうして花火を見ていたい。


 でもふと、笹井のことを思い出した。笹井は無事、木田と合流できただろうか。冷静に考えて、物凄く彼女に悪いことをしてしまった。あんな形で置いてきぼりにして。後で死ぬほど謝らなければ。


 時計を確認しようと腕に視線を下ろしたその時、足元の白い何かが目に入った。……夏がアディダスの白いスニーカーを履いている。浴衣なのに、スニーカー?


「お前、この靴で来たのか?」


 夏はゆっくりと、足元に視線を下ろした。


「え? あ、これは……」


 俺は前から勘がいい方だった。


 夏の顔を見ただけでどれくらい怒っているのか分かったし、何を考えているのかだいたい察することができた。だからこそ早人の気持ちもすぐに分かった。それくらい、俺の勘は当たる。


 でも今回だけは当たってほしくなかった。誰かに「違うよ」と言ってほしかった。


 それなのに、さっきまで気が付かなかったのに、夏の背中の向こう側に見覚えのある黒いリュックが置いてあるのが見えた。そのリュックから下駄が一足、顔を出している。


 そうだ。夏が下駄を履いて家を出るのを俺は見ていたじゃないか。夏はスニーカーなんて履いていなかった……。


「……勇人?」


 聞き覚えのある、低くかすれた声。首を動かすと、やつがビニール袋を大量に持って階段の踊り場で立っていた。

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