2・4① 殺害予告

 忙しいのは分かっていた。ある程度覚悟もしていた。


 それでも想像の100倍くらい目が回った。水分補給を躊躇うほどあっちからもこっちからも注文が入るし、少し油断するだけで洗い物の山ができあがってしまう。



 花火大会の会場は駅から歩いて20分くらいの場所にある。普段は草野球チームしか使っていない空き地がメイン会場だ。駅からそこまでは屋台が立ち並び、歩行者天国化する。


 テツさんの店はその会場から逆方向の場所にあるのに、花火大会の前に腹ごしらえをしたいためか家族連れもカップルも大勢来店してくる。バイトがいつもより4人多くいても切った野菜は一瞬で消え、使用済み食器が溢れかえり、厨房は地獄絵図になる。



 シフトが終わる18時までの辛抱だったのだが、それでも俺は帰りたいという気持ちしか脳内を占めていなかった。次々と運ばれてくる汚れた皿を見る度に、叩き割ってしまいたくなった。


「ニラレバとからあげとトンカツ!」

「あいよ!」

「親子丼追加で!」

「あいよ!」

「こっちはカツ丼です!」


 こんな感じでひっきりなしに注文が入ってくる。


 大学生バイトの星野さんはバイト着が変色するくらい汗をかいていたし、パートの森野さんは半分白目を剝いていた。


 それでもなんとか全員が正気を保っていられたのは、テツさんが熱中症対策として大量の飲み物を用意してくれていたからだ。


『差し入れ! 好きなだけ飲め!』


 こんな張り紙とともに水や炭酸飲料、スポーツドリンクなどのペットボトルが休憩室に大量に置かれていた。


 だけどいくら水分を補給したところで忙しいのには変わらない。次々と浴衣を着た客が店に入ってくる。それに酒でできあがった中年客が不必要に絡んでくる。ただでさえ忙しいのにそんな客の対応もさせられるのだ。いっそ圧力鍋で頭を殴って気を失ってしまったほうが身のためのような気がした。





 地獄が終わったのは18時過ぎ。シフトが終わっただけなのに、それが何よりも嬉しくなってしまい涙が出そうになった。


 俺はそのまま休憩室へ直行し、椅子を並べて簡易ベッドを作り、横になった。やっと体を休めることができる。体が鉛のように重い。全身から根っこが生えたようにそこから動けなくなった。


 もう二度と立ち上がれないかもしれない。


「お疲れ様」


 バイト仲間の星野さんだった。俺と同じように疲労困憊状態のようで、げっそりとしている。星野さんが結んでいた髪を解くと、長い茶髪の髪がシャンプーのCMのワンシーンのように綺麗に波打った。


「あ……お疲れ様です」


 失礼だと分かってしても、俺は寝転がったまま返事をするので精一杯だった。起き上がる元気など無かった。星野さんは特に咎めることなくそのまま椅子に座り、テレビを見始めた。


「あと1時間で花火始まるね。杉山くんは行かなくていいの?」

「俺ですか? いや……そんな元気ないですよ」

「一緒に行く彼女とかいないの?」

「いたら今日バイトしてませんよ」

「そっか。悪いこと聞いたね」

「気にしてませんからいいですよ。星野さんこそ彼氏さんと行かないんですか? なんで今日バイトなんだよ、とか言われませんでした?」


 何気なく尋ねたつもりだったが、星野さんは気まずそうに笑った。


「あたしね、最近彼氏と別れたんだよ」


 その言葉に、俺は思わず上半身を起こしていた。


「え、マジですか? つい最近ディズニー行ってたじゃないですか! お土産買ってきてくれてましたよね?」

「そうなんだけど……向こうが他に好きな人できたとか言ってきて、つい先週別れたの」


 先週? 超タイムリーじゃないか。


「あ……すいません。余計な事言って」

「いいよ。もう気にしてないから」


 「気にしてない」と言っているが、絶対そんなことないだろう。星野さんの表情がそれを物語っている。


 つい最近までディズニーランドに行っていたカップルがこうも簡単に別れてしまうのを見ると、人間関係って深い方がいいのか浅い方がいいのか分からない。


 適度な距離を保っていたほうが関係は複雑にならずに済むだろう。親密になるからこそ関係に傷が付いた時のダメージは大きくなる。


 でも誰に対しても距離を作っていたら、いざというときに頼れる人がいなくなってしまう。それはそれで寂しい。ただ、心から信頼し交流していた人との関係が突然終わってしまったら精神的に辛くなる。そんな痛手を負うのは怖い。


