2・5 夏を探して

――2007年8月――


 長身の男と手を繋ぎ、笑顔で歩いている女性。絶対に「舞」だ。


 それなのに、夏の姿がない。どうして夏がいないんだ。もしかしてはぐれた? それとも他の人と行くことになったのか……?



 たまたまかもしれない。今ちょうどトイレに行っているとか、夏だけ屋台に並んでいるとか、そういった理由かもしれないじゃないか。


 意味もなく思考する頭を振り回し、視線を外す。考えすぎだ。夏のことを考えすぎて、おかしくなっているんだ。


「人、多いね。杉山くん大丈夫?」

「あ? ああ……」


 人混みをかき分けて進んでいく笹井に、引っ張られるようにしてついていく体。これでいいはずなのに、なぜか胸騒ぎが収まらない。加速していく鼓動が重く内臓を打つようで気持ち悪い。

 重い足を一歩ずつ動かしている間に、あることを思い出した。


 そうだ、俺の勘は当たるんだった。いつだってそうだった。意味もなく不安になるのも、落ち着かないのも、何か理由があるのかもしれない。


 気付いたからには、どうしても確認したくなった。夏は今どこなのか、夏はどうしているのか。


「笹井、ごめん! ちょっといい?」

「え?」


 笹井の手を放し、その「舞」の方に走っていた。笹井が「どうしたの!?」と叫んでいたけど、振り返れなかった。気を抜くと、その人を見失ってしまいそうで。


 距離が近づくにつれてハッキリと顔が見えた。やっぱり間違いない。


「すみません! あなた舞さんですよね?」


 目の前に着いたところで、声をかけた。突然話しかけられて、相当驚いている様子だった。後退りし、俺の顔をじっと見つめてくる。


「……あなたは? なんで私の名前知ってるんですか?」

「あ、突然すみません。俺、高倉夏果の知り合いで……あの、夏は? 夏と一緒じゃないんですか? 夏があなたと花火大会行くって言ってたんですけど、今あいつはどこです?」


 俺が夏の名前を言うと、警戒した顔から一気に暗い表情になった。


「あ……ちょっと、別行動になって」

「え?」


 別行動?  夏は一緒じゃないってことか? 夏はこの人と花火を見ないってことか?


「その……私がこの人と二人きりになれるように、夏果が気を遣ってくれたんです。二人で花火見なよって言ってくれて……」


 横を見る。亀梨くんと山ピーを足して薄めたような顔の男が突っ立っていた。状況を理解していないようでポカンとしている。


「私は夏果と一緒にいたかったのに、あの子結構強引で……自分は邪魔でしょって言ってきかなくて……。私は他に合流できそうな人がいるのか何回も確認したんです。急だったし、人も多いから大変だと思って。でも夏果は『幼馴染が近くにいるから大丈夫』ってその一点張りで。それ以上は知らないです。ごめんなさい」


 幼馴染? 夏の幼馴染は、俺と早人しかいない。二択だ。


 もしかして……早人? 夏は早人といるのか? 人混みを嫌う早人を、無理やり連れてきたのか?


 いや、違う。早人はバイトだ。遅くなると言っていた。特に忙しい日で簡単に抜けられるわけない。早人じゃない。夏は、早人と来ていない。


 きっと気を遣って、咄嗟に嘘を言ったんだ。


「ありがとうございます。突然すみませんでした」


 お辞儀だけして、俺は笹井の方に戻った。笹井は心配そうな顔をして何かを言っているが、全く耳に入らない。耳の奥で、「舞」が言っていたことが反芻している。


 夏は今どこにいるんだ? 確かに浴衣を着て、出かけて行ったのに。


 バカみたいにでかい、「いってきまーす!」という声を聞いた。だから家にはいないはず。でも、早人といるわけもない。


 早人でもない誰かと一緒にいるのか? でも誰だ? そんな人いたか? そんな突然、一緒に回る人って見つかるもんなのか……?


 夏の交友関係をもっと知っておけばよかった。夏が頼れる友人がどれだけいるのか全く分からない。


「どうしたの? 何かあった?」

「あ……うん。ごめん」


 もしかして一人?


 夏ならやりかねない。コンサートのためにたった一人で東京に平気で行くような女だ。意地でもどこかにいるかもしれない。


 でも、映画を一人で見るのは惨めで嫌だと言っていたのに、花火大会は一人で平気なのか。知り合いだらけの花火大会のほうがよっぽど一人だと辛いように思える。一人ぼっちで屋台を歩いて、花火を見るなんて……。


「あそこ空いてるよ! とられる前に早く行こう!」


 笹井の手が俺の右手を握り、そして駆け出す。引力で俺の体は意図せず前へ引っ張られる。思わず転びそうになる。とっさにバランスをとる。脚に力が入る。力んだ足で舞い上がった土埃が、俺の靴の中に入った。土の香りが鼻につく。


