2・4② Run !

 まずい。


 いろんな意味で緊急事態。バカ真面目に休憩室にケータイを放置したせいだ。こんなことなら肌身離さず持ち歩けばよかった。

 

 もう18時20分。夏は家に帰ってしまっただろうか。


 慌ててもう一度夏に電話をかけたが、通話中なのか電源を切ってしまったのか、全くつながらない。センター問い合わせをしてみてもメールは18時3分以降何も届いていない。


「……星野さんすみません! 俺、用事できたんで行きます! ほんとすみません!」

「え? ちょっとどういうこと!?」

「ほんとにすみません! もう行きます! お疲れさまでした!」


 リュックを取り、急いで休憩室を出る。勢いよく飛び出したせいで椅子を蹴飛ばしてしまった。星野さんは「えぇ!?」と引いていたけど、構ってられない。



 店から花火大会会場まで歩いて30分くらい。走っても人混みを避けながらでは20分くらいはかかるだろう。


 花火は確か19時からだったはずだ。それまでに夏を見つけられるだろうか。というか、もう帰ってしまったかもしれない。いつまでも連絡をしない俺に腹を立てて、もういないかもしれない。家に向かったほうがいいだろうか。


 ……いや、夏ならまだ待っているかもしれない。頑固で、意地っ張りな子だから。人混みの中に一人でポツンといるかもしれない。


 夏に電話をかけながらとにかく走った。信号を避けながら、家族連れやカップルの横を過ぎながら、全力で。


 全力疾走なんて体育の授業以来だろう。普段運動を全くしないせいだろうけど、遅い。自分でも分かる。驚くほど足が遅い。このスピードでは花火までにつかないかもしれない。それにバイトで疲れ切ってるせいか体に力が入らない。うまく足が動かせない。


 自分の足音が一定のリズムで耳に届く。それと同時に自分の吐息も体に響いていた。少ししか走っていないのに、もう呼吸が乱れて苦しい。走るので必死で息がうまくできない。


 そういえば小学生の時、勇人が持久走大会に向けて毎日校庭を走り回ってたっけ。俺も走ればよかったな。勇人と一緒に体力つけておくんだった。持久走なんて大嫌いだったけど、少しくらい走ればよかった。勇人の足だったら、10分くらいで着いていたかもしれない。


 言うことを聞いてくれない足をなんとか動かす。息が苦しいけれど、顔が熱いけれど、それでも走らなければ。



『Run!』


 蘇るワンシーン。ジェニーの声に応えるように突風の如く走り抜けるその男。


 がむしゃらに走る自分と、大地を必死に駆け抜けるフォレストとが唐突に重なる。無我夢中で動かしていた遅い足が放たれ、俊敏になっていくようだった。そうだ。フォレストのように真っ直ぐ前を向いて、迷いなく突き進むしかない。


 間に合うだろうか。早く行かなければ。



 腹筋に力を込めたその時、つま先に何かが引っ掛かった。あ、と思った時には視界がぐわんと一回転していた。バランスを失った体は、そのまま地面に倒れた。


 地面に擦りつけられた左腕に痛みが走る。その弾みで左手からケータイが滑り落ちた。すぐに起き上がり画面を確認したけれど、運よく壊れてはいないようだった。


「大丈夫ですか!?」


 近くで自転車に乗っていた人が心配して駆け寄ってくれた。周りに立っていた人たちが、俺を物珍しそうに見ていた。


 恥ずかしい。いい年して子どもみたいに派手に転ぶなんて。しかもこんな大勢の前で。


 突然止まってしまったせいか、今まで気付かないふりをしていた肺の酸素を求める叫びがどっと押し寄せてきた。痙攣のように肺が活発に動く。体がその動きについて行けず、呼吸がうまくできない。


 息を吸って吐く。ただそれだけのことで精一杯で声が出ない。何か喋ろうとしても息しか出てこない。


 本格的に体が動かなくなる前に、さっさと走ってしまおう。俺はケータイを握り締め、また足を動かした。なんだか肘が痛い。それに脇腹も痛い。頭がぼーっとする。ふっ倒れそうだ。




 脇腹を押さえながら突き動かされるように走っていると、徐々に屋台の軽快な音楽が聞こえ始めた。縁日の楽しそうなお囃子はやしだ。遠くに屋台が並んでいるのが見える。


 ようやくここまで着いた。あと少しだ。


 屋台の方に向かう。全力疾走したかったけど、もう体が悲鳴を上げていて無理だった。持久走の後半戦のような頼りない足で、屋台が立ち並ぶ歩行者天国エリアに辿り着いた。


 夏はどこだろう。探したくても人が多くてなかなか進めない。それに広すぎて全く見当がつかない。

 

 自分の呼吸がうるさい。周りの雑音を鼓膜から消し去るほど、呼吸と心臓の音が爆音で響いている。


 汗が口に入ったのか、口の中がしょっぱくなった。それに痰が絡んで喉が痛い。咳き込むと喉の痛みが波紋のように体に広がる。



 夏はこの中にいるんだろうか。そこらじゅう浴衣を着た女子だらけだ。どこだ。夏はどこだ。


 夏に電話をかけようとケータイを握った時、初めて自分の手が震えていることに気が付いた。うまくボタンが押せない。痙攣を抑えるように、両手でケータイを握りしめ、なんとか夏に電話をかけた。


 聞き慣れた着信音がケータイから鳴り響く。



 まるで迷路みたいだ。どこを見ても、何を見ても、自分がどこにいるのか、どこに行こうとしているのか分からなくなる。さっきも見たような人、店、街頭。祭りのために設置された照明がチカチカして目が眩む。


 どんなに探しても、人の顔を見ても、夏が見えない。こんなに人がいるのに、こんなに人がいるからこそ、夏が見つからない。夏だけがいない。



『皆様にお知らせします。花火大会はあと15分で開始いたします』



 頭上で鳴り響くアナウンス。耳元で鳴る着信音。待ちきれず、通りを駆けた。人混みを避けながら、肺の痛みを感じながらただ走った。屋台に並ぶ人、行き交う人、立ち止まっている人。すべてが同じに見える。


「頼む出てくれ……」


 俺がどんなに祈っても、ケータイから聞こえたのは着信音だけだった。

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