 ……こんなことをわざわざ考えているから、俺には友達がまともにいないんだろうな。



「ねえ、もしよかったらさ、これから二人で花火見に行かない? 焼きそばとかなんでも奢ってあげるよ。二人でバイトお疲れ様会しよう」


 突然だった。口にこそしなかったが、「正気か?」と思ってしまった。


「え……本気ですか? 花火行くなんて更に疲れるじゃないですか。お疲れ様会じゃなくなりますよ」

「あのさあ、そんなこと言うから杉山くんはいつまでも彼女できないんだよ」

「うわあ、言いますねえ」

「で、どう? いいでしょ? 花火自体は見たいからさ、付き合ってよ」

「え……うーん……でもテツさんがまかない作ってくれるらしくて……」

「花火行くんでいらないですって言えばいいじゃん。なに、君は傷心中の女性を癒してあげようとか思わないわけ?」


 どうするのが正解なのだろう。やんわり人混みが苦手なことを言うとか、ストレートに行きたくないというとか……。


 夏の迎えまでの時間、まかないを食べながらぼんやり過ごそうと思っていたのに。今からあんな混雑した場所に行くと思うと気が遠くなる。


「杉山くんは花火大会行ったことないの?」

「いや、小学生の頃は毎年行ってました」

「え、じゃあなんで行かなくなったの?」

「……なんででしょうね」


 花火大会は、ほぼ毎年三人で行っていた。


 金魚すくいだけで千円も使ったことがあるし、大きな綿あめを三人で仲良く分け合って食べたこともあった。焼きそばを食べた時には、みんな青のりが歯についていて、お互いの顔を見てで大笑いしていた。


 でも二人がクラスメイトや部活仲間といったいろんな人と行くようになって、いつの間にか三人で花火を見ることはなくなった。それから俺は花火大会に行かなくなった。


 中学生の時クラスメイトに誘われたことが一度だけあったが、人混みの中を歩くのが心底面倒に感じてしまい断った。今まで普通に行っていたのに、行く相手が同級生となるとなぜか面倒に感じたのだ。


 その時、俺は二人がいたから花火に行っていたのだと思い知った。


 花火ではなく、三人で過ごす時間が目的だった。三人で金魚すくいをしたり、わたあめを食べたり、焼きそばを分け合ったりしながら、ブルーシートの上とかベンチとか屋台の脇で花火を見るのが好きだったのだ。


 勇人と夏以外の人とは行こうとも思っていなかった。二人が行くなら俺も行く、行かないなら俺も行かない。そんな感覚だった。




 相手に配慮した断り文句は何か考えていると、床に放っていた俺の黒いリュックが目に入った。そこに突っ込んでいたケータイがチカチカと光っている。


 メール? 着信? 誰だろう。


 疲れて痺れている腕を何とか伸ばし、画面を開くと『18:14』という現在時刻の表示とともに、着信履歴が10件も溜まっているのが見えた。メールに至っては30件も溜まっている。


 電話帳に登録されている人数がそれほど多くない俺にとって、その数は異常だった。今日の店くらいの異常事態。


 何事だろう。事件でもあったのだろうか。


 差出人を確認すると、全て夏だった。夏がこんなに連絡してくるということは、やっぱり何か事件が起きたのか、もしくは俺が何かやらかしてしまったのか。


 とにかく夏に緊急事態が起きたのは確かだ。すぐに折り返し電話をしてみたものの、夏は電話に出なかった。とりあえず何が起きたのか把握しなければ。メールを開き、古い順から確認した。




『15:45 お兄ちゃん今バイトだよね? 何時に終わる?』


『15:46 お兄ちゃんが間に合うならさ、一緒に花火見ない? いきなりでごめん』 


『15:52 実は今一人なんだよね。ついさっきまで舞と一緒にいたんだけど、舞が片思いしてた先輩とバッタリ駅で遭遇してさ。そしたらその先輩が一緒に屋台回ろうかって言ってくれて。こんなの私お邪魔虫じゃん。だから二人きりにさせて逃げてきた』


『15:53 間に合うならこっちに来てくれない?』


『15:56 突然でほんとごめんね。でも親友のために身を引いた私も偉いよね? 偉いと思うなら来て』


『16:07 もしかして閉店までバイト? そんなわけないよね? 花火に間に合う? 返信してよ』


『16:09 とりあえず私駅にいるから』


『16:17 ほんとに何時に終わるの? ケータイ見れないほど忙しいの?』


『16:28 人混みが面倒でわざと無視してんの? そんなに嫌?』


『16:37 せめてバイトが何時までなのかくらい教えてよ』


『16:57 もう屋台始まってる。一人じゃつらいんだけど』


『17:02 いまマックにいる。めっちゃ混んでる。長居できないから早く来て』


『17:34 人すごいからとりあえず公園に避難してきた。早く返事して』


『18:03 来てくれないならもう帰る。せっかく浴衣着たのに。花火見たかったのに。大っ嫌い。帰ったら殺す』

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