 もし。もしもだ。


 もし、夏が一人で花火を見ていたら。早人にも俺にも頼れず、一人でこの人混みの中に紛れていたとしたら。


 分からない。俺の早とちりかもしれない。別に他に仲いい友達くらい、いくらでもいるはずだ。俺たちがいなくても、平気かもしれない。


「あ、とられちゃった。もっと奥行こうか」



『人生も同じで、いくら頭で考えたって実際にやってみないとどうなるか分からないし、やってみたら想像以上の展開になったりするだろ!』


 そうやって大声を上げた早人。なんの話だったっけ。チョコレート箱の話だっけ。

 

「……笹井ごめん。俺、行かなきゃ」

「え?」


 俺は笹井の手を振り払うように離す。笹井の目に動揺が走る。


「ほんとごめん! 木田が『じじじ射的』って店やってて、出店者枠で広場にいるはずだから、木田と花火見ててくれるか? 奥の方に、空いてるレジャーシートあるだろ? そこに『じじじ射的』って書いてあるはずだから! ほんとごめん! 一瞬、ほんとに一瞬だから、人探してくる! すぐ戻るから!」

「え!? 杉山くん!?」


 俺の勘違いかもしれない。運よく一緒に花火を見る相手が見つかったのかもしれない。


 それでも、もしかしたら他に人がいなくて、一人でいるとしたら。もしそうだとしたら、夏は……。


 分からないなら、開けてみるしかない。



 気が遠くなるほど広く、どこまでも続いている広場を走る。花火大会のために街灯が消えているせいで、全然人の顔が見えない。それにどこを見ても人だらけでキリがない。どこを見ても浴衣を着た女だらけだ。


 行く当てもないのに、一人一人の顔を見ながら走っていた。一人で歩いている女がいたらとにかく顔を見た。ピンク色の浴衣を着ている人も、違う色の浴衣を着た人も、とりあえず全員。


 当然だが、簡単には見つからない。


 夏ならどこに行くだろう。そもそもたった一人で、こんなに人が大勢いるような広場で花火を見るだろうか。夏ならどうするだろう。夏なら、もっと静かな場所にいるんじゃないか。


 広場の出口に向かって走った。その最中にも振り返って、見回して夏を探した。でもいくら見渡しても、知らない人が歩いているばかりだ。それに人の流れに逆らってしまっているせいでうまく進まない。いろんな人の顔を確認したくてもうまくいかない。


 男とすれ違った瞬間、肩が思いきりぶつかった。舌打ちのような音が聞こえたが、構わず走った。


『ここなら、人がいなくていいね』


 昔、夏がこんなことを言っていた。何年前だろう。


 早人と三人で花火を見に行った時。人混みのせいで、早人が「気持ち悪い」と言って、人気を避けたことがあった。

 必死に穴場を探して歩き回って、ようやく見つけた場所があった。確か何十段もある石階段があって、そこの頂上から花火が見えた。なんだっけ、どこだったっけ。


 いつの間にか屋台が立ち並ぶ場所に戻っていた。相変わらず人で賑わっている。屋台は俺とは正反対にお気楽で、笑顔で溢れている。


 屋台の隅から反対側に向かって走った。


 汗が背中を、首を、顔を伝っている。ただでさえ蒸し暑いのに全力で走り回っているせいで、尋常じゃないほどの汗をかいていた。

 汗が目に入って染みる。額から流れ落ちる汗を腕で拭くと、人混みで見えない向こう側に向かって走った。


 息が少しずつ乱れていく。急に走り出したせいでいつもより息が上がるのが早い。こんな急に走ることなんてないから、体が驚いているんだろう。


 俺が走っている間にも、太鼓の音が聞こえる。やかましいほどのその爆音は、楽しそうなリズムで一帯に響いている。軽快な笛の音が脳裏から離れてくれない。


 俺とすれ違っている人、みんなが笑っている。金魚を持って走っている女の子、かき氷を食べながら歩くカップル、うちわで顔を仰いでいる老夫婦。みんな俺と反対に向かって歩いている。

 俺だけが、ひたすらに遠ざかっている。俺だけが違う。まるで俺だけ別の次元にいるようだ。


『ねえ、これどう思う?』


 夏が俺たちに向けたその笑みが蘇る。バカみたいな理由で、バカみたいに真剣に、浴衣と向き合っていた夏。

 勉強もそれくらい真剣にやればいいのに、本当にバカなやつ。たかが花火大会で、たかが浴衣で、あんなに何時間も真剣に悩まなくてもいいのに。


 でも、そのたかが浴衣姿にどうしようもなく惹かれていた。浴衣を着た夏を見ただけで、俺は何も言えなくなるくらい動揺してしまった。

 言えばよかった。褒めてやればよかった。あんなに悩んでたんだもんな。なんでもいいから一言、伝えればよかった。



『皆様にお知らせします。花火大会はあと15分で開始いたします』


 間に合わない。花火が始まってしまう。


「夏! どこだ!」


 この声もすぐ雑踏に、音楽に、空に飲まれ、かき消されてしまう。俺の声なんて誰にも届いていない。叫びまわる俺の横を、笑顔ばかりが過ぎていく。


 まるで屋台が、音楽が、人々が、みんなで俺を笑っているみたいだった。